知の編集工学
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随分と久しぶりに、それこそ10年ぶりぐらいに読み返してみたら、これが大変に示唆的なのだった
当時の自分は何を読んでいたのだろうか、というぐらいに新鮮に読んだ
本書における最大の教えとは
思考とは、思想とは、概念同士、言葉同士、情報同士の繋ぎ合わせなのだ、ということ
情報そのものが、言葉そのものが、概念そのものが大事なのではなくて
その繋がりあい方、あるいは繋がっていることそのもの、あるいは新たに繋がろうとする運動
そこに意味があり、それが価値なのだ、ということ
最終盤に、こんなことが語られている
なぜ情報は、人間は、一人でいられないのか
投げ出された(プロジェクト)存在だからだ、という
プロジェクト、という言葉が不意に顕れて、吃驚したのだった
改めて、因縁浅からぬ書であると感じた次第
以下、重要箇所の引用
ようするに、編集というしくみの基本的な特徴は、人々が関心をもつであろう情報のかたまり(情報クラスター)を、どのように表面から奥にむかって特徴づけていくかというプログラミングだったのである。ラグビーの試合とか、グルメ情報とか、宇宙開闢のビッグバンとかの「情報の箱」に近づく人々に、次々に奥にある情報の特徴を提供していく作業、それが編集というものなのである。
編集とは「該当する対象の情報の構造を読みとき、それを新たな意匠で再生するものだ」ということ
さきほど、私は「リンゴ→赤→血→けが→スポーツ・・・・・」という連想を紹介した。この連鎖で何がおこっているか、さきほどより事情が見えるのではないかとおもう。そうなのだ、私たちは「リンゴ」と「赤」という言葉どうしを直接に結びつけているのではなく、<単語の目録>と<イメージの辞書>と<ルールの群>とを駆使して、次々に"関係”を繰り出しているのだ。
そこには、単語のレベルではあらわれてこない多くの「見えない情報連鎖」がおこっている
できてコンピュータが苦手とする能力の第一は、人間はそれまでのさまざまな経験をいかして情報を処理・編集しながら、同時に適切な表現様式を自在に選んでいるのにたいし、コンピュータにはそれがなかなか難しいということである。
その理由のひとつは、人間の知的判断には必ずや「感情と行為がともなっている」ということにある。感情と行為がともなっているために、私たちの知的判断はずっとすみやかで、なめらかなものになっている。なぜなら、感情や行為は判断がくだされる領域を身体の内外につねに拡張し、たとえば子供が本を読むときに指で一行一行をなぞるように、ひとつの知的行為をひとつで終わらせないで、いくつもの並列動作や並列感情をともなうようにしているからである。ところがコンピュータにはこの"意味の拡張”がわからない。
このことは第二に、従来のコンピュータではやりにくいのだが、人間の知的判断にはだくみな「役柄のふりあて」や「役柄の変更」がおこっているということを意味する。
第三に、私たちには「部分と全体を適当にとりかえながら判断を進める」ということができるのだが、コンピュータはこれがヘタくそだ。
たとえば、街の一隅にある自転車を見ているとき、われわれは自転車の全体をパッと見て、次に急にハンドルの曲がりぐあいやスポークの光りぐあいに目をやり、また全体をチラリと見て、「ふんふん、これはスポーツ自転車のようだな」などとおもう。その視点の入れ替えの最中に急速に知識を動員させているわけだ。
したがって第四に、人間は状況に応じて問題解決のための方法をたえず発見的に編み出しているのだが、その点でもコンピュータはつまずいてしまうということになる。
これは「ヒューリスティックス」(heuristics)とよばれる能力で、人工知能の分野でもいっとき話題になっていたものなのだが、残念ながらなかなかヒューリスティックにはなれないままにある。おそらくコンピュータが(そして技術者が)試行錯誤を恐れすぎるという宿命をもっているせいだとおもわれる。
そのほか気がつく点を第五にまとめておく。
従来のコンピュータに問題があるのは、自然言語を理解できずにあいかわらず機械言語にたよっていること、非言語情報を処理するための能力がいちじるしく劣っていること、自分でルールを変更できないこと(また、自生できないこと)、答えの仮説の方から問題の方に逆向きにさかのぼれないこと(テーブル・ルックアップ能力に知けていること)、似ているものの認識範囲が狭すぎること、また象徴性としてまとめる能力が乏しいこと、五感に関する感性的な情報処理機能がなかなか上達しないこと、などなどである。
こんなふうにあげているとキリがないが、私はこんなことを並べて、これまでのコンピュータの久陥をあげつらおうとしたわけではなかった。そうではなくて、むしろ「賢い」とか「インテリジェントだ」という幻想をもちすぎないほうが、今後のコンピュータ・テクノロジーの発展にはずっといいし、もっと正確にいえば、こうした人間とコンピュータの能力の比較の差を埋めるという計画だけでは、あまりおもしろい展望は出てこないのではないか、ということを言いたかったのだ。
机の上にコップがある。
このコップを見ているということは、そこに注意を向けているということである。この「注意を向ける」ということが、編集を起動させる第一条件で、そこに注意を向けないかぎり、どんな編集もおこらない。
注意とは、わかりやすくいえば、その対象にイメージの端子をそそぐことである。コップならコップという区切りを自分に対応させるのである。コップから注意を離すことも可能だ。
机の上のコップの隣に電話機があれば、そこに注意をすばやく移すことになる。そしてコップと範話機だけに注意が向けられたという記録が残る。それ以外の、空気とか机とか、机の上にのっているものとか、埃とか色とかは、背景に消し去られる。
もともと情報には、情報の「地」(ground)と情報の「図」(figure)というものがある。
「地」は情報の背景的なものであり、「図」はその背景にのっている情報の図柄をさす。
脳の中は、知識やイメージを無数の「図」のリンクを張りめぐらしているハイパーリンクなのである。これを意味単位のネットワーク>とよぶことにする。コップはひとつの意味単位であり、ガラス製品もひとつの意味単位である。それらが次々につながり、ネットワークをつくっている。けれども、そのネットワークは一層的ではない。多層的(マルチレイヤ的)で、立体的である。そのため、これはえらそうな思想家たちがしばしば口にすることであるが、「言葉は多義的である」などと感じられることになる。
このような<意味単位のネットワーク>を進むことを、私たちはごく一般的に「考える」と言っている。「考える」とは、ひとまずネットワークの中の「図」のリンクをたどってみるということなのだ。ただし、ここでひとつ重大な問題が出てくる。それは、ネットワークを進むにしても、どの道筋を進むかということである。つまりどこで分岐するかということだ。それによっては千差万別の考え方になってしまう。そこで、ある道筋を進んだとして、そこで「あっ、これはちがうぞ」とおもって、ひとつ手前の分岐点に引き返すというようなことがおこることになる。もっと以前の分岐点にまで戻ることもある。何度も引き返しはおこることだろう。
このジグザグした進行が、「考える」ということの正体なのだ。それが<ハイパーリンク状態>である。思想とは、畢竟、そのジグザグとした進行の航跡のことにほかならない。
コンピュータにおいては、この「考える」という進行をうけもつのはプログラムである。
プログラムとはあらかじめネットワーク分岐の進行表をつくっておくことをいう。それをプログラミング言語という機械語で書くことである。コンピュータは機械語しかわからない。
しかし、たとえ機械語であれ、そこに書かれる内容はごく単純な命令のくりかえしなのである。
行為とか思考というものは、私たちが<意味単位のネットワーク分岐>を次々に進む様子のことである。
そもそも情報とは区別力である。差異である。
AAAAAというふうに、同じAばかりが並んでいる情報のクラスター(かたまり)からはほとんど情報はえられない。AABAA、AABBAなら、かなりの情報になる。手がかりがふえている。かつて第二次世界大戦は「暗号戦争」ともいわれたが、この手の暗号情報が東西で乱れとんだものだった。もともと「情報」という言葉が流行したのも、このような暗号戦争のせいで、情報部員とか情報戦争というばあいも、こうしたニュアンスがある。戦前の日本ではいっとき諜報部員という言葉もつかった。最初の情報理論もまた、こうした戦争のさなか、クロード・シャノンの通信理論やノパート・ウィナーのサイバネティクスをもとに出発をした。
もっと一般的に情報を定義すれば、「情報とは、それが出現してくる不確実性の中から特定な選択をみずからにくだすもの」ということになる。特定な選択をみずからにくだすには、そこに区別がくだされる必要がある。この区別の単位が、情報科学でビットとよばれているものだ。
私たちのコミュニケーションにおいては、情報交換の構造が先にあるのではなく、その場に生じている先行的な編集構造が先にあるわけなのである。
そして、その先行的な編集構造を観察しながら、私たちはその中から意味を拾い出す。それは、私たちがもちあわせているエディティング・モデルをそこへ投げ出すことであり、そうしたエディティング・モデルにリンクしている編集レパートリーの断片を、投げ縄エージェントのようにして、あれこれと打診していることなのだ。
岩波文庫で七冊にもおよぶヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル』が、なぜたった数+ページの絵本になるのだろうか。情報圧縮がおこっているからである。では、その『レ・ミゼラプル」は、なぜ二時間の演劇やミュージカルになるのか。編集可能性が行使されたからだろう。
しかしこのことは、よく考えると不思議なことである。「レ・ミゼラブル』が絵本やミュージカルの「ああ無情」になるということは、どんなコンテンツもあらゆるメディアに変換できるということなのである。のみならず、それは日本語にもなるし、子供用にもなり、またパロディにもなる。
これは「文化」というものの本質的な共用性や汎用性をあらわしているものではないだろうか。かつて古代に構想された神話的な物語が何度も何度も編集されて、踊りになり演劇になり、文学作品になり、その手直しになり、その発展や翻案になり、それがさらにミュージカルや劇画になっていったと考えられないだろうか。文化とは、メディアをまたいで内容を編集しつづける作業のことだとみなせないだろうか。
しかり、文化は編集なのだ。