書けているのか問題
概要
研修の場などでよく聞かれるのが、「書いてみたが、これはプ譜になっているのか」というもの
基本的には、あらゆる場面で「なっている」と答えている
それはお世辞とかそういうことでなく
「書けていない」とか「表現として不完全」であることも含めて、重要な情報だからだ
ありのままの自己を表現したほうが、周囲の調整が働きやすい
そういう意味で、稚拙な表現でも、空欄が残っていても、その人なりに一生懸命書いていて、その人らしさがあれば、それは「書けている」
一方で
表現として秀逸なものもあれば、平凡なものもある
まぁ、プ譜は成果物ではなくプロセスなので、表現としての巧みさを競うものではないのだから、どちらでも良いのだが
とはいえ一方で、「おっ」と思わせる表現には、確かにおそらく「なにか」があるのは間違いない
優れた表現は、ある種の要件を満たしている
では、優れたプ譜の要件とは?
これが、なかなかうまく言えない
俳句に喩えてみようか
俳句の原則
一般的なルール
季語を使う
5,7,5文字で分節する
しかしこれを満たしても、俳句になるとは限らない
ある種の風味や余韻が感じられなければ、俳句とは呼べないのである
典型的な、稚拙な俳句
例えば初心者の作ってしまいがちな俳句、いや俳句風のポエムというべきものがある
春が来た森の熊さん遊んでる
いい月だうさぎがぴょんぴょん跳ねている
夏休み父さん枝豆ぼくすいか
俳句、というより、ポエム、という感じ
韻文、というより、散文、という感じ
表現されている題材が定型的、紋切り型
いかにも子どもが作ったような感じ
こうした子どもっぽい表現から脱皮するのが俳句修行の入り口であり、それはある程度、メソッド化されている
動詞の多用を避ける
切れ字を適切に使う
文語調にする
歴史的仮名遣いを用いる
季語を吟味する
モチーフを取り合わせる
こうしたことに気をつけていくと、ある程度、俳句っぽくなる
しかし、そうした要件を揃えていっても、上手なお習字、みたいなところにしかいけない
ちなみに
最も前衛的な最高の表現のひとつに
「墓の裏に廻る」という作品がある
季語もなければ、5,7,5でもない
これが俳句なのかと訝しがる人も多いが
まぎれもなくこれは俳句なのである
俳句とは
確かに言語表現なのだが
ただいたずらに言語操作をしたとしても
俳句らしきもの、にしかなれず
俳句そのものを体現するわけではない
ではその本質とはなにか
言葉の問題である以前に、精神の問題であり、視線の問題なのである
その場、その瞬間でなければ成立しない、極めて個別具体の一瞬がある
十七文字という、およそ情報量としては乏しい文字数で、その瞬間を表現しきるのである
その瞬間の一部でなく、全部を表現するのである
季語はそれをなすための非常にありがたいよすがである
なぜなら、季語には豊富な意味があるから
季語とは、その風土における暮らしの、記憶の集積なのである
過去、あまたの作品によって蓄積されてきた記憶
深く、高くつみあげられたイメージの基盤
そこに立脚しつつも埋没せず、新たな一枚を加えるのが、良い俳句の要件である
その時、その人、その場でなければ顕現しなかった表現
それが優れた俳句である
ちなみにそれは
いたずらに「オリジナリティ」や「独創性」を追求しよう、というのとも、ちょっと違う
「我の我の」という自己主張が強い俳句は、良い俳句にならない
つまり、良い俳句とは
紋切りでなく、凡庸でなく
さりとて独創でもなく
実は、プ譜にも、同じことが言える
非常に少ない情報量で、その取組の全体を表現する技法である
すべてを言い尽くすことは、原理的に不可能なのである
だからこそ、形式で縛る
縛るからこそ、広がりが生まれる
その時、その人、その場という固有な事象を表現する
にも関わらず、本当に優れた表現は、万人の直観に働きかける普遍性を持つ
そうした表現のために必要なこととは
まずもって、切る、分節化をする、ということである
その後に、組み合わせる、ということである
表現された言語は、表現行為の残滓のようなものであり
どこをどう切り取って、なにとなにをあわせたのか、そのプロセスこそが、表現の内実なのである
表現の豊かさとは、そうした思考の豊かさなのである
優れた表現のためにはまずもって、「見る」ことが必須である
紋切りで見てはならない
よく見る
じっと見る
固定観念や色眼鏡を退ける
リアルそのものに迫る
あらゆる既成概念を解体する
解体し尽くした先に、ふたたび立ち上がる世界がある
その世界を写し取る
そういう行為を
芸術的な風味のある行為としてすれば俳句になるし
経済的なものとしてすればプ譜になる