手段の目的化
概要
とかく、手段の目的化は戒められている
しかしその内実を考えている人は少ない
だから、いつまで経っても、今日もまたどこかで手段が目的化していく
手段の目的化とはなにか
手段の制約に囚われることである
ある目的Xがあったとする
それを叶える手段の候補Aがあったとする
Xの要求=Aの機能であれば、なんの問題もない
しかし、だいたい、そうはならない
AはXの一部を満たすが、全部ではない
確かにXを満たすが、それが成立するための前提条件が厳しい
Xを満たすが、望ましくない副作用Yも誘因する
等
そのうち、Aでやれることを前提に、叶えられる目的Yを考え始める
これが、手段の目的化の内実である
こうして整理すると、なんて莫迦莫迦しいと思うかもしれないが
あらゆる人がこの構造の虜なのである
場合によってはもっと酷いことも多い
例えば
Aを使うことが、Xとはなんら関係のない事情Pにより規定されている
Pのために、AがXに役立つことを立証せねばならないが、原理的に不可能
まったく異なる手段Bの助けを借りて、それを叶えることになる
しかし表向きBの存在は隠匿される
他の例だと
Aの採用を意思決定し、予算措置その他の公的手続きが実行される
進めた結果、Aではダメだということが判明する
本来ならば軌道修正すべきところだが
そのことを明るみに出すと失われる社会的信用Qが発生する
Qの発生を防ぐために人海戦術作戦Jが発動される
表向きJのエピソードが後日美談として紹介される(Qは隠匿)
よくある例
手段が目的化していることに気付く
手段は目的化してはならぬと戒める
指令「AはXの手段である、ゆめ、履き違えぬよう」
現場「AはXには役立たないので、手段Bを採用したいです」
指令「それはまかりならん。Aは本ミッションの前提である」
現場「???」
指令「だから、手段の目的化みたいな恥をかかぬよう、正しくXのためにAを用いよ」
現場「………」
※気の利いた部下は、上司に恥をかかせないという新たな目的Rを設定する
よく、○○は手段にすぎない、という言い方がされる
しかし、その言い方はフェアでない
それじゃあ、手段が可哀想だ
多くの場合、そもそも目的の立て方が不味いのである
どのように目的を置けば良いかをわかっていない人が多すぎるのだ
目的とは
現実的に叶うものでなければ、設定する意味が生じない
同時に、叶えることに、意味がある内容でなければならない
両立する(X,A)を発見するのは、極めて至難の業なのである
人間は、未来を見通すことはできない
だから、常に結果論でしか語られない
そう考えると
手段の目的化は、避けようのない宿命なのである
この軛から逃れる方法が、ただ一つだけある
正しい時に、正しく判断する
これだけ
それを具体的にどうするかは、また別の機会に