大組織がイノベーションを主題化してしまうと陥る落とし穴
組織的に、イノベーションそのものや、イノベーション人材育成を主題的に掲げる、というのは、もしかしたら、一番やってはいけないことなのかもしれない。そして、歴史ある大組織の事業会社が、そのために、アジャイルやデザイン思考の経験者を中途採用する、というのは、そうした取り組みにおける一番の「うまくいかないパターン」であり、同時に一番の「どこでもやりがちなこと」なのかもしれない。
実に勿体無いと思うのだけれども、アジャイルも、デザイン思考も、「すごいらしい」という印象論以上に深く考えようという人が少ない。それらの経験者を受け入れる側の組織の人たちの典型的な反応は「遠慮」であり「敬して遠ざける」である。彼らは一様に、自社の培ってきたオペレーションにはとてつもなく強い自信を持っているが、事業開発とかプロジェクト活動に対しては、とてつもなく臆病である。
一方で組織への新規参入者であるところの「経験者」や「資格取得者」の方々から受けるのは「教科書を読み、なぞっている」とか、「小さな成果を元手に誇大広告してセルフブランディングしている」という印象である。ゆえに、入社した組織に、深く踏み込み、馴染むということができない。だから、会社の中で、なにをやっても浮いてしまうだけで、事業としての成果にならない。内心を推察すると、焦りとともに「教科書通りのアジャイルがちゃんと実践できたら違う結果になるはずなのに」と、成果がでない理由を組織の側に位置付けて自己解決を図ろうとしているように見える。
俯瞰して見れば、アジャイルなり、デザイン思考なり、そうしたものが扱われる文脈において、主語に事業や顧客がくるよりも、まずもって、机を並べる人間同士の序列争いが先行しているのである。人情としては自然なことだが、大組織のイノベーションを担おうかという部隊の内実としては、実に情けない話ではある。
まぁ、ここに登場する各個人が、本当に歴史ある大組織を変革する動機など、初めからどこにもないのである。彼ら彼女らは、自分たちの年収とキャリアを問題にしているのであって、歴史的な大状況については、他人事なのである。
そしてかたやで、実際、確かに、組織の意思決定者の側は、アジャイルやデザイン思考について、信用も理解もしていない。ゆえに、それらの理論の、教科書通りの実践への道は、実質的に、閉ざされている。とはいうものの、プロジェクトの本質からいっても、「教科書通りやったってしょうがない」という直感自体は、あながち、外れているとも言い切れないのだ。
結果として、イノベーション人材の人材要件とはなにか、とか、イノベーションを起こすための多産多死を起こすための社内ルールをどうしようか、とか、PoCをやる作業を効率化する仕組みを作ろう、みたいな、空中楼閣を作り上げる議論ばかりが盛り上がって、実際に新しいことを考える、やる、という実務が、果てしなく空洞化していく。
そして、実を伴う成果が生まれていないことをオブラートにくるむために、やたらめったらとプロジェクトを立ち上げ、走らせ、兼任に兼任を重ね、会議でスケジュールを埋め、忙しさを演出する。そうこうしているうちに、外の事業者に支払うための予算がつけられ、キラキラした提案がもちこまれ、火に油を注いで回る人たちの出番がくる。
こうした一連の連鎖反応が、こうした組織に関係する関係者全員にとっての不幸を拡大再生産している。
ちなみに、それらの理論は、中小ベンチャー・スタートアップ的な文脈や一匹狼フリーランサー文脈では、普通にオーソドックスな手法として根付き始めているようにも思える。実務として有用なメソドロジーは、実務家にとって有用だと理解されれば、宣伝せずとも、ブランディングせずとも、生き残っていく。
あるいは、大組織においても、ことイノベーションとかそういうお題目を掲げない、もっと切実な危機感を抱えた場合のほうが、かえってすんなりアジャイルなりデザインなりの思想に共鳴しているように見える。
そんなことをつらつらと思うなか、最近、イノベーションそのものや、イノベーション人材育成を主題的に掲げた組織の長のポジションについて、収斂進化という言葉を連想したことがあった。
そういうポジションに就く人は、高い確率で「非イノベーション志向で、政治的(あるいは官僚的な)立ち回りに長けた、従来型の、いわるゆ中間管理職的な、調整型のキャラクター」である、ということだ。統計を取ったわけでもないし、サンプル数も多いわけではないので、確信的推論の域はでないんだけれども、なんとなく、この直感は正しいのではないかと思っている。
もしかしたら、大組織のなかで、本当にイノベーティブな人は、そういうポジションに就きたいとは思わないし、大組織としても、本当にイノベーティブな人に、そういうポジションに、就いて欲しいとも、思っていないのかもしれない。企業とは、どうしたって、ルーチンワークの日常を再生産したいものであり、そのストレスも含めて、愛しているのだ。変わらなきゃ、というお題目には付き合うけれど、本当に変わりたいとは、本心からは、思っていない。本当に変わるということが、どういうことなのか、想像すらつかないでいる。変わるということに対して、恐怖心の方が、まさっている。
いま、メディアで毎日のように報道される「失われた◯◯」とか、生きづらさとか、一部の辛い事件は、こうした社会の惰性の結果である。将来ある人材を、就職試験に突破したというだけで、安定という名の牢獄に閉じこめるのは、誰にとっても得をもたらさないと思うのだが…
集団的な協調の結果、そうした座組みが自然発生的に生じてしまう以上、これを解決するのは容易ではないと思われる。
おそらく、組織がどうのこうの、ということではなく、いち個人の単位で、どうするのか、という問題から、始めなければならないのだろう。
今後、日本社会における、アジャイルなりデザインなりの各理論のプレゼンスは、どのように変化していくのだろうか。我先にと積極的に扱ってきたdocomoのような会社もあれば、後塵を拝してきた、としか言いようがないような状態の会社もある。そういう文脈に、意思を持って関わりを持たないようにしてきた会社もある。関わりを持たないようにすればうまくいくかというと、必ずしもそうでもないのが、また難しいところである。
ちなみに、アジャイルともデザインとも似て非なる文脈で、新価値創造の快進撃がめざましいのがニンテンドーである。そのことについては、もっと広い角度から考えないといけないことが、山ほどあることは間違いない。
ことほどさように、ローカルな状況にはかなりの多様性があって、一概には語りにくいが、諸外国から入ってくる情報も加味すると、ある程度普及はしきっており、今後は幻滅もされつつ衰退なり定着なり、新たな日常に突入していくと思われる。
一方で、大組織の外部有識者の立場で、助言やノウハウの提供をする、実務を受託する、ということも並行して行われてきたわけで、そうした文脈についても、考慮しなければならないだろう。
まぁ、コンサルやツール屋は、きっとまた次の商材を探すことだろう。それはそれで、コンサルやツール屋として、一定の役割を果たしていると言えるのかもしれないが。
そう考えるとなおさらのこと哀れなのは、鳴物入りで「エキスパート」として「入社」してしまった人たちである。さしたる実績を出せないままに、次の転職先を探す、ということになるのだろうか。まぁ、その先にまた開けてくる人生も、あるのかもしれないけれど。
きっと、商売感覚の優れた人は、すでに「次のネタ」を探し始めている彼ら彼女らに対して、どう商売していくか、ということを考えているのかもしれない。ビジネスのファストファッション化。
どうも、そういったあれこれの全てが、虚ろなものであるように、思えてならない。理論に罪はない。理論を取り巻く狂騒が、虚ろなのである。
プロジェクト工学は、まぁ、そういう狂騒の完全なる蚊帳の外にいる。さみしいといえばさみしいが、ゆっくりゆっくり、静かに静かに、本当に大切なことについて、考えていきたい。大きい声でなく、遠い声。少しずつ、少しずつ、仲間が集まっていくことの方が大事に思える。
キックプ譜には、なぜだかわからないが、1日1ユーザーが新規登録してくれる。この2年ぐらい、ずっと、である。どこのどなただかも、わからない。しかしこれは、確かに重要なサインであるとは思える。