共犯的な不毛さの構造
例えばIT、デジタル領域で顕著なこと
各種の技術的進化や、世界規模の社会情勢の不安定化、あるいはスタートアップの隆盛、事業ライフサイクルの短命化等、さまざまな環境的要因により、企業組織が情報システムやアプリケーション、ツールを導入する、ということにおいて、いよいよますます、「投資」的な色彩が濃くなっている
つまり、業務やビジネスにIT、デジタルの要素を取り込むことには、リスクを伴うということである
何かしらの新たなツールを導入したとしても、利用者は、まったくもって使いこなせないかもしれない
無用の長物と化すかもしれない
一方で、本当にうまくいけば、竹やりから鉄砲隊へ、といった具合の、飛躍的な生産性向上が実現するかもしれない
新しいことをやるにあたって、リスクが伴うのは、当たり前といえば、これほど当たり前のこともないわけだけれども
昨今、そのハイリスク・ハイリターン的な様相が異次元の領域に差し掛かりつつある
IT、デジタル投資活動の困難
どんなに素晴らしい新手法でも、入れる以上は、つまり、仕事や暮らしに変化を引き起こす以上は、抵抗が発生する
いやむしろ、革新的な、画期的な新手法であればあるほど、猛烈な摩擦を引き起こすものである
どんなに現状に不満を抱えていても、人は根本的に保守的なものであり、変わりたくない、という動機が心の奥底に根付いている
現に、実に多くの「DXプロジェクト」が「情報システム刷新」にすり替わり、挙句の果てに「現行の機能とパフォーマンスを最低限、維持すること」とか「現行業務の効率化」がコミットされたりする
本質論として
IT、デジタル投資というものは、やると決めた以上は、死に物狂いで、火中の栗を拾う覚悟で、行わなければならない
にも関わらず
ユーザ企業の発注担当者のほとんどには、それが、まったくもって、わかっていないのである
彼らにとって、IT投資は「調達」に見えている
つまり
彼らの8割は、自分たちが抱える問題に対して、銀の弾丸があるのだと疑っていない
それは、自分の病気には、「その薬を飲めばたちまち快癒する薬」があると思っている人に似ている
しかも、その商材には、松竹梅のランクづけがある、と、思っている
彼らが期待しているのは、例えば、一発1000円の金の弾丸、100円の銀の弾丸、10円の銅の弾丸を取り揃える弾丸専門店、というような世界観である
だから、彼らは、事例クレクレというのである
自分に合っている事例さえ見つければ、あとは予算を通せば仕事が終わると思っている
一方の、ベンダ側で起きていること
彼らの8割は、まともな商売をしているというよりも、しているように見せかけているのである
仮説検証、とか、MVP、という美名を我田引水しているだけである
弾丸の喩えを続けるならば、彼らは、薬莢だけを、棚に並べているのである
時々、火薬を詰めていることもあるが、何処かから仕入れてきた量産品で間に合わせているだけで、独自性というものがカケラもない
そもそも今どきのトレンディなITベンダには、有能な人材はわずかであり、そのわずかな彼らは、すでに(常に)多くの案件に忙殺されている
そうした企業は、もともとそんなに大した採用力や育成力を有していない
そうでなくとも、ジョブホッピング当然のこのご時世である
現場レベルでは、促成栽培の、なんちゃって部隊を、どうにか仕立てているだけである
彼らの担当者レベルにおいては、顧客の抱える課題、解決のための技術的根拠、いずれの知識も中途半端にしか有さない状態で、売上の目標だけ、課せられる、ということが常態化している
さて
いざ、このユーザ側組織とベンダ側企業があいまみえたときに、何が起きるだろうか
空中楼閣プロジェクトが出現する
上手にリスクを取るとか、失敗のないように予め手当をするとか、取り組みを適切に進めるための基本的素養を持たない、おんぼろチームが立ち上がる
スケジュールや計画を立ててはみるものの、一向に消化されない
取り返しがつかない状況が出来しても、対処できない
最高意思決定機関が無視できないところまできて初めて、問題が顕在化するが、時すでに遅し、という展開を迎える
最終的に、どうなるか
もはや、当初の業務改善や価値創造の目的は、遥か後方の遠景に退いていく
予算が承認され、計上され、執行されたという事実やプロセスに、瑕疵がなかったことを証明することが目的と化す
帰結として
ベンダ側にとって最も効率的な行動は、以下の2点に絞られる
ひとつ。受注前は、キラキラした、流行に乗ったマーケティングメッセージで客寄せをする
ひとつ。受注後は、ユーザ側の部長、役員層とゴニョゴニョする
それがビジネスだ、というかもしれないが
いま現在、ユーザ側組織とベンダ側企業の双方に起きていることを考慮すると、これが非常に不味い話だということが、明らかになる
大組織の部長、役員層といえば、彼らの8割は、現場感覚を失い、時代遅れの感覚しかもっていない、そして、現場で企画立案する権限もなければ、経営的意思決定を独自の意思で下すこともできない
評価とか、育成とか、管理とか、指導とか、そうしたいくつかの役割があてがわれているが、究極的な彼らの存在理由は「係争が発生したときの、仲裁役」ということになりがちである
しかも、その仲裁行為も、積極的に何かをするよりも、「まぁ、まぁ」と、「全力で事を荒立てないように我慢し続ける」が最善手であることが多い
昔から、「御輿は軽い方がいい」とはよく言われてきたが、いまもって、その文化は継続している
「日本企業で新しい企画を通すことは、スタンプラリーである」というある人の名言を、ここで引用しておきたい
※念の為、真っ当なリーダーシップと見識を有する真っ当な人も、相対的に見ると少数とはいえ、絶対数として見ると、この社会にも少なからずおられることは強調しておく
一方、実務者は
こうした環境を、己にとって都合良く利用しようと考える
つまり、「ちゃんと上にお伺いをたてましたよ」「自分には責任がありませんよ」という、ホウレンソウのアリバイとして、上席者を活用していく
そう、まさに、個別の案件を実質的に切り盛りしているのは、課長、主任クラスの人材であるわけだが
彼らの8割は、経営的な大局観がなく、年収や評価に汲汲としているだけのサラリーマン、小役人なのである
以上の状況がもたらす必然的帰結
本来、新価値創造活動であるはずのものが、社内の生き残り競争の具に変質していく
本来の事業課題や技術的可能性といった本題よりも、政治的な立ち回りに比重が傾いていく
組織の役職者とは、その不毛さを、ただひたすらに我慢し続けた人のことである
または、それをゲームとして楽しめる人なのである
しかし、いかにこうした構図があるとはいえ、最終的に、各種のプロジェクトの現場で、結果を出さなくていいわけではない
むしろ、そうした各種の矛盾を理解し、決着をつけなければ、一度始めたプロジェクトは、終わることができない
ユーザ側にもベンダ側にも、そんな複雑な話をまとめきるだけの、度量のある人物は少ない
ここに至って遂に
代理店とか、商社とか、インテグレーターとか、製作委員会とか呼ばれる存在、つまり、いわゆる、「ギョーカイ」的な村落共同体の、存在理由が出来するのである
彼らは、矛盾をゴミ箱に放り込むのが上手である
しかし、ゴミを消し去ったり、そもそもゴミを生み出さないようにすることまではできない
ここに、多重下請け構造という社会の無駄が、必要悪として要請される
この構造のなかでは
上層では、知識もスキルもある人が地位や安定という虚像に踊らされ、飼い殺されている
下層においては、慣習や契約書で人を縛りつける、奴隷的勤労観が社会を支配している
どちらにおいても、人は、自主独立の生き方を学ぶ機会を奪われている
これこそが、現代の生き地獄の、あり姿である
以下は余談だけれども
例えば昨今、サウナが流行っていたり、オーバードーズが問題化しているが、そうした現象は、上で語った社会情勢と、奇妙なほどにピッタリと符号している
ONE PIECEやキングダム、進撃の巨人や鬼滅の刃、といった人気の漫画作品もまた、こうした社会の構造を、隠喩として、説明している
その心は
地獄の中で生き、その苦しさを緩和するために、フィクションとして、地獄を追体験するしか手立てがないという悲劇
低年収層においては、それが特にわかりやすく顕著であるが、年収が多少上がっても、本質は変わらず、そのコンテンツの見た目が少々変化するだけである
漫画の代わりに、ハーバードビジネスレビュー(それもまた、ポルノであるには変わらない)
サウナの代わりに、グランピング(それもまた、一時の気休めである)
オーバードーズの代わりに、カウンセリングやコーチング(それもまた、現実逃避でしかない)