丸投げか、丸投げでないか
Facebookで、某ベンチャー企業の創業社長のぼやきが印象に残った。内容は、以下のようなものだった
人は言わないと動かない
何回も言わないと動かない
だから、何回も言うようにしている
しかし、会社はプロの世界
プロセス褒めてとか言う甘い考えの人いるが、それはおかしい
上場企業で株主からはプロセスを褒められる事は一切無い
この人使えないなと思ったら、経営者は、注意すること無く、干すだけである
なぜなら指摘もアドバイスもしないのが、プロの世界だから
ここで表明されている「結果が全て」の信念は、独立家としては、当たり前の常識である。世間というものは、プロセスなんて見てくれない。結果しか見られない。結果しか関係ない。掛け値無しに、単純に言って、世間とは、そういうものである。
一方で、会社の中における雇用関係を、世間と同一視できるのだろうか、という疑問も浮かんだのだった。
社内における仕事と対価の関係性というものと、世間における仕事と対価の関係性とは、かなり違う。こと日本における無期雇用契約とは、成果物ではなく、プロセスを提供する引き換えに、毎月のサラリーを約束する、というものなのだ。この意味において、世間の外がプロ(独立、対等、リベラル)の世界だとするならば、会社の中は、アマチュア(従属、非対称、封建)の世界である。
なので、冒頭の社長のぼやきには少し捩れがあって、契約関係上のスコープを超えたものを、従業員に期待している。
極端な言い方をすると「カネを出す立場の俺様は、プロセスは見ない。つべこべ言わずに、お前は結果を出せ」と、経営者が従業員に求めるならば、お金の出し方を「給与」ではなく「出資」や「購入」としないと、理屈があわなくなってしまう。
一方で、いかに会社とはいえ、大きくなればそれは「小さな世間」であり、そのような議論は棚上げし、実際に、つべこべ言わずに結果を差し出す、という戦略を採用する従業員も出てくる。プロの従業員、とでも言おうか。
そういう従業員は、経営者からすると、可愛くてしかたない。それはそうだ。こちらが難しいことを考えなくても、いちいち指示や指導をしなくても、結果を出してくれるのだ。こんなに有り難い存在はない。なので、「デキる人材」として高い評価をつけ、地位を与え、人間関係として連帯し、仲良くし、重用する。
そういうことは、組織にとって、良いことなのだろうか?
第一の論点は、つべこべ言わずに結果を差し出す従業員は、価値を不当に安売りしている。第二に、経営者の考える契機を奪い、無能にしている。成長機会を寡占している。茶化して言うなら、不正競争違反、といったところか。
もちろん、利己的なプロにとっては、上記は罪でもなんでもない、与えられた環境のなかで、自分に有利になるように局面を動かしていく。当たり前の話である。
しかし、彼または彼女の出す「結果」の主語が、結局のところ経営者におかれてしまい、姿勢として極めて内向きになってしまっていることが多い。
ゆえに、プロ従業員的な態度は、長期的には顧客その他のステークホルダに対する不誠実に繋がり、組織の健全性が損なわれていく。
こうやって整理してみると、古今東西のあらゆる組織が腐敗してきた基本原理の素描のような感じがする。裸の王様が生まれる過程のスケッチ。
では、どういう姿があるべき姿なのだろうか。
世間の荒波を一身に受け、矢面に立つのが、代表者の務めであり、それを後ろから支えるのが、構成員の務めである。自分が世間から受けた圧を適切に分散して、背後の組織に向けて変換していくのが、代表者の役割である。
自分が受け止めるべき圧を、そっくりそのまま構成員に横流ししてしまうと、それはいわゆる丸投げというやつである。丸投げしてるだけなのに対価を得てしまうと、それは、組織に対して寄生しているだけになってしまう。
とはいえなかなか難しいものだと思う。自分の後ろで受け止めてくれる人材を探し出し、集め、構造化するのが、社長の仕事であるわけだが、その苦労やプレッシャーみたいなものは、従業員には、絶対に、わからない。ときにはSNSで愚痴をこぼしたくなるのは、心情としては、同情できる。
しかし一方で、経営がうまくいっていないことを満天下に晒しておられるのを見て、大丈夫なのかなと思うところも、なくもない。大量のイイネや共感コメントがつくのを見ると、なんとなくハラハラする。
「何度も言う」から始まって「なにも言わずに干す」で締め括られるところをみると、父権的なコミュニケーションが常態化していることが、察せられる。会社の業績や給与は右肩上がりだそうだが、皆さんの幸福感は、それと比例しているのだろうか。
「使えない」社員を静かに見限る、という主観は、もしかしたら、「考える」社員が静かに去っていく、という客観と表裏一体なのかもしれない。
一方で、お金の論理でプロ社員を競争圧にさらし続ける経営は、資本主義には適応しているのかもしれない。しかしそれが、人類の生存にとっては欠かせない面もある一方で、幸福とイコールにはならない。それが人類にとっての不幸である、ということは、確かなように思われる。