プロジェクトとマクロス
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改めて、初代マクロスを見直してみたら、中身をほとんど覚えていなかった。
部分的には記憶があるので、見たことはあったはずなのだが…
それはさておき、リン・カイフンというキャラクターが印象に残った。なんだか、fの早乙女アルトの原型のような雰囲気だった。何かにつけて反抗的で、苛々しているところがよく似ていた。ちなみに、先ごろfを見返して、そういえばシェリルには歌うと健康を損なう設定があったのだったと思い出した。その属性は、Δではフレイアに継承されていたのだった。美雲でなくフレイアに、というところが、ミソなのだろうと思った。
カイフンに話を戻すと、彼には「暴力では解決しない」という信念があり、これこそ、マクロスシリーズという作品そのものが掲げる大テーマである。この信念を、革命思想として次作「マクロス7」で継承したのが、熱気バサラであった。ライバル(アンチテーゼ)から主役(テーゼ)へ。ただし、外から理屈を述べるのではなく、現場に飛び出し、行動で示す、実践型の主人公へとアップデートして。
では、主人公であった一条輝は、どこにいったのか。ガムリンである。テーゼ(主役)からアンチテーゼ(ライバル)への移行。真面目で真っ直ぐなエリートパイロット。最初のうちは戦争や戦闘、暴力に疑問をもっていなかったが、徐々に文化の意義に目覚めていく。正確に言うと、一条輝の直系というよりは、輝、マックス、柿崎を足して割った感じがある。考えてみればガムリン木崎というネーミングには、柿崎の痕跡が残っていた。しかし、ガムリンは熱気バサラへのアンチテーゼ足りえなかった。熱気バサラに対するアンチテーゼとは、他でもない、ギギルであった。ガムリン、ミレーヌとの三角関係よりも、ギギル、シビルとの三角関係の方が、断然、物語の核心を構成していた。
初代マクロスに話を戻すと、早瀬らしき人物は7では思い当たらない。あえていえば、レイやアキコだろうか。人生の先輩としてのサポート、指南役。仕事のうえでの、女房役。ちょっと無理があるだろうか。fのほうが断然わかりやすくて、キャシーはまさに、早瀬の生き写しのようである。
とすると、オズマの原型は一条輝だった、ということになって、なんだか意外な結論に到達する。確かに、輝をちょっとワイルドにしたら、オズマである。単純に考えればフォッカー→オズマ、ということなんだろうけれども。しかし、言ってしまえば最初からフォッカー=輝なのである。本来は繊細で優しい心の持ち主だったのが、否応なく戦争に巻き込まれ、暴力の魅力にも取り憑かれつつ、文化の価値にも回帰したくなる、まさに二律背反、アンヴィヴァレントを生きる、という。
フォッカーの、己の死を通じて主人公に成長を促す、というくだりに着目すると、彼の継承先はfにおけるミハエルだった。わざわざご丁寧に、オズマにパインケーキやら負傷やらのイベントを用意しておきながら、である。目眩しの芸が細かい。
ちなみに、7のドッカーはパッと見たキャラクターとしても、そもそも名前からしてもフォッカーの生まれ変わりのようだったが、完全に犬死にであり、継承とは言い難く、目眩し的な配役である。金龍隊長もまた、フォッカー的なポジションであり、死を通じて主人公たちに影響を与えたキャラクターではあったが、ど真ん中の継承ではなかった。7のなかで、死を通じて主人公に影響を与えたのば、ギギルだった。ギギルは、一条輝とフォッカーを足してひとりで継承したのだった。そう考えていくと、「ギギルが歌った日」こそが全マクロスシリーズにおける最大の「見性の瞬間」だったことが、明らかになる。
アイドルだ、歌だと延々やっているわりに、意外と男っぽい、汗臭い物語であったものだ。
しばしばマクロスは「歌(文化、愛)で戦争(暴力、争い)を終わらせる、変わった作品」と評される。
しかし本当の内実は、争いを文化的に終わらせたいという考えと、それを理想論として退ける"現実"主義、あるいは文化こそが争いを生み出す、という超現実主義の三つ巴である。
ひとりのキャラクターのなかで、話の進行とともに、これらの考えは振り子のように揺れる。振幅の大小はあるけれども、物語全体のなかで、決定的に、どちらかの役割を演じる瞬間がやってくる。そこにドラマが成立する。
初代マクロスにおける白眉は、実はリン・カイフンなのである。
力ではなく、文化こそが正義なのだ、というテーゼが「ご高説」と斥けられ、地球復興の文脈では興行という文脈に絡め取られ、自己矛盾をこじらせていった。それはおそらく、ヒッピー的なものやウッドストック的なもの、左翼的なものたちへの反省であった。作者たち自身の内部にある葛藤が、カイフンというキャラクターに凝縮されていったように見える。
カイフンに、もっと真っ直ぐに活躍させたくて、熱気バサラが生まれた。その反動で、早乙女アルトが生まれた。アンチテーゼからテーゼへ、そしてジンテーゼへ。
ジンテーゼとはよく言ったもので、確かにアルトはカイフンと輝を、足して割ったようなキャラクターである。しかし、キャラクター設定の時点で弁証法してしまったら、肝心のドラマが生まれない。
そこで「ヒロインたちよりも美しい歌舞伎の女形」としたのは、なんというかもう、出鱈目の極致である。制限や制約、枠のなかで、精一杯の出鱈目をやる。創造性とは、そういうことである。
では、Δにおけるハヤテは、どうだったのか。アルトの生まれ変わりと言えるだろうか。アルトとハヤテの関係は、フォッカー→ドッカーと同型である。つまり、目眩しである。表面的にはそう見えるが、内実は全く違う、ということである。
一条輝は、系譜的に考えていくと、ガムリン→オズマ→メッサー、の順で生まれ変わっていったのだ。
ハヤテは哀れな主人公だった。時代的なテーマを与えられず、その辺の若いお兄ちゃんでしかなかった。いや、ハヤテだけではない。統合軍の登場人物たちのほとんどが、類型的であることだけを課せられていた。
その唯一の例外が、メッサーだった。
Δにおける中核的キャラクターはメッサーであり、カナメであった。このふたりの背負ったテーマとは「自分たちは、何者でもないし、何者かにはなれない」ということだった。宇宙を平和に導こうというスペースオペラが、そういう非常に個人的なテーマに帰着してしまったのは、なぜなのか。それもまた考察の対象たる話である。
ふたりの凡人性を考えると、マックスの超人性について考えざるを得なくなる。よもや駄洒落ということはないだろうけど、マクロスとは、マックスの物語だった、とも言える。軍人としてのスタートラインから、人生の最終盤に至るまで、結婚出産も含めて描かれた。彼こそがマクロスの語り部、狂言まわしであった。普通に考えると、最初から天才パイロットとして設定されたキャラクターなど、説得力もなにもなさそうなものだけれども、「これぞまさに天才の声」という、声の説得力で捩じ伏せた。
人は自分も、何かの天才でありたい、あるはずだと思う。偉大な創造物やクリエイターを見ると、自分もそうありたい、そこにいきたい、とか、なぜ、自分がその座にいないのかと思う。
そこに悩むのが人生の醍醐味というやつでもあるわけだが、悩んでも無駄だぜ、ということをさわやかに説得するのが、マックスというキャラクターの役割であった。
「なぜ、自分ではないのか」という痛切なる問いは、歴代の歌姫たちのものでもあった。何度も何度も、このセリフが繰り返されてきた。その問いの行き着いた先が、戦術音楽ユニットというコンセプトであった。
戦術音楽ユニットとは、カルチャーショックによる相手方への撹乱、奇襲を達成するための手段を表す名前である。歌うという創造的行為が、戦争の手段としてしか生きられない。テーマとしては、セブンも重かったが、Δもそれに劣らなかった。Δは、テーマという意味では、本当にポテンシャルのある企画だった。
ただ、それが十全に果たされたとも思いづらい。だからまた、次回作を楽しみにしているのではあるが…
***
数々の脱線をしてしまったが、この小論で語りたかったのは、あるシリーズを俯瞰することで見えてくる、「プロジェクトにおける繰り返しとやり直し」について、であった。
シリーズ間の関係性を俯瞰していくと、次回作と前作の関係性は「繰り返し」であると同時に「やり直し」である、ということが見てとれる。
ファンは追体験を求めるから、ある程度の繰り返しは必然である。出資者もまた、確実なセールスを求める。この二者は、繰り返しを求めるという点では同じである。違いは、作品の内容に対するこだわりの水準である。
制作者も、実は、繰り返しを必要とする。大部隊を率いて作品作りを全うするには、ある程度のお約束は必須なのである。
しかし、「繰り返し」を表層レベルでやり間違えてしまうと、新鮮味が失われ、マンネリ化する。
そしてなにより、作り手にとって、次回作を手掛ける意義は、常に「やり直し」なのである。
どこを、どうやり直すのか、だけが問題なのである。「繰り返し」は、それを実現するための方便である。
マクロスシリーズとは、表層においては、
主人公が、バルキリーに代表される、核融合技術が主題的に扱われる戦争に巻き込まれる
戦争と恋愛が、三角関係の要素を含みつつ同時進行する
またそれが、若者の成長譚、シンデレラストーリーとして描かれる
組織のなかではライバル関係や師弟関係、親分子分の関係がドラマの基軸となる
主人公との関係が濃厚な人間の死が、反省と成長をもたらす
作品自体が史実のフィクション化の結果と設定され、作品内でもフィクション制作風景が描写される、ある種のメタフィクションとして作られる
というふうに整理することができる。これは「繰り返し」の話である。
本質論は「やり直し」の部分でこそ、語られるべきである。
そしてそれは、文化と暴力、という大舞台上で、どんな宿命を背負った人間に、いかなる役割を演じさせるのか、の試行錯誤の連続であった、と言えるだろう。
商業性と思想の両立という面で言って、これは非常に稀有な成功事例だと言えるし、あらゆるプロジェクト活動にとってヒントになるはずである。
繰り返しと、やり直しの、二重性。
これは、プロジェクトという概念を決定的に示唆するなにかではないか。