ギョーカイの構造
例えばいち消費単位として世の中を眺めてみると、そこにはあまたのクリエイターやアーティストが百花繚乱である
音楽の作り手
絵描き、画家
物書き、作家
学者
シェフ
歌い手
YouTuber
漫画家
デザイナー
刺繍作家
料理研究家
映画監督
俳優や声優
スポーツ選手やアスリート
コラムニスト、ブロガー
芸人、コメディアン
などなど、いくら挙げてもキリがない
この世はクリエイターで満ちている
例えば現代において、なにものかたらんとするならば、こうした「クリエイター」を志す、という行動様式は非常に一般的であるし、このように、自分なりの世界観を構築しファンなり収入なりを獲得しない人間は、凡人であるというイメージもある
しかし、そうした見方は、実のところ、幻想なのである
世の中を、あるいは経済を動かすのは「流通」の力である
「作家」が作ったように見えるものは、例外なく、流通業者の手によって、そう見えているだけなのである
出版で言えば、読者にとって一番近い存在は著者であるわけだが、その背後には版元がいて、さらにその背後には書店がいて、そして書店とは、取次による指揮系統なくしては存続し得ない
映画も同じで、確かに一次的には脚本家や俳優、監督が作っているわけだけれども、小屋が作品をかけなければ、そしてその前提である配給というビジネススキームが存在しなければ、作り手は利益を回収する機会を与えられないし、観客も体験する機会を得られない
流通システムこそが経済を支えている
経済の本質とは、流通である
そして、流通は、常にルーチンワークを求める
そして、人間は、流通なしでは生きていかれない
にも関わらず、人間は、ルーチンワークには、マンネリしてしまう生き物でもある
だからこそ、プロジェクトという現象が、人間の中に生じるわけであるが…
こうしたことを考えると、人間の進化が、いかに中途半端なのかと思わざるを得ないのである