「輪廻」で見れば、社会が見える
前節で語ったような不毛さは、現代に特有なのだろうか
答は否、である
おそらく、フーコーなんかを引用するのが適当なのだろうと思うのだが、要するに、この社会にある不毛さは、権力というものの必然的帰結なのだ
人間ひとりの生産力をPとすると、n人の人間が集まった場合の生産力は nPを遙かに凌駕する
つまり、人間が集合すると、富の集積が効率化するわけだが、それには指揮命令系統が欠かせない
できるだけ平等に勤労し、できるだけ平等に分け合うためには、大局観を有し、全体最適を計画できる指導者が必要となる
権力の発生装置とは、そういうことである
経世済民の心を持った、利他も慈悲も売るほどあり、志も能力も兼ね備えたスーパーマンが権力を行使しているうちは、誰も不満はない
問題は、権力が確立されると、必ず腐敗するのである
つまり、私利私欲による不公平、富の偏在が発生する
いかにスーパーマンに見えるとて、人間である、ずっと完璧ではいられない
あるいはいつか寿命を迎え、世代交代を図るものである
あるいは、統括するスコープが大きくなると、権限委譲もしていかなければならない
つまり、「民衆への指導」を組織的に展開する、という構図が、ここに発生するわけだが、ここにおける政治・官僚システムに就く人が、皆が皆、それに相応しい資質を持っているわけではない
結果として、富の循環に、不合理な滞留が発生してしまう
言ってしまえば、格差の発生原因とは、そういうことである
格差とは、不公平、ということだ
つまり、分不相応、ということである
かたやで、自分が価値発揮している以上の蓄えや報酬を貪る人がいて、もうかたやで、価値発揮をするための教育を受けることすらままならない人がいる
明らかにそれは、ごくごく素朴な倫理観として、つまり、社会性生物が進化の過程で培ってきた生存原理に照らし合わせて、おかしな状態なのである
しかし、人間という種は、社会総体としての生産性を高める手段を手にしてしまったがゆえに、(妙な言い方だが)「格差を許す余裕」が生じてしまったのである
人類史は、まさに、組織化による生産性の拡大と、その副作用である格差の是正、そのバランスをいかに取るかの試行錯誤の連続だった
数々の天才が、この問題を、時に政治的に、時に技術的に、時に哲学的に、解決せんとしてきた
西洋における民主主義というやつも、もちろん、その中のエポックメイキングだったわけだし、共産主義もまた、開始された当初には、高邁なる精神があった
しかし、有効に見えるフレームワークが生まれても、それが普及する過程で、いつしかやはり、腐敗が生じてきたのである
たとえば東洋では、仏教哲学と官僚機構の折衷、という形によって、様々な社会体制が試みられてきた
その歴史を見てみても、やはり同じく、志、変革、成功、普及、腐敗、という構造的変化が、繰り返されてきたことがわかる
例)
仏教以前と初期仏教
https://gyazo.com/4a31671633bbe966c7a1dd2d5ea98921
繰り返しの構造
https://gyazo.com/febc5f32a2bb8b0221f542c0a12dc22c
https://gyazo.com/5ab1294e70c734eaa72bde759cd894ad
参考:「仏教における宗派、経典、諸概念」のスプレッドシートはこちら
人が死んでも魂は残って生まれ変わる、みたいな意味での輪廻があるかどうかは、少なくとも生きているうちには実証できないけれども、人類史における思想の世代交代、そしてそれらの失敗の繰り返しを眺めていると、まさにこれこそが輪廻なのだろうと思わされる
例えば漫画版「風の谷のナウシカ」は、とても仏教色の濃い作品だが、以下のセリフはそのことを正確に表現している
https://gyazo.com/ea3601e00f85d163f6f9ea0a634ae71b