「プロジェクトと将棋」企画メモ
プロジェクトがうまくいかない悩みを感じ始めた頃、最初にヒントを求めたのが、将棋と軍学の世界だった。なぜだったのかはよくわからないが、孫子とクラウゼヴィッツを読みながら、羽生さんの棋譜を追いかけ、指し将棋にもアプリで取り組んでいた。
当時は、そういうことがプロジェクトに効くのかよくわからなかったが、10年ほどの時間が経過して、まさしく意味のあったことだと確信するようになった。
将棋とプロジェクトは、実に似ている。
将棋の勝利条件とは、いきなり相手の王様を召し捕る(詰ませる)ことである。しかし当たり前ながら、最初から直接迫る手段はない。ゆっくりゆっくり駒を組み、いざ開戦し、戦力を消耗したり拡充したりしながら、あの手この手で迫っていく。
王手がかかるフェーズになっても、直接手ばかりを繰り出してばかりなようでは、芋である。確かに一番最後、王様を召し捕る手は王手だが、単騎で王手をしても甲斐がない。
王手をかけるよりも高級なのは「詰めろ」というやつである。相手が対応を怠ったり、誤ったりしたら、その後、詰みますよ、という手である。
しかし、詰めろはどこまでいっても詰めろであり、流れる手段を残していたら、勝利することはできない。
そこでさらに上位概念が登場する。「必死(または必至)」である。必死とは、相手がいかに対応しようとも詰みを防ぐことができない詰めろである。
つまり、将棋の終盤戦における優先順位とは
王手<詰めろ<必至
ということである。
当然ながら、盤上の見た目のわかりやすさとこれは、逆順である。
いま、なぜ、その一手なのか。
わかる人にはわかるのに、わからない人にはわからない、という不思議なパラドックスが将棋にはある。
行為の見た目と有効性が単純に相関しない、という点は、プロジェクト活動とよく似ている。
類似点は他にも多くある。
将棋には部分的なセオリーが数多くあり、「金底の歩、岩より堅し」といった表現で、将棋格言としてよく知られている。これらはいわば、将棋における知識である。この知識が厄介なのは、だいたいの場合には当て嵌まるのに、時として例外が生じる、ということだ。知識はあくまで目安であって、絶対普遍ではない。将棋に絶対普遍の知識は、おそらく、存在しない。
例外しかない、それが将棋であるわけだが、プロジェクト活動となんらそれは変わらない。
経験や知識により、判断の確度を高めることは、間違いなく有効だし、必要である。しかし、経験や知識だけでは、願いは成就しない。