要件定義業務の準委任契約
非常に参考になる論説を見かけたので、備忘まで。
準委任契約の誤解を解きほぐす ──システム開発契約を題材に──
(上山 浩 若松 牧 2020)
この論説において、おそらく最も重要な指摘は、以下の部分である。
そもそもシステム開発契約は,請負か準委任かの二者択一というわけではなく,実際には,請負と準委任の両方の性質を併有する混合契約や,民法上に定めのない非典型契約に当たる場合が多い。そのため,契約類型に拘泥することは,契約において各当事者の責任範囲を明確化しておくべきという紛争予防の本質を見落としかねない。
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この問題を考えるうえで見逃してはいけないのは、準委任契約は成果物を約束しない、というテーゼが、拡大解釈されすぎた、という歴史的経緯である。委任や準委任は、責任の持ち方が請負と違うだけで、決して責任を負わないというものではない。むしろ、責任は大変に重いし、難易度も高い。「準委任=成果物を納品できなくてもオッケー」といった解釈が、IT業界の一部でまかり通っているのは、レベルの低さを露呈しているに過ぎない。
委任にしろ請負にしろ、業務を委託する契約の、本来の含意は、プロフェッショナルとして責任を持つ、ということである。請負契約は、結果に比重があり、準委任契約は、プロセスに比重がある。しかしどちらも、責任をもって成果物や業務に当たることを約束する、ということにおいては、なんらの違いもない。
では、委任や準委任が、なぜ請負でないのか。その案件のそもそもの筋合いにおいて、弁護士や塾講師にとって、そもそも、コントロールできない(原理的に、責任を持つことし得ない)領域が含まれているからだ、と、思う。
弁護士は、勝訴という成果を保証し請負うことはできない。塾講師は、合格という成果を保証し請負うことはできない。しかし、目指す目標に向けて(あるいは目標の定め方についての助言も含めて)最善を尽くすためのノウハウを、有している。対価と引き換えに、それを提供する。
準委任契約の受任者は、その筋合いを適切に見極め、目標設定のあり方、進行中の対応の仕方、心の持ちようなど、多面的に依頼者を指導することが求められる。弁護士の仕事も、塾講師の仕事も、本当に大事なのは、実は、勝つか負けるか、合格か不合格か、ではない。もちろんそれも大事だけれども、それが全てではない。
大事なのは、いかなる結果になったとて、最終的に辿り着いた結果に対して、クライアント本人が、心から納得し、人生の次の段階に進んでいけるよう、導いていく、ということである、と、思う。
まぁ、「金を出すからには、訴訟は勝って当たり前、塾講師は合格させて当たり前」という、無理筋な希望を抱く(モンスターチックな)依頼人も、世の中には存在する。そんな依頼人に対応するためには、訴訟や受験のテクニカルなスキルもさることながら、坊さんのような力が必要である。逆に、そうした要望を前提として(ときにevilな)サービス提供する人もいる。人生色々である。
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責任を持たずに1時間いくらで仕事をするのは、派遣やパート、アルバイトの世界である。
いや、その世界にだって、完全に責任を放棄していいというものではない。対価を得る以上、最低限、全うすべき責任というものはある。約束した業務内容と時間を守る、ということだ。当たり前の話である。ただ、経営的意思決定には、責任を持たないということである。
とはいえしかし、この話にも随分とややこしいところがあって、ある流通分野を専門とする経済・経営学者にいわせると、日本企業の強みとは、本来経営判断についての責任を負わないパート従業員が、ちゃんと売り場の利益が最大化するようにPDCAを回すことだ、という。これは米国式の流通業からすると、絶対にあり得ない驚天動地の事態であった。確かにそうである、上述の法的検討から考えると、パート従業員は、契約範囲以上の仕事をしている。
一方で、フランスからの視察団は、いたく感心していたそうだ。これにより、本来生まれないはずの雇用が創出されている、と。
近代法の発祥の地であるフランス的価値観と、近代法の具現化を目指して建国された米国的価値観、それぞれの観点で、同じ現象に対して、対照的な反応をしめした、ということ自体が、興味深い。
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少し話がそれてしまった。要件定義の準委任の話に戻ろうか。
簡単のため、例えばIT開発の要件定義業務を外部委託する、という話に限定したとしても、やはりこれは、厄介な業務である。弁護士の訴訟業務や塾講師の教育業務には、勝訴なり合格なり、それなりにわかりやすい、外形的なゴールの基準がある。それをもとに、勝ち筋か負け筋かを評価することもできる。
これと比較すると、IT開発では、そもそもなにがゴールなのかすらも、まったくもって自明ではない、という意味で、遥かに困難である場合がしばしばある。クライアントがそもそも課題認識ができないのでゴールが設定できない、という場合もあるし、目的に対して実現手段が矛盾した形でゴール設定されている、なんてことも、ザラである。
いわゆる狭義の要件定義工程が完了し、具体物としての開発計画が明らかになって初めて、弁護士にとっての訴訟業務と同等の「わかりやすさ」に至る(勝敗の基準と、勝ち筋負け筋の読みが立てられるようになる)。つまり「勝訴」と類比可能な「リリース」という獲得目標が、決定される。
しかしこれも、古き良きウォーターフォールならではの話で、アジャイル開発の一部分を外部委託するとなると、話の抽象度はさらに上昇してしまう。
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こうしたことを踏まえ、そもそも要件定義はなんのためなのか、どこまでいけば合格なのかを、まともに理解している人が、IT業界に、どれくらいいるだろうか。ごくごくわずかである。なぜわずかなのかというと、要因は様々だが、彼らの雇い主なり依頼主なりが、その点についての危機意識が薄い、という環境的要因も大きい。
こうしたことを考えると、そもそもの「要件定義は準委任、開発は請負」という定番の構図自体も、見直す余地が大いにある。
なぜ、見直す余地が大いにあるのに、それなりに世の中が回っているのかというと、「商習慣」という緩衝地帯、契約的バッファによって、適度にそのあたりを曖昧に済ませているのである。まぁ、それはそれで、現実的な対処としては、いいのかもしれないが、ただ、それだと、じゃあなんで契約書をわざわざ巻くのか、という根本的問題に直面することになる。だいたい、いざ契約書を巻こうかというときは、もう実体としての契約は当人同士で合意されていて、ペーパーワークは早く済ませたい、みたいな状況であることも多い。契約とはなにか、というそもそも論を悠長に議論している暇はなかったりする。結果、単なる形式的通過儀礼になってしまう、というのは、歯がゆいところもある。
このあたりは、その取り組みの「未知の審級」を抜かして議論することには、限界があるのだろう。
社会的に見て事例が多く、常識的に判断して目的手段の位置付けが妥当であるような場合においては、「要件定義も開発も請負」ということにしたって、なんら支障はない。その逆もまた然り。
結局のところ、プロフェッショナルである、ということは、何に対してどこまで責任を負えるのかの見極めが正確である、ということだ。そして、その内容を伝達、合意し、両者が妥当と判断できる対価や取引条件を設定できること。
極論すれば、そこさえきちっとしていたら、請負か準委任かといった神学論争は、不要になる。