自動化と皺寄せ
自動化と聞くと、普通、面倒な作業をゼロにすることである、というふうに解釈する人が多いことと思うが、実際にはそうではない。そういうことを、新卒入社したベンチャー企業で、なんとなく肌に感じていたが、いまとなって、その直感は、正しかったのだろうと思っている。
当時、在籍していた会社は、製造業のIT化、自動化の先駆け的な会社だった。そんなものは絶対に機械にはできない!と言われていたことを、機械化し続けていた。
自分自身も、自動化技術そのものにも、かなりディープに関わったし、それを活かした高速試作業にも携わった。
そこで嫌というほど味わったのは、どんなに機械化技術の最先端といっても、最後は絶対に、人間の知恵と感性、経験と根性、手仕事による膨大な労力の勝負になる、ということだった。
いま、手軽に扱える自動化ツールが大量に出回っている。あれができるこれができると大騒ぎしている。あのツールを使った、これを使った、こんなのができた、あんなのができたという報告を、そこかしこで見かける。確かに、出来上がったものは、どれもこれも、立派であるが、しかし、自分には、自動化は、虚しいものに見えてしまう。
自動化は、なにをどこまで頑張っても、部分最適にしかならず、サイロ化という名のブラックホールに飲み込まれる運命にある。
ソフトウェアの力を借りて、個人や小規模組織の力を拡張することはできる。それを起こす現場での高揚感は、なんでもできそうな希望をもたらす。しかし、思ったよりも近い場所にしか、到達できない。
世の中には、「直接わかりやすいお金や評価にならないけど、いずれどこかで誰かが片付けないと、いつかどこかでなにかに祟る、面倒な作業」というものがある。そういう仕事は、最終的に、どこかでかならず人間の手を必要とするものである。たいていの場合、立場の弱い人に皺寄せされる。自動化とは、皺の場所を移動させているに過ぎない。
自動化それ自体は、純粋な物理現象であり、善悪はない。自動化への欲求は、おそらく、人間が持っている根本原理でもある。自動化そのものを否定してもしょうがない。自動化それ自体が福音であるという人間の感覚には、強い危機感を覚える。
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理念的な話はさておき、現実論をすると、駄目な自動化が広がる状況を止めることは、極めて難しいように思える。
皺に対する応じ方は、多様である。
受動的にひたすらこなす
次の誰かに皺を送る
賢く伸ばすやり方を見つけ、機会とする
皺がでないようにマネジメントを工夫する
要らない皺を作って、違う形で利益を得る
などなど。
多くの人は、仕事とは、皺伸ばしの苦役だと思っているし、毎月の給料は、その我慢代だと思っている。有能な皺伸ばし職人には高い報酬や地位が約束されるが、そのぶん、プレッシャーもストレスも増していく。
自分はプレッシャーにもストレスにも弱かったから、そもそも皺が生まれない段取り術に特化していった。
一定以上の水準で、それに成功したものの、上流やマネジメントを工夫しても、ほとんどの人はそれに気づかないし、別に感謝もしない、ということを、3社目で学んだ。
そこに皺があって、誰かが伸ばすしかなくて、伸ばせる人が他にいない、というときにこそ、初めて、対価を伴う仕事が発生する。
皺こそがビジネス機会なんだ、というのも、一面の真理ではあるのかもしれない。
アメリカ、EU、ASEANなどなど、あらゆる世界中で、中間層の人々が「移民や外国人労働者によって、おれたちの伸ばすべき皺が奪われた!」と怒ったり、「AIやテック企業のせいで、ますます皺がなくなりそうだ!」と、不安がったりしている。
皺と波は似ている。技術革新によるビッグウェーブは、その大きさが大きければ大きいほど、それに付随する皺を形成する。皺によって生まれる社会の階層化が、貧富の格差や権力の腐敗を生じさせる。
プ譜によってあらわしている哲学の本質は、そういう世界観の対極である。執着にとらわれず、ただただフラットに、意欲を持って未来を目指し、他者とつながり合い、助け合う。独立して、色んな出会いに恵まれ、本当に良かったなぁと思うのは、その哲学を、直観してくれる人がいるんだと気付かされたことである。
(というよりも、実際のところは、出会いによって、そういう哲学を内包していたことに、気づかせてもらったという方が正確である)
#プ譜