物語としてのサガエメ
サガエメ、総プレイ時間そろそろ50時間になろうかというところで
①ボーニー・フォルミナ
②闇の王
③主人公風おにいさん
④歌姫
の順番でクリアして、いよいよ次が、最後のアメイヤ編である。
わけもわからず主人公選択してきたが、こうしてみると、綺麗なお姉さんで始まり、綺麗なお姉さんで締めくくりたかったのかなぁ、自分、という気がしなくもない。
いや、そんなことはまったくもって、本題ではない。ここにきてようやく、物語としてのサガエメというものを、垣間見ることが、できてきたような気がしなくもなくて、本当は、そのことについて、ずっと、書きたかったのだ。
物語としてのサガエメを語るならば、いくつかのキーワードがある。
例えばそれは、以下のように整理できるように思う。
選択と可能性
自己犠牲と救済
罪と輪廻
運命と意思
「選択と可能性」
このゲームのゲームシステムの根幹がそもそも、選択である。選択しかないゲーム、といってもいいかもしれない。
選択により、物語が変化するだけでなく、バトルにおいても、あるいは陣形や装備品、その強化方法、仲間や陣形など、ありとあらゆるものについて、プレーヤーは、選択をしていく。
選択とは、なにか。
不可逆である、ということだ。
選択前にあった可能性が、選択によって、絞られる。
しかし、何度も何度も別の主人公で隣接世界たちを巡っているうちに、本当に自分は、選択をしたのだろうか、しているのだろうかという気がしてくる。この世界には、あらゆる選択の結果が並行世界として同時存在しているのではないか、と。例えばデルタベースでは、量子力学用語とともに、そのことが描かれる。
あるいはディーバ編においても、蓋然性走査という言葉が象徴的に用いられており、これも「選択と可能性」のテーマを示唆する言葉である。
蓋然性走査。
言い換えれば「それが起こりそうな確率を、複数のシナリオをシミュレーションすることで、計算する」というところだろうか。ゲームの表現としては、ゲームのなかにいる歌姫がそれをしているわけだが、他でもない、プレイヤー自身が、このゲームを遊ぶ時、まさしく蓋然性走査を、えんえんと繰り広げ続けているのである。
日本語ではその行為のことを「読む」という。
「自己犠牲と救済」
カマラとプールクーラは、数ある隣接世界のなかでも、特に強く印象に残る。
いずれも話は同型で、世界の危機に対して、一人の存在が、みずからをいけにえとして差し出して、救う、というものである。本作が面白いのは、世界を救うのはその隣接世界の住人であり、プレーヤーはあくまでそれを見届け、補助する役割にとどまるところである。
通常、自己犠牲を通じて世界を救うのは、物語の主人公である。そして、通常、ファンタジーベースの物語をゲームとして作り上げる際は、プレーヤー=主人公である。
本作は、主人公=プレイヤーとしない。その世界の主体者ではない。ゆえにこそ、「見届け人」としてこの世界に参加する。
初めての周回、ボーニー・フォルミナで初めてカマラを訪れたときは、なにが起きているのか、1ミリも理解できなかった。ただただ不条理なゲームだなと思った。自分が何をさせられているのかが、よくわからない。ボーニーも、フォルミナも、わけがわからないと呟いている。少しネットで感想を見てみても、感想は同様である。
わからなすぎて笑えてくる、というゲーム体験は、非常に珍しいのではないか。
さすがに4周して、ディーバ編でアメイヤと遭遇し、ようやく本作における「自己犠牲と救済」のテーマが見えた。考えてみたら、これは英雄譚の普遍形である。それを外部者として眺めるというスタンスだけが、特異だったのだ。
しかしその特異性は、サガシリーズにとっては必然である。なぜなら、サガシリーズは世界を救った英雄の暴君化、堕落こそがその世界の基調をなしてきたのである。
「罪と輪廻」
このテーマが描かれるのは、ブライトホームとクロウレルム、マーレ・ノストラムである。そしてシウグナス編の本来の主人公は「戦士」である。彼は世界を、友を守り救おうとした。それに成功したと思ったのも束の間、むしろ世界を闇に堕としてしまった。
そのトラウマを抱えて生きる戦士は、本作のなかでも特にグッとくる存在である。
英雄転じて闇の王、という説話構造は、サガシリーズの定番中の定番である。そのモチーフはご丁寧にグレロンでも、これでもかと描かれる。この世界の最終皇帝の善悪も周回ごとで変化する。
闇の国はそのなかでも白眉である。皮肉とユーモアたっぷりに、これでもかと善悪の価値観転倒が描かれる。
「運命と意思」
本作の最終的なテーマはなにかというと、運命と意思、ということなのだと思う。
表層的には、説話構造として、秘密結社による政治への干渉、またそれへの抵抗が描かれている。特にボーニー・フォルミナ編がそうだし、プロヴィデンスで遭遇する監視員もまたそのモチーフを体現している。
ただそれ以上に、このゲームの構造そのものが、運命と意思というテーマを体現している。何度も何度も、似ているようでどこか異なる、違っているようでどこか見たことのある物語を紡いでいく。すべてのあり得る物語は、存在する。そのような存在様態をあらしめることによって、運命と意思を同時存在させている。