意味と価値の違い
意味という言葉の本質(つまり、意味という言葉の意味)は、「同じである」(繰り返している)ということである。
意味を問う、ということは、抽象化する、メタ化する、ということである。抽象とはつまり、具象から不変であるところのものを抜き出す、ということである。そこには必ず構造がある。意味の存在を支えるのは、構造である。構造があるから、同じ現象が繰り返される。
ところで、辞書は、AとはBである、という言い換えをする機械である。
よく考えてみるとこれは、かなり変な話である。AはAであり、BはBである。そもそも、AとBには差異があるから、違う言葉が割り振られているのである。AがBでよくなってしまっては、CでもDでも、Xでも良くなってしまいかねない。
そうならないように、辞書は最後は同義反復するようにできている。
例えば、国語辞典で「気持ち」と「感情」を引いてみると、以下のようになっている。
気持ち
物事に接したときに心にいだく感情や考え方。
感情
物事に感じて起こる気持ち。
ここで辞書は「気持ち」と「感情」は、同じだといっている。やまとことば、漢字熟語、カタカナ英語という複数の言語モードが混在しているので、日本語は、こういうふうに片付けてしまうのが比較的簡単な言語である。つまり、国語辞典は、実質的には、和漢辞書である。
英英辞書にも近いところはある。obtainとは、getである、といったように。ラテン語由来の語彙とゲルマン語由来の語彙の、「同じもの」を対応づけているのである。
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意味と価値は、似たような言葉に見えるが、違う言葉である。正反対といってもいい。正確に言うと、同じ場所から出発し、最終的には対極に行き着く言葉である。
どういうことか。
価値という言葉の本質は「違っている」「例外である」ということである。
価値とは、原初的には、使用価値である。その意味で、人間にとって酸素は価値である。人間は、酸素があって初めてエネルギーを利用できる、という構造を有している。人間にとって、酸素は意味のある存在であり、一定の価値も有している。
しかし、人間は酸素を「価値あるもの」とは、日常においては、言わない。
なぜなら、どこにでもあるからである。
ちなみに、酸素のかわりに二酸化炭素やサリンを呼吸しようとすると「意味のないことをするな」と止められる。このとき、「価値のないことをするな」とは言わない。
この違いにこそ、意味と価値の違いが先鋭に現れる。
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では、価値とはなにか?
使用価値を有する(その主体にとって意味のある)存在のなかで、希少価値のあるものこそが、価値と呼ぶに値する、価値らしい価値である。
日常のなかで、「価値あるわぁ〜」と、しみじみと述懐する瞬間が、ときどきある。それはかならず、例外的な僥倖に出会った瞬間の、祝福を感得しているのである。
最も本質的に価値たり得る概念は、希少価値である。ゆえに、究極の価値とは、独自性である。著作権という社会通念が成立するのは、独自の所産を生み出す過程への、敬意ゆえである。
つまり、価値の本質とは、例外である、ということである。他と違う、ということである。意味の本質が「納得感」であるとしたら、価値のそれは、「意外性」である。
生物は、地球の自転や太陽の公転、月の満ち欠けによって、昼夜や季節の「繰り返し」を身体のなかに染み込ませてきた。動物の脳神経は、それら外界の繰り返し構造を内部に写像する仕組みを有している。これを、学習と呼ぶ。
学習内容を記号化したものを、知識と呼ぶ。言い換えれば、意味と意味を組み合わせたものが知識である。
人間は価値を生み出すために、知識を用いる。
偉大なる自然のルーチンワークに身を任せつつも、ときおり発生する例外による僥倖。それこそが、爆発的拡大再生産の契機であることを、学習してきた。生き物の存在基盤は、意味的世界に支えられているが、拡大契機は、価値によって与えられる。
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ちなみに、この希少価値を、思うがままに利用したいという欲望が、貯蔵価値(交換価値)という概念を生み出した。貨幣である。貨幣とは、価値の意味化への挑戦であった。
貨幣を通じた過度な投機や貯蓄をお釈迦様が戒めたのは、人類にとって象徴的な出来事であった。しかし、人間の肉体的欲望に阻まれて、その教えはまだ世界に浸透していない。
原始仏教の思想とは、価値の拒絶、価値へのアンチテーゼであった。直立二足歩行という僥倖を真っ向から否定する、座る哲学。
しかしその道は、たやすいものではない。
もしかしたら、我々は、価値の脱構築を目指さなければならない、のかもしれない。