宗教、倫理、社会性
「こころの時代 シリーズ徹底討論Vol.10 解散命令で何が変わるのか」
が非常に面白かった。
以下は印象に残った発言のメモ。
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そもそも憲法とは
そもそも憲法とは、特定の団体や権力、権威によって、力の弱い個人、自然人が抑圧されるのはおかしい、という考えで始まったプロジェクトである
自由の武器化
これまで、カルト的な宗教団体が政治権力と結びつき、信仰の自由を主張しながら多くの被害者を生み出してきた
自由とは、自然人、個人の側において、なかでも立場の弱い者の側から主張されるべきで、権力や支配の側の論理として語られるべきではない
ヘイトスピーチを表現の自由とする主張もまた「自由の武器化」であり、適切な主張とは言い難い
グレーゾーンへのリテラシー
特定の主張が抑圧への抵抗なのか、やりすぎた攻撃なのかは線引きが困難
事後的にしかわからない、という面がある
抽象度の段階を高め、グレーゾーンとはなにかを考え、グレーゾーンに対するリテラシーを高める必要がある
イスラーム社会における信仰の自由
イスラーム国家において、一般的に信仰の自由は明記されている
イスラーム社会での信仰の自由は、主にキリスト教とユダヤ教の信仰の自由を想定しており、それは、コーランのなかで認められているから認めよう、という議論がなされる
他方、神の不在に関する議論は常識として禁じられている
日本とアメリカの共通性=宗教の多元化
イスラーム国家と比較し、日本やアメリカのように、宗教の多元化が起きている社会では、カルト的な問題が発生しやすい
法による信仰の制限について
法によって信仰を制限することは、言うまでもなく、すべきでない
他方、社会が宗教について話すことを良しとしない、という社会規範には問題がある
宗教に関する議論の土台
日本社会では、社会的な宗教に関する議論がゼロベースであることがイスラームとの大きな違いとしてある
倫理観や社会性に関する社会的な共通基盤がないため、これまで、カルト的な宗教をうまく批判できず、自浄作用を持たなかった 自然淘汰がされなかった
実践的なカルト防止施策
大学の新入生に対する注意喚起など、カルトへの実践的な対策には改善もされている
巧妙化する勧誘の手口についても理解が進み、パンフレット等を通して情報提供している
二世問題について
カルトに限らず、そもそも宗教は親や地域の価値観、倫理観も含めて受け継ぐもの
哲学のように、個人が悩み考えたうえで選択するものとは異なる
幸福度の主観性
客観的な価値基準や尺度で個人の主観的な幸福感を決められない
フランス「反セクト法」に関する議論
確かに宗派のセクト化には弊害があるが、主流派とは「成功したセクト」ではないか、という議論もあった
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以下は感想
イスラーム社会にはコーランという絶対的な基準が社会的に共有されているから、議論が楽だし、社会が安定している、社会の内部に反社会的なカルトが生まれない素地があるのが羨ましい、という論調があったのが、興味深かった
いやいや、一神教文化圏は、国際的には反社会的な軍事活動を引き起こしまくってるじゃないか、と、ツッコミたくなった
日本は宗教的基盤がない、という前提にも違和感を覚える
アンパンマンから攻殻機動隊に至るまで、あるいはジブリや少年ジャンプ、あるいは現代アートや現代詩、短歌に俳句、小説から、テレビドラマに映画やポップソングに至るまで、日本はとことん日本式仏教ベースの文化に染め上げられた社会である
では、日本式仏教とはなにか
縄文的神話世界
神道的清浄感覚
道教的解脱願望
儒教的倫理規範
原始仏教的哲学
一神教的超越論
以上すべての混合、とでもいうべきもの
例えば無国籍料理という言葉があるが、実体は多国籍料理、という方が正しい
日本式仏教の本質も、まさにそれである
無宗教ではない
多元的、いや多源的な宗教性
そのことは、日本語が漢字とひらがなカタカナ、アルファベットが混じり合った混合言語であることや、近世まで、米と金銀銭貨の混合経済であったことと、おそらく無縁でない
最終的な日本的宗教観を特定の教義として具体化すると、浄土宗がその最も典型的、中心的なイメージと重なる
普通の人が思っている以上に、日本社会にはその感覚が浸透している
かたやで「葬式仏教」の言葉の通り、仏教そのものは極度に制度化され、聖性は俗化され、本来あるべき社会的使命を果たしているとは言い難い
浄土宗は江戸幕府において実質的に国教化に近い保護がなされたが、寺請制度が完成したあたりから、ひたすら堕落していった
ローマ帝国とキリスト教の関係と相似形である
そのことを思うとなおさら、阿弥陀信仰という、本質的に一神教に近い宗教を積極的に選択しつつ、キリスト教は退けた、という流れは実に興味深い
浄土真宗や一向宗でなく、浄土宗、というのが、徳川家康の絶妙なバランス感覚の賜物だったのだろう
それはそれとして
人間社会の「うちうちの話」である「法や政治」が、神様仏様の領分である「宗教」の上位に立ってはならない、という直観的真理、それはやってはいかんのだ、という、理屈を超えた感覚
あらゆる個人は抑圧されたくないし、己の利益を最大化したいものだ、という生存権の前提
人間は俗っぽい日々の暮らしの問題も抱えるが、同時に死生観や哲学もなければ生きてはいかれない、という話
特に、結婚出産や死亡という劇的なイベントに直面すると、なにかしらの儀式によりその意味を問うことが求められるし、心身の煩いにおいて、宗教性を帯びた問答により救われる、という過程は、確実に存在する、という話
誰かがリーダーシップをとって、指揮命令系統や組織化を具現化しないと、社会秩序の実現や全体最適は図れないという現実問題
理念的には、おそらく本来は人類によって単一のもので構わないかもしれない宗教というものが、現実的に、複数の系統に分化し個別に進化し、己の属さない宗教が異端に見えてしまうという状況
議論には言語が必要だが、言語が個人の思考を表現するには機能があまりにも不足している、というどうしようもない問題
安定した社会運営に常識は必要だが、多数派の常識は少数派を抑圧し、機会や富を奪うという基本法則
人の寿命に限りがあり、親から子へと相続が発生することが、身分社会を助長するという作用
これらの諸問題を同時に解決できたら良いのだろうと思うが、まぁ本当に、難しいよね
カルト問題は、闇バイトや特殊詐欺問題、匿名・流動型犯罪と同根である
その延長にあるのは学歴信仰や大企業主義である
つまり現実論として、貧困と格差、富の偏在から発生している
その結果の、教育や教化、善導の失敗である
その結果の、思考停止し安楽になりたい、という怠惰の問題である
あるのは、奪われた者からの、奪った者への、復讐という構図である
日本は他国と戦争はしないが、社会の内部には戦争に準ずる事態、暴力の暴走を抱えている
暴力はアンダーグラウンドにだけ存在するわけではない
公的な機関や制度も、そのありようは、暴力的である
多数の人間がそれに適応しているので、平穏が保たれているだけである
それを「最大多数の幸福」などという言い方で美化しているうちは、「内なる戦争」は終わらない
というか、多数の人間の適応、というものすら、難しい時代なのかもしれない
外国のニュースは戦争ばかり
芸能ニュースは不祥事ばかり
学校のニュースも犯罪ばかり
もう誰も信じられない、という空気感がすごい
不安の時代
カルトに惹かれる人は、不安の総量が限界を超えてしまって、もう考えたくない人、ということなのかもしれない
対策はあるのか
不安は実は、メディアのなかにある
テレビやPC、スマホのなかである
身の回りの現実をフラットに見れば、メディアのなかほど、ひどくはない
やっぱり、分配するしかないのかもしれない
恨みは、貧困から発生する
しかし、ほとんどの人間は、いくら与えられても満足しない
となると、有効なのは「分配されている感」の醸成なのかもしれない
得してる感の演出
ベーシックインカム、的な
(違うかもしれない)
まぁ、本質論としては、原資を増やさないと、どうしようもない
どうすれば原資が増えるのかというと、どうやって、ひとりひとりの人や法人が、まっとうに価値創造するのか、という話にしかならない
自分としては、プロジェクトの方法論を伝導することしかできないし、それがベストなのかなとは、思っているのだが…