天気・縁起・無限・超越
天気を人間の意志で制御することは、できない。
天気を予測することすら、できない。
もちろん、空間、時間を狭く狭く取ったら、ある程度は可能であるけれども、1週間先の天気、というと、お手上げである。
(もちろん予測するという行為そのものは可能だが、的中率100%には、絶対に、ならない)
こんなに、科学技術が発達しているのに、なぜなんだろう?と、多くの人が、思うことだろうと、思う。
雨が降る、ということは、因果的な現象ではなく、結縁の賜物なのだ、ということなのだろうと思う。
***
科学技術のおおもとには、数、というものがある。
数には、色々なものがある。整数があり、分数があり、無理数があり、複素数がある。
これらは、代数方程式の解である。
この世界には、代数方程式の解としては、表せない数というものがあって、それらは超越数と呼ばれる。
πとeがその代表選手である。
たとえば線分なり直線なりを置いて、そこに全ての実数を対応させた場合、そのほとんどは、超越数であるという。
しかし、人類は、超越数について、πとeのことしか、まだ、わからないという。
いや、そもそもそれ以前に、素数についてすら、しかとはわかっていない。
それでも、大概のビジネスにおける工学的な問題は、近似的に微分方程式を書いて仕舞えば、なんとかなる、という世界観で、現代ビジネスは、成り立っている。
***
点とは、長さを持たず、位置だけを持つ存在である。
点を連ねていくと、線になる、という。
線とは、面積を持たず、長さだけを持つ存在である。
線を積み重ねていくと、面になる、という。
本当か?と、思う。
ゼロ足すゼロは、ゼロである。
数学的帰納法を用いたら、ゼロはいくら足しても、ゼロであることは、一瞬で、説明できる。
しかし、ゼロを無限に足すと、イチになる、という理屈でがなければ、点、線、面の関係性は、説明ができないのである。
この矛盾を解くには、無限にも種類がある、ということを仮定せざるを得ない。
ゼロを普通に想定できるような無限回だけ、足し合わせても、ゼロのままだが、ゼロを、跳躍的な無限回数分、足し合わせる(というような運動をおこなう)と、イチになる、というような。
ゼロをℵ0回足してもゼロだが、ゼロをℵ1回出せばイチになる、いえば済むかもしれないが、ただ、その言い方は「説明」ではなく言い換えというか、定義というか、まぁ、トートロジーといえば良いのか…
***
鈴木大拙博士は、悟りを開くことは、次元を越えることだと言った。
縁、というものは、超越的なのなのだろう。
だから、縁とは、縁というふうにしか、呼べない。言葉や数字で、分析的に、分節的に、因果的に、説明的に、表すことは、できない。
***
以上の議論から、デジタル変革というスローガンは、コンセプトそれ自体に、限界を内包している、ということが、判明する。
再現性、という言葉が流行っているが、その効果はあくまで限定的である。
***
天、と、縁、が、押韻しているのは、ゆえあってのことなのだろうと思う。
天という字をやまとことばとして読むと、あめ、とか、あま、というふうに読み、それが、雨という漢字と対応することも、きっとゆえあってのことなのだろうと思う。
***
制御工学では、可観測であることと、可制御であることは、同値であると言う。
現象は、無限の情報量を持つ。だから、あるパースペクティブで切り取った部分集合ならいざしらず、現象それ自体の全部集合を観測することは不可能であり、ゆえにこそ、制御することが、原理的に、不可能なのだ、ということなのだろう。
そんな世界で、生き物が生きているのは、生き物自身も、無限を内包しているからなのだろう。
要素に分解し、順序をつけ、シンボルと対応させることで、人類は情報を外部記憶装置に保存することに成功した。エントロピーの概念を編み出すことで、複雑性や不確実性すらも定量化した。そうした一連のことが、莫大な利便性を生み出してきたわけだけれども、その限界に、人類はまだ閉じ込められている。