プロジェクトの歩き方「大学生支援」
仕事柄、いつもではないが、ときどき、大学生のチャレンジ支援的なことに関わることがある。どういうものか。学生が、学外の利害関係者と関わりを持ち、何かしらの社会課題なり、経営課題なりを発見し、そこにアプローチしてみる、その試行錯誤が成長の糧となる、というプログラムに対して、アドバイザーとして一時的に関わる、というものである。
2024現在、学生を早く社会に接続しよう、ということが非常に盛んで、普段の授業とは別に、社会的な、何かしらのプロジェクトに主体的に関わってみよう、というプログラムが、わりと広く展開されている。
純粋な動機としては、基本的にそれらは、大人たちが学生の成長を願ってすることである。社会を知らずに漫然と授業を受けていただけでは、いまどき、社会に出ることすらも、おぼつかない。学生からすると、社会貢献意欲の発露の場、という意味合いがある。
現実的な打算としては、大学のイメージアップや就職実績向上、地域社会や企業、自治体とのつながり強化、という側面があり、学生からすると、「ガクチカ」の「ネタ」にもなる、という期待がある。
後者を批判しているのではない。「思い」だけでは物事はうごかない。「メリット」も必要である。
まさに、論語と算盤である。
しかし、この美しき座組みも、いざ実行してみると、なかなか難しい。
活動の「型」は、いくらでも用意されているのだ。
まずは仲間を集めよう。相互理解を進め、自分たちのテーマを設定する。
実際に外部の人と接点を持ってみて、活動の概要を構想し、計画する。
計画をプレゼンし、承認を受け、いざ実行に突き進む。
紆余曲折を経て、何かを見つけ出し、最後、報告会で発表する。
紆余曲折の方法にも、豊富なノウハウが揃っている。
リサーチの方法、インタビューの方法、発想の方法。
古き良きMBA経営学的な理論だけでなく、デザイン思考やアジャイルの知識もそこにはある。
ガイダンスやキックオフの場で知らされるのは、こうした全体概要である。
その電車に乗り込み、線路の上をガタンゴトンと揺られていたら、成長が待っているように見える。
しかし、乗車したその瞬間に、当事者である学生は、ほぼほぼ例外なく、ある種の戸惑いに直面する。
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テーマを設定しろと言われても、何をどう設定しろというんだ?
授業もバイトもサークルもある。互いに初めましてのメンバー同士、それぞれの事情もある。
どれぐらいの時間が割けるのかもわからない。
集まったその場では盛り上がるが、終わって家に帰る頃には、少し頭も冷めてくる。
みんな互いに、ある程度はやりたいことは揃っているが、微妙に違ってもいる。
なにをどこまで、どのように、どれぐらいのシリアスさで議論したらいいのか。
そもそも、どんな活動をして、どんな成果を生み出せばよいのか。
あまりに茫洋とすると、人間は、具体的に与えられた短期目標をこなすことで安定を得ようとする。
とにかく来週までに、計画書を出せと言われたから、計画書を書いてみる。
中身はよくわからないけど、フォーマットをどうにか文字で埋めるてみる。
なんだかんだやっていると、どこかしらからの「出会い」も与えられる。
この企業が協力してくれると言っているから、会ってごらん。
大学の◯◯先生が、◯◯課が、参考になる話をしてくれると思うから、行ってごらん。
そんなこんなをしていると、中間プレゼンの時期がくる。スライド資料を作ってみる。
なんだかんだの指摘や駄目だしを受け、反省し、メンターに助言を請う。
色々やっているうちに、取り組みの終了期限が迫り、お祭り騒ぎに突入する。
なんだかんだがあって、終わっていく。
まぁ、そういうことで、外形的な行いとしては、問題ないのだけれども、少し、もったいない。
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なにがもったいないのか。
「手近にあった材料を、そのまま手に取り、与えられた枠に押し込んで、良しとする」という傾向である。
たまたま目の前にある資料の雛形。
たまたま出会った、目の前の人。
たまたま目の前にあるITツール。
たまたま自分が授業で学んだスキル。
たまたま教えられた活動フレームワーク。
そこにあるのは「たまたま目の前に与えられた資源」である。
もちろん、資源を有効活用するのは、プロジェクトの極めて重要な成功要因である。
ないからといって嘆くのでなく、ブリコラージュすることは、その極意ですらある。
しかしそれは、なんとなく、目の前のものを、なんとなく、いじくってみよう、ということではない。
なんとなくいじくっているうちは、その取り組みは「企画以前」である。
どんな成果物を定義したところで、自己満足の枠を出ない。
社会的な必要性が、他者に伝わらない。
資源がたまたま、そこにあるから、使えるから、使ってみよう、という入口の先にあるのは、迷宮である。まぁ、迷宮に入ること自体は悪くない。プロジェクト体験とは、言い換えれば、迷宮体験であるからだ。しかし、そこから脱出して初めて、体験は体験の価値を持つ。
では、脱出するための出口は、どこにあるのか。自分にとって、やむにやまれぬテーマがあって、そこ答を出したいから、それを活用しよう、というふうになって、初めて出口が見える。たまたま出会ったもの、よくわからないけど与えられたものが、自分にとって必然的な出会いだったのだ、ということが、あとになって、理解される。
自己成長、自己変革をもたらすプロジェクト体験とは、そういうものである。
しかし・・・
プロジェクト体験を成就せしめるこの、「テーマ」というもの。
この「テーマ」というやつこそが、最大の、実にいかんともしがたい難題である。
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「テーマを持て」と言われて、無理やりテーマをお手盛りするのは、嘘が交じる。
テーマに嘘が混じってしまうと、他人はおろか、自分自身ですらも、騙せない。
ただ、ある程度平均的な環境で育ってきた人間に、テーマはなかなか、宿らない。
テーマが内在していたとしても、若いうちにそれを自覚するのは、簡単ではない。
これらの問題は、
悟りを開く方法を教えてもらうと、
それがどんなに正しかったとしても、
それをなぞっているうちは、悟りは開けない、
ということに、似ている。
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テーマがないから、「すべきこと」でなく「できること」から発想してしまう。
結果、取り組み内容が、企画以前の自己満足の域から抜けられない。
結果、活動したとて、それが社会的価値(人から求められる成果)にならない。
考えてみれば、これは学生に特有の問題ではない。
企業人であっても、例えば新規事業担当者は特に、まったく同じ問題に直面している。
いや、現代社会全体が、テーマを見失っているのだ。
テーマがないから
資格や学歴をつけて就職先を選びたい
そうすれば、少なくとも飢えない、人並みの、それなりに誇れる身分が選べる
とにかく目の前の作業を自動化・効率化して楽になりたい
そうすれば、もう少しマシな暮らしができる
事業をスケールさせてキャピタルゲインを得たい
その先にある「裕福な暮らし」を手にしたい
といったような、ありもしない幻想に惑わされている。
本当は、
テーマが明確になっていて
それがコンセプトに昇華されている
結果、他者に価値が伝わる表現になっている
ということであれば、おのずと楽しくやれる仕事に出会う、という生き方が、可能なのだ。
そういうふうにしていれば、セルフ・ブランディングも、マーケティング・オートメーションも、業務自動化も、賢い人生設計も、別に、要らないのだ。CMに煽られて、じゃぶじゃぶ保険に加入しなくたっていい。力のある勢力の傘下に入って、親子の盃を交わさなくていい。いやな客や、いやな上司に、いやな仕事を押し付けられなくていい。
好きなときに、好きな人と働いて、好きなときに休むという、己の人生の主人公になる道が、見えてくる。
つまり、「安心」という幻想と引き換えに、「尊厳」を売り渡さなくて良い。
人も法人も、そのように生きられたら、結構、いま・ここで、幸せになれるものである。
まぁ、そのようにして幸せになるのは、実に困難ではある。不幸せに耐える簡単さの方が、幸せを目指す困難より、選びやすい、という価値観を、無意識のうちに選択している人も多い。いや、これは決して他人事でなく、これを書いている自分自身が、常にこの問題に直面し、いまだに解決しきれないでいるのだ。まぁ、もしかしたら、生きているうちに、解決されることなどないのかもしれないけれど。しかし、その解決を目指すことを、諦めた瞬間、生きることがとても苦痛なものになってしまうに違いない。
おそらく、一個人にしても、法人にしても、地域にしても社会にしても、本当に変革されるべきは、こうした価値観なのである。