プロジェクトの歩き方「パーフェクト・デイズ」
https://gyazo.com/97f0bfc638f989889f7cce084c07542c
もっとも下世話な批評をするならば、製作者の言い訳映画である。
ユニクロ帝国柳井家の御曹司の、道楽。帝国を継がせるには値せずとの烙印を押された二代目の物語。
主人公は彼の自画像である。
実業の世界から疎外され、あるいは自己疎外をして、毎日毎日、トイレを掃除している。まちゆく人からは、時に嫌悪されるが、それなりに付き合いのある人間もいる。収入は安定している。仕事自体は嫌いじゃない。毎日、本を読み、写真を撮って、それなりに知的な、高等遊民的な暮らしをしている。そこそこ異性にモテるし、若い人間から、尊敬されたりもする。
どこかで見たことがあるな…と、思えば、なんてことはない、実にシンプルに、村上春樹的な設定である。
この映画の原物語というか、企画された当初のショートムービーを想像すると、おそらくそれは、きっとこんな感じだったに違いない。父と主人公、離婚した妻、そして二人の間の娘の四人だけが、登場人物。独裁的な父から逃れた放蕩息子が、娘の精神的な危機や、父の死に際に接して、己の残された時間への反省をキッカケにして、社会に戻っていく短編。
つまり、本作は、ユニクロ版の「ジブリ版・ゲド戦記」である、とも言える。
いや、ジブリのゲド戦記は、一応は父を刺殺していたわけだけれども、本作はそれよりも遥かに弱腰で、情けないの一言につきる。寿命で父が命を終えるのを待つ息子。小説を読むことで、とりあえずのカタルシスを得る娘。
本作は、柳井家に充満しているであろう不穏な空気を濃厚に反映している。そしてそれは、おそらく、東京に、そして日本中に蔓延している。腰砕けなところも含めて。
***
外国人が、この映画を見て、ワオ!ジャパニーズ、ゼン・ムービー!、と、喜んでいるところを想像すると、なんだか複雑な気持ちになる。
禅を思わせる暮らしぶりは、この映画のモチーフではなく、単に、スタイルでしかないからだ。
そのことは、出演している俳優たちが、豪華絢爛過ぎることからも明らかである。本作の主張である「ミニマル」を、映画自体がやり切れていない。
また、この映画の製作的背景自体が、わりと俗っぽいのである。つまり、TTTのキャンペーンムービーであり、つまり、visit japan的な政策の一環なのである。
いや、もっといえば、高尚なアート映画を装った、ユニクロのプロモーションムービーなのである。
確かに、ユニクロは無印良品にもつながる、ミニマルを旨とする消費財の製造者であるわけだから、禅と無縁だとは言えないのだけれど…
そして、そうした文脈のない、本物の禅的な禅映画は、作られることさえも困難だろうし、カンヌで賞を取ったりもしない。
***
以上に語ったような、生臭い話があるからといって、ヴィム・ヴェンダース監督、役所広司、田中泯の3人が醸した空気感や時間、身体性の清らかさが、否定されるわけでもないのかもしれない、と、思う。
聖なきところに俗はなく、
俗なきところに聖もない。
聖即俗であり、俗即聖である。
と、言ってしまうと、ウツクシすぎるだろうか。
しかしというか、だからこそというか、同時制作された「Some Body Comes Into the Light」が気になるのである。
おそらく、監督の聖性は、そちらのほうにこそ、極まっているのだろう。