プロジェクトの歩き方「パルプ・フィクション」
タランティーノ映画を観たのは本作が初めてなので、この時点で断言するのは時期尚早であるが、本作のインパクトを踏まえ、いくつかの評を参考にする限り、おそらくこれが監督の最高傑作ということになるのだろうと思う。
パルプ。繊維状のものが絡まり合った、もやもやした塊のようなもの。人生は、パルプである、という映画。本作は、人生を織りなす糸を、因果の系列として、現実を表象する。
本作に描かれる因果の糸は、例えば以下のようなものである。
見つかったらまずい物件を抱え込み、助けてもらうために誰かを頼り、押しかける
取引の遂行中に相手を裏切り、果実を持ち逃げする
罪を犯した人間に、罰を下す
一方的に威圧し、詰問し、脅し、精神的に屈服させる
肝心なものを取り違え、死にそうになる
たまたま助けられ、九死に一生を得る
別のことをしていたら、たまたま難を逃れる
触れてはいけない存在に触れてしまったせいで、殺される
本作では、因果系列は首都圏の地下鉄路線のようなもので、登場人物は、えんえんとそれを乗り継いだり、乗り換えたりしている、というような手つきで、物語を語る。主体者としての人間が先にいて、物語があるのではない。物語という容れ物が先にあって、ときどきその乗り物に、一時的に乗車するのである。
だから、本作では、いつかどこかで見た因果系列の、あるときは主役になる。あるときは脇役になる。あるときは傍観者になる。
ある因果が、次の因果と重なる。
ある因果が、次の因果を引き寄せる。
因果と因果が、すれ違う。
いつかどこかで見たような繰り返し構造が、朧げに見えるが、はっきりと言葉にするのは難しい。人生はまさに、パルプ的である。
人生に、意味はあるのか。あるとしたら、どんな意味があるのか。これは、誰だって一度は頭をよぎる疑問である。タランティーノは、その問いを持つことには、意味は別にないよということを、実にあっけらかんと言う。
そこに絶望感はない。ただただ無意味な、ただリズムだけがある、スラングだらけのセリフ回しが、ただただ気持ちいい。
この映画を観ると、プロジェクトも同じ様なものなのだろうと思う。毎度毎度、似たようなことをやる。毎回毎回、一本の筋を描こうとするけれど、因果の糸はいつもどこかで絡まり合ってしまうばかりである。自分のやっていることに、意味があるのか、ないのか、常に、よくわからない。そこに意味があるのかないのか、常に、あいまいである。
なんだか救いがない話に見えるかもしれない。本当に、意味を存在させたかったら、奇跡を認め、羊飼いたることを、己に課す以外にない。
https://youtu.be/qo5jnBJvGUs
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