プロジェクトの歩き方「カエルの為に鐘は鳴る」
子どもの頃、ゲームボーイで遊んで、子供心に「これは大変な傑作だ…!」と、強く感銘を受けた記憶がある。Switchで遊べるようになって、往年の感動が蘇るかと期待して、リプレイしてみた感想。
ゲームシステムとしては、完成度が低く、おいおいこれを面白がっていたのか、自分よ、と、思った。
ひとことで言えば、ドラクエ・マリオ・ゼルダという異なるジャンルのいいとこ取りをしようとして、中途半端な折衷に終わってしまった作品である。
最終ゴールを最初に見せつつ、そこに向かうまでの道を迂回させ続ける一本道がえんえんと続く。かと思いきや、途中のパズルに急に難しいところがあったりして、バランスはかなり悪い。
バランスが悪いだけでなく、過程における探索や意思決定に必然性がないので、えんえんと作業をやらせるだけのゲームになっている。こういう作りだと、メモリの使い方にも無駄が多いはずだし、完成度の低さは否めない。
ただそれが、結果的に、小学校低学年ぐらいの子どもにとってはちょうどよい、入門的なゲームに着地した、という感じだろうか。
作りは悪いが、なんとなく手すさびに遊ぶには、ちょうど良いのである。
もしかしたら、子どもの頃の自分が惹かれたのは、物語の神話感だったのかもしれない。
基本的な骨格は、典型的な父殺しであり、エディプスコンプレックスである。婆皮のモチーフが出てきたり、力を授ける賢者が出てきたり、アルターエゴが出てきたり、言ってみれば、まるっきり、スターウォーズなのであった。
発売年を見てみると、1992年。スターウォーズの最初期三部作は、1977〜1983年。「あの映画の面白さを、ゲームでも再現したい」と思ったクリエイターは多かっただろうし、時間軸としては、さもありなんという気がする。
調べてみると、マザーが1989年、マザー2が1994年。物語としてのゲーム、という方向性は、間違いなく、この頃の任天堂のテーマだったのだと思われる。
ニューアカだなんだの文脈が、商業に影響を与えていた頃合い。別の言い方をすれば、地下鉄サリン事件の直前期のゲーム群である。
ゲームは物語の憑座たり得るのか、という問いは押井守監督の積年のテーマであるが、本作もまた、その試金石のひとつだった、ということだろう。
しかし、本作の物語体験は、感情を揺さぶられることはあっても、カタルシスというには程遠い。
神話的なモチーフはこの商品の製造過程にこそ貢献していて、ゲーム体験における本質的な価値には寄与していない。
ゲームシステムのチグハグさを補い、まとめる繋ぎの役割にとどまっている。
ファンタジーでなく、SFであればこそ、ゲームは物語足り得る、ということを、本作は逆説的に示唆しているように思える。