なんやようわからんけど
プロジェクト活動のビギナーは、取り組みの難易度が認知限界を超えた瞬間に「なんやようわからんけど、テンプレ通りやってたら、いつかどこかで宝籤が当たるレベルのラッキーに恵まれて、なんやようわからんけど、うまくいくんとちゃうかな」と考える。
もちろん、ほとんどの場合、宝籤は、当たらない。そして、「なんやようわからんけど、うまいこといかんかったな」とひとりごちながら、次の宝籤を探す。
彼ら彼女らは、当たりくじの確率が高い売り場を探したり、並んだり、割り込んだりする努力は惜しまない。当たりくじに当たった人の分け前にあやかる努力も、怠らない。
それやこれやのための苦労を努力と勘違いし、空から降ってくる給料は、それやこれやのストレスに対する我慢料だと解釈し、感謝もせずに受け取り、次の宝籤に費やす。
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とはいえ実際には、プロジェクト活動がうまくいくときは、「なんやようわからん僥倖」に、必ず恵まれるものである。それに恵まれずに、自力でなにかを成し遂げるということは、原理的にいって、不可能である。
僥倖と巡り合う方法は、マニュアル化できない。あえていえば、道なき道に道を通すための、粉骨砕身の努力とか、義のない世間に義を掲げる心意気、とか、そういうことである。言い方が古めかしく見えるかもしれないが、実際、そういう言い方しか出来ない。もちろんそれらは人に強制されてできることではなく、自らの内なる意思によって駆動されるしかない。
「なんやようわからんけど、宝籤っちゅうもんは、そう簡単に、当たるものやないんやなぁ」としみじみと理解して、そのさきに、自分で宝を作り出そうと藻搔いてみるなかで、なんやようわからん宝籤のような僥倖に恵まれて、宝が生まれる。
そういう順序でしか、世の中は、動かない。
よく言われる「生きづらさ」の本質とは、宝籤売り場の行列のことである。並ぶのを辞めたらいいだけのことなのだが、固定観念とか常識が幾層にもこびりついていて、それができないのが、人間の哀しさである。それを剥がして回ろうとする馬鹿者のことを、デクノボーと呼ぶ。