ただしさについて
たとえば、こんなふうに言われる。
誰かが誰かに
一方的に
主観的な正義を押し付けると、暴力になる。
だから、なにが正しいか、正しくないかは
絶対的なものではない。
ひとそれぞれであり、相対的なものである。
たとえば、こんなふうに言われる。
人には感情があるから、
ビジネスの場でも、私生活でも
ただただ正論をまくしたてて、
論破しても、何も変わらない。
たとえば、こんなふうにも、言われる。
芸術作品やアート作品、漫画や小説、
映画などを作る時に正解は存在しない。
いやそもそも、
学校と違って、社会には、正解はない。
そう、それらの命題は、ただしい。
***
そうした話とは異なる水準で、
ただしさは、存在する。
誰がなんと言おうと、ただしい
ということがある。
この世を生きる、ある局面においては、
誰がなんと言おうと、それは、間違いだ、と
言えなければならない、そんな局面がある。
***
ある人が、教えてくれたのだけれど
古代インドの人たちは、
そういうことが、よくわかっていた、という。
ヤマ (Yama):避けるべき行動
(アヒンサ)憎しみ、暴力により傷つける
(サティア)嘘をつく
(アステヤ)盗む
(ブラフマチャリア)利己的な欲に溺れる
(アパリグラハ)執着し、貪る
ニヤマ (Niyama):行うべき行動
(シャウチャ)清潔にする
(サントーシャ)足るを知る
(タパス)苦しさを成長の糧とする
(スワディヤーヤ)学ぶ
(イシュヴァラ・プラニダーナ)感謝する
***
こうした考えの正しさは
宗派や文化を超えて、普遍的である。
なぜか。
それを守らなければ
個体も社会も存続できないからである。
つまり、おそらく、物理法則の結果である。
信仰の問題以前の、倫理の問題である。
一方で、こうした考えを守れない、
という実践的な困難も、普遍的である。
おそらくそれは、
人間という種が、中途半端に
知恵をつけてしまったせいである。
***
いや、無垢であるはずの野生動物だって、
殺し、奪い、騙しあっているではないか
と
言うかもしれない。
否、と、それには答えたい。
生存競争における切磋琢磨は、
エネルギーと物質の循環そのものであるから。
(ひとつだけ詩的な表現を許されるなら)
食べたり、食べられたりすることを通して
活かしたり活かされたりすることにおいて
誰の魂の尊厳も、傷つけられることはない。
***
人間の怠惰により生じる無駄や浪費
あるいは
他の存在を傷つけ、損なうこと
回復不可能なダメージを与えること
そうしたあらゆる悲劇は醜悪である
悲劇に損なわれ
それを再生産することしか
できない人もいる
こんなことを書いている自分だって
罪を犯したことがある
罪と不浄は拡大再生産する
人間社会は
もはや取り返しがつかない水準に
すでに到達しているのかもしれない
しかし だからといって
原罪をあげつらっても
現実は1ミリも進まない
免罪符は存在し得ない 原理的に言って
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いまげんに われわれは いきていて
これからうまれ いきていく ひとたちがいる
***
悲劇を止め、繰り返さないためには
わたしたちは もうすこし
賢くなる必要がある
絶望せず、希望の火を 灯すこと
そして
考えること 試すこと
世界は救えなくても
目の前の人を
救うことなどできないとしても
せめて
いま、ここ、めのまえ、この瞬間に存在する
他者を 傷つけず
幸せであるように
できることの最大を
する
ということ…
***
きっと
己がすこやかであることと
世界がすこやかであることは
一対一に
対応している
***
だから
自分にできること
すべきこと
求められること
続けられること
というものを、
しっかりと考えながら
やっていくしかなくて
だから、花を活けた
https://gyazo.com/df75a515194e65933c4890666cebfbc0
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ふと思うとこれは
花を選別し、つまり差別し、
あまつさえ手折るということまで
やらかして
むしろ 罪なのではないか
という不安も よぎるのだけれど
活かし、活かされることを忘れずに
感謝することを忘れずにするという
そのことが大切なのだと
いまは思うことに
する
***
一日一日を すこやかに
朝起きて 食べて 働き 学び 遊び 眠り
呼吸はできるだけ深く 穏やかに
また起きて 食べて 働き 学び 遊び 眠り
歩調はできるだけゆっくりと
日常という奇跡があるということに
ただひたすらに感謝を捧げて…