「俳句的生活」再読
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本書は購入してからわりと早々に(積まずに)読んだ記憶がある。
おそらく初読から一年置いて2回目、そこからさらに2年ほど置いて3回目だろうか。
読むたびに目が開かされる。時を置いて名著を読み返すのは、良い習慣である。
当時わかったことと、当時はわからなかったことの差分が、わかる。
あまりに素晴らしくて、要約による紹介のような手ぬるいことができない。だから、少し長い引用をする。
上島鬼貫は芭蕉に十七年遅れて生まれた人である。摂津伊形の油屋という造酒屋の三男坊で若くして当代はやりの貞門、談林の俳諸に親しんだが、古風な貞門にも新奇な談林にも飽き足らず、あるとき、忽然として「誠のほかに俳諧なし」と大悟したという。
鬼貫が俳諧と考えたその「誠」とは言葉の内にある人の心のことだろう。貞門と談林とは正反対のようにみえてどちらも言葉の表面だけに俳を求めたのに対して鬼貫は言葉に包まれる人の心こそが俳であり、心を忘れた「ざれごと」は俳諧にあらずといったのである。
俳句の俳とは権威や常識にとらわれずに思ったままをずばりということである。俳句は江戸時代のうちは俳諧の発句、あるいは単に発句と呼ばれていたが、明治時代になって正岡子規が俳諧の発句を略して俳句と呼び始めた。俳句は俳諧の発句から俳の一字とともに俳の精神を受け継いだ。
「誠のほかに俳諧なし」
至言である。
芭蕉のほかに俳諧なし、と、つい、思ってしまうが、そうではないのだ。同時代の鬼貫も、ほぼほぼ同じ境地に達していた。
鬼貫の俳句が、また、いい。
ひうひうと風ハ空行冬牡丹
うち晴て障子も白し春日景
春の水所々に見ゆる哉
涼風や虚空に満て松の声
によつぽりと秋の空なる富士の山
行水の捨所なし虫の声
秋風の吹わたりけり人の顔
明らかに芭蕉と作風は異なる、異なるのだが、明らかに、境地の近さがある。
俳諧の禅的境地は、時代精神だった。
それどころか、俳諧の精神は、江戸時代中期の占有物ですらない。
俳諧と俳句、そのどちらにも使われている俳という漢字は二人の人が戯れ合っている姿を写した字であるらしい。そこからこの字は喜劇を意味し、喜劇を演じる役者や道化を表わすようになった。これに対して、悲劇や悲劇役者を表わす漢字が優である。この字は髪に喪章の麻紐を結び、憂いに沈む人の姿を表わしている。そして、喜劇や悲劇を演じる人が俳優である。
古代中国ではしばしば身体に障害をもつ人々が役者や道化となって、おもしろい舞を舞い、おかしな歌を歌って王や神を慰めた。そうした役者や道化は権威や常識に縛られることなく自由に、しばしば権力者の耳には快いとはいえない真実を滑稽な身振りや口振りをまじえて語った。この真実をくるんだ滑稽な言葉が俳諧や俳句の俳なのである。
日本には古くから誹諧歌と呼ばれる一群の歌があった。そう呼ばれるようになるのは『古今集』からであるが、『万葉集』の次の歌などはそのさきがけだろう。
石麻呂に我物申す夏痩せに良しといふものそ鰻捕り喫せ
痩す瘦すも生けらばあらむをはたやはた鰻を捕ると川に流るな
大伴家持
「痩せたる人をわらふ歌二首」という詞書がある。その名も石麻呂という石のように痩せっぼちの男がいたのだろう。前の歌は、その石麻呂に申し上げる、鰻は夏にいいというから、とって食べたらどうだとそそのかしている。あとの歌は、痩せていようが命あってのものだね、鰻をとろうなどと一念発起して川に流されたりなんぞしなさんなと返す刀でからかっている。おためごかしでそそのかしておいて相手がその気になったとみるや冗談半分におどかす。散々笑い者にしているわけである。
万葉集に記録された俳諧の精神が歌ったのが「コブラ効果」であった、ということも、自分にとっては示唆深い。
プロジェクト的知性とは、人間が進化の過程で獲得した因果律解釈機能の不完全さを、補うために発達したものなのだろう。
梅がえにきゐる驚春かけてなけどもいまだ雪はふりつつ 読人知らず
この『古今集』の歌は雪の降りしきる中、ほころびはじめた梅に来て鳴く一羽の鶯を詠む。
ところが、時代が下って「古今集』が歌の鑑と仰がれるようになると、鶯は鳴声を愛でるという型に歌の発想が固定されて、歌人はその型の中に幽閉されてしまう。こうして和歌はやがて鶯という鳥の実体を見失い、人々の日常の感覚からも遊離して、ただの「きれいごと」に陥っていった。
鶯や餅に糞する椽のさき 芭蕉
芭蕉の句は、鶯は美しい鳴声を愛でるものという『古今集』以来の伝統に対して、実際にはこんな粗相をする鶯もいるぞと揺さぶりをかけているのである。
権威や常識への異議申し立てこそが俳だった。
この一節に触れて思い出すのは、白川静である。
狂なるものへの思いは、俳諧者と通底している。
子規は「病休六尺」二十一回目の文章を書いた。「余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといる事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた」。
この年も恐れていた厄月の五月をどうにか乗り越えて、難所を振り返るかのような安堵の思いがこの文章から伝わってくる。子規はここで悟りとは平気で死ぬことではなく、どんなときでも平気で生きていることであるという。世間で常識と思われていることを一撃のもとにくつがえし、常識以上の新たな常識を打ち開く。いつものことながらここでの子規の思考は冴えている。
死を目前にしたこの時期の子規の体は体内のカリエスの病巣から噴き出してくる大量の膿が数か所に大きな空洞を作り、まさに生き腐れの状態であった。このため寝たきりとなり六尺の病床から一歩も出ることができず、耐えがたい苦痛から逃れるために麻痺剤を飲みモルヒネを打たなければならなかった。
ときどき、「古池〜」は、禅の境地をあらわしているというが、よくわからない、という紹介をしている文章をみかけることがある。
そのような、正直と表裏一体にある手緩さとは、明らかに一線を画している。
そこにあるのは厳しさであることは違いないし、正視しづらい凄絶さもあるが、それがかえってなんともいえない爽やかさに繋がっている。
俳句は世界でいちばん短い詩であるが、このわずか十七音の詩の型式は日本人の宇宙観と人生観のみごとな結晶である。
それは大きな鐘のようなもので、打つ人の願いに応じて小さく鳴らすこともできれば大きく響かせることもできる。つまり、趣味と割り切ってつきあえば一生のよき趣味であるだろう。しかし、もっと大きく響かせようと思えば俳句から人生全般にわたる智恵を汲みとることができる。衣服や料理や住居というありふれたものから生き方や死に方にまで及ぶ壮大な智恵である。
ときには俳句はその人の人生を変えてしまうことさえある。芭蕉は旅のうちに人生を送り、子規は六尺の病床で人生を終えた。しかし、芭蕉は旅のつれづれの慰めに俳句を詠んだのではなく、子規もまた病の気晴らしに俳句を詠んだのではない。芭蕉は俳句に誘われて旅立ったのであり、子規は俳句に助けられて重い病と闘った。
俳句を今日はじめた人は十七音の詩をはじめたと思っているかもしれないが、実は知らないうちに芭蕉や子規と同じく俳句という生き方を選択したのである。
別のある俳句指南の本によると、人が俳句でも始めようかというときの典型的な動機として、以下の類型が紹介されている。
昔から文芸に興味があったが、仕事や子育ても終ったので、老後の趣味としてやりたい。
今俳句はたいへん流行しているようだから、なんとなく自分も作ってみようと思った。
友人、知己、上司、同僚に俳句を作る人がいて、とても楽しそうだから、自分もやってみたくなった。
何か一つ、自分の表現欲を充たしてくれるものが欲しかったが、俳句はちょうど手頃だから。
「俳句的生活」は、そんな呑気な入り口の先に、想像もつかない出口があることを教えている。