「ダンジョン飯」についてはもう少し語りたい
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©九井諒子、KADOKAWA
思うのだが、ダンジョン飯は、ファンタジーなのだろうか。
装いは明らかにファンタジー、それも古典的ファンタジーである。
ハイ・ファンタジーと言ってもいいかもしれない。
しかし、もしかしたら「ファンタジーを装ったSF」なのかもしれない。
つまり、ファンタジーと呼ぶには科学的でありすぎるのである。
この作品において、魔力は自然物のようであり、魔術はテクノロジーのようである。
通常、ファンタジーにおける魔力には根拠がないし、魔術は恣意的である。
こんな魔法があったらいいな、という、人間の想像を具体化したものである。
しかし、本作においてはそうした恣意性が徹底的に排除されている。
本作において、魔力や魔術は「なんでもできる魔法」ではなく「物理法則に縛られた現象」である。
例えば、水上歩行は「水の上を歩ける夢のような魔法」ではなく「身体と水を反発させる作用の応用」である。
防御魔法は「衝撃力を反発させる作用」であり、爆発魔法は「衝撃力を開放させる作用」である。
蘇生魔法も、「生き返らせる」ではなくて「生体組織の自己修復機能を助ける」である。
幻覚魔法や憑依避け、ゴーレム操作の魔法は、精神作用への働きかけを原理としたテクノロジー群である。
空間転移術は「量子もつれの応用」を、いかにも彷彿とさせる。
重力と電磁気力に加えて、もう一種類の「力」がある世界があったら、そこはどんな世界なのだろうか。
本作は、そんな疑問から始まった、純粋な思考実験のようである。
そして、自然物に対して「記述」を加えることで、記述者の意図した挙動を再現させることを魔術と呼んでいる。
例えば、映画「マトリックス」で人間がソースコードのように描写されていたが、本作にも同じ感覚が通底している。
そもそも生命現象自体が自己保存プログラムの記述の結果である。
そう考えると、そもそも、人為と自然の境界線は曖昧なのである。
境界線。
そう、この作品は、境界線を常に考え続けている。
なぜ、食べてよい生き物の種と、食べるには不適切な種があるのか。
人間が人間を食べてはいけない。それは、常識的な生を生きる立場からすると、公理である。前提である。
しかし主人公は、そこを疑う。本当に、そこに境界はあるのだろうか、と。
考えてみたら、どんな生き物だって、なにかの死骸を栄養として生きている。
では、人間にどこまで似ていたら嫌悪感が発生し、どこから先まで行けば、それは消えるのだろうか。
本作は、無意識の前提を疑えと、繰り返し伝えようとしている。
主人公パーティのキャラクター造詣からして、すでにメッセージ性が濃厚である。
見た目は怪しいホームレスのオジサンだが、内面的には母性に満ちているセンシ。
見た目は子どもだが、世辞に長けた大人であるチルチャック。
いかにも主人公然としたチームリーダーであるにも関わらず、志でなく好奇心のみで駆動されるライオス。
人間には知識がある。知識とは、世界に境界線を与える作用のことである。
知識は有用なときもあるが、人間の、こと認識論においては、偏見という副作用が強い。
差別とは、人間が人間に対して強いる、恣意的な境界線である。
いや、そもそも生命とは、内と外を分ける、分け続ける働きのことである。
外の世界にある有価物を選別し、内側に取り込む運動のことである。
境界がなければ、生命は成立しない。
境界があることの寂しさを、切なさを、どうにかしたい、というのが、真の主人公であるマルシルの願いである。
本作のなかで、魔物という存在もまた、境界を守るもの、免疫作用の比喩がなされる。
内と外を分け、問答無用で排斥しようとする機能があるからこそ、個体は個体を維持できる。
そういう意味でも、本作はファンタジーでなく、SF的である。
ファンタジーであるならば、魔物は「恐怖の具象」であるはずなのだ。
しかし、本作では、魔物は「原理によって動くもの」であり、「理性によって理解できるもの」である。
エルフやドワーフといった人種差も「人体内の魔力の蓄積容量の違い」によって説明されている。
重力と電磁気力に加えて、もう一種類の「力」がある世界があったら、そこはどんな世界なのだろうか。
そういう思考実験として、この作品は描かれているように思える。
そんな本作が最後にたどり着いた「公理系」が「境界は、食べることで乗り越えられる」だった。