第270回「人間の器」
発表者 hiroponさん
【レジュメ導入】現代社会において「器の大きさ」とは何を意味するのか――有能さだけでは補えない、人間的深みや包容力の価値が問われています。本レジュメでは、丹羽宇一郎や福田和也の著作を手がかりに、「人間の器」という主題に哲学的な問いを投げかけ、自己や社会に対する省察へと読者を誘います。大器とは何か、小物とはどのような存在か。忙しない日常の中で見失われがちな、〈器〉という概念の再発見を試みます。
レジュメ音声概要
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レジュメ本文
【7月19日(土)新大阪】哲学道場例会「人間の器」【第270回】 - TwiPla
ふかくさ「〝器量〟のような属人的が概念が現れる文脈は、消極的な文脈と積極的な文脈に分けられる。(1)消極的な文脈とは、言わば歴史のうねりの中でどうしても決定論的、あるいは定量的な根拠づけが不可能な現象(例えばなぜあれほどナポレオンは連戦連勝し時代を席巻したのか? 彼の秘密とも呼べる特別な特徴づけがあったのか?)に対し、理論的な特徴づけが不可能な場合に、「ナポレオンが偉大なのはナポレオンに『軍事的天才』があったからである」という言わば説明に成ってない説明、もしくはデウスエクスマキナ的説明を付け加えて理論を閉じるものである。この場合、「大人物」や「天才」や「カリスマ」といった言葉はそれ以上説明不可能な空虚な言葉として意味を取るほかはない。消極的といったのは、このような属人的な説明不可能ワードが出た時点でその理論(例えば戦争理論)の限界を露呈しているようなものだからでもある。言い換えれば、理論が自己批判的になったときに属人的な概念に抱きつかざるを得ないという現象である。一方、(2)徳倫理学における〝美徳〟のような積極的に個人が自分自身が授かった才能を開花させることこそが善であり、倫理的実践的行為も行為単位でみるのではなく、人間単位でみるとするべきなのがもっと積極的見方となる。そこでは理論的一般性はむしろ放逐され、現にいる人材を見抜く鑑識眼の方が重要だということになるだろう。言い換えれば、scienceの話ではなく、人間学もしくは人間通として、個人に固有の器量を伸ばすにはどうしたらいいかという教育術 art が必要になる。私の意見では、この教育学の中でも最も超越性と内在性との相克が強く現れるのが『帝王学』である。帝王は言わば帝国創建の苦労と体験を経てしか帝王足り得ないはずなのだ。しかし、一方で世襲であれ養子であれ皇太子には必ず優秀な皇帝に成ること、つまり器量を人並み以上に身に着けてもらわなければ困る。なぜならば、そうでなければ皇太子の身命どころではなく帝国そのものの存亡、国民の生命財産が危ぶまれるからである。しかし、そうかといって皇太子に帝王学を実地に教える──実際に帝国を創らせる──というやり方で学ばせるわけにはいかない。そこに大きな矛盾が現れる……。/だが、このような葛藤はナポレオンや中国の諸帝国のような戦乱の時代にこそ劇的にわかりやすく我々大衆の眼の前にも結果論としてではあるが現れるものであって、平時はむしろ器量のデカい人物がむやみやたらにいては困るというか持て余すのではないだろうか? 民主主義国家では英雄も民主化されちっちゃくなるのが健全なのではないだろうか? 大器よりもプチ大器の集団の方が我々にはふさわしいのかもしれない」
hiropon 例会当日の議論で出た疑問の数々。
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〔真の〕器は必ず発揮される〔真の大器は発揮を伴うという直観もある〕
〔例えば、福田和也が大器の例として挙げる〕石原〔慎太郎〕を読む
〔現代に器のある大人物は〕いない?
〔自分自身が目指すべき人物として〕石原〔慎太郎〕になる
器は生まれつき〔あるいは教育可能?〕。
小人の方が評価される。
〔器が大きい者は〕インフラを作る
〔器がある人物の反対語としての〕才子、才人
〔ジェンダー的な偏りとして〕器は男性に使われがちである。
〔順境ではなく〕逆境でこそ器が問われる。
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参加者7名。
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