第254回例会「ジュディス •バトラーと私的演技の可能性」
発表者はウォンバットさん。参加者9名。
「ジェンダーは他者に向けて表出される行為、つまり演技だとするジュディス・バトラーの主張について、他者への表出を前提としない私的な演技もまたジェンダーとして捉えられるのではないか、という疑問を契機として、その起源を言語の獲得における一人称の成立と自身の身体の性的特徴の把握から取りこぼされる、前言語的なものとして捉えようとする内容だっと理解しています。参加者との質疑応答の中で発表者の洞察がより洗練され、問題も深化していったように感じました。」
ばぶ太郎
「性自認の在り方として、自己認識とともに性的分類が当てはまったのち、第3の自認、いわば自認を追認する段階の存在(つまりアイデンティティ?)を示唆し、またどのような成り立ちが考えられるかについて議論だった。
第一段落のバトラーを援用したジェンダーの定義において、ジェンダーとは別にジェンダーアイデンティティという語が出てくる。以後の議論でもジェンダーではなく実はジェンダーアイデンティティについての議論だったのではと思えるところがあった。
谷口論文を下敷きに、言語世界介入による私の成立以後でないとジェンダーが成立しないことを議論によって確認された。ここで言語を、(指摘にもあった通り)=演技と置き換えてみると、演技世界に介入してのち、なされる言語行為の表出が即ちジェンダー、とその構築物がジェンダーアイデンティティという形に重なる。
言語が理不尽に主体に与えられることや、演技の成立条件の謎が示唆されるが、おそらく発表者は一見この非本質的な在り方をした言語行為、ジェンダーの基礎に性自認成立前の主体を想定したかったのだろう、と理解した。
これが妥当かはさらなる議論が必要に思われるが、ジェンダーがその反復の効果に依っているという発表者が読んだバトラーの見立てを真に受けるなら、やはりなぜ反復ができるのか(反復するなら何か本質的な在り方なのではないか)という点で疑問が残る。
一方でこれに関連しつつ別の論点として、ジェンダーアイデンティティ成立に必然性がないのではという疑問が発表者からはたびたび口に出されていたかと思う。これもシンプルな性自認に類する話ならこの疑問は大袈裟にみえるが、一般にアイデンティティクライシスのような話に引きつけて考えるのであれば、もっともそうなことに思えた。」
ふかくさ
「谷口論文では特定の身体を私と認定することと、その身体の性別を形状などから認識することとは同時に起こるとされていたが、それと発表者の〝自己完結的演技〟との関係づけがわからず…」
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