第253回例会「死体に対する家族の権利の変遷」
発表は生命倫理相談所さん。
200200.icon「"たまたま寝転がったところに臓器と医者があり、それが身体の中に入ってしまった"」
谷口一平谷口一平.icon「社会の中で家族の権利がどのぐらい尊重されているかということよりも、当人の自己決定権と家族の権利が衝突する場合のほうが考察するに興味深い。死者をどのように扱うかとは別に、脳死が死であることを判定する権利を最終的に家族がもつので、死者とは何かをめぐる微妙な権力関係が浮き彫りになる。ところで胎児の権利と死体の権利とでは、論点がかなり変わってくるように個人的には思う」
Syun'iti Honda.icon「遺体や遺物に対する家族の権利について、その対象を死体・脳死者・無機物等に分類して、それぞれの対象に対する法律を含めた異なる5つの立場を紹介しつつ論じるという内容でした。発表者の詳しい解説のおかげで、臓器移植をめぐる制度と現状を垣間見ることができましたが、本来個人の一部またはそのものであった身体が死後に社会的資源となることや、延命技術の進歩によって、死そのものの定義や権利問題が複雑化することになったという印象を受けました。他の参加者からは『遺族の心情や権力にについての実定法に関する問題と遺体についての普遍的な権利を論じる自然法としての問題は別に論じるべきではないか』といった意見が出され、広がりのある議論になっていたと思います。」
ふかくさ「臓器移植の思想は古代からあったが、技術発展によってそれが現実の医療で可能になったこと、また『脳死』という生とも死とも言い切りにくい中間状態に時間が与えられたことで、権力争いが生じ、利害調整が必要になったこと、(1)脳死状態を死とするか否かと(2)死とした上で臓器提供するかどうかが日本では遺族に丸投げされる(本人の意思表示があっても提供拒否権が遺族にある)という事情について知ることができた。公共=社会=国家と本人意志と家族の三者の関係如何と発表者は話されていたが、深草は哲学の議題としては自然権としての普遍的な人権を仮定して、現実のパワーゲームやテクノロジーの中で可能かどうかとは切り離して扱うべきに思われた。仮にその方向で考察するなら身体の所有権は本人にあるのかどうか、身体の死とは何かということが課題になる。森岡のペルソナ論は、『生きている(=ペルソナが存在する)と家族が感じる⇒脳死状態の身体は生きている』という推論をおこなうものだが、本人ではない誰かや誰かの気持ちが存在するかどうかで重要な判断の根拠にするのは心理主義的であり、差別的だから良くないと判断した。なぜならば、好意的な身寄りがあるかどうかは脳死に成った人の責任ではないからである。なお、脳死脳死という割には臓物の方が気になるのも、ミソよりモツが好きな民族性が現れているように思われた」
告知ページ
https://scrapbox.io/files/66ade9a85c6a9d001ceac0b7.jpg