2024-07-08: avashe
公共的には「ある人の持つ属性から演繹される否定性」になるべく配慮すべきだが、その人の主観に近づくほど、むしろ観念を内面化して行動を自縛しないように努力すべきだし、時には挑みかかるくらいの気持ちを持つようにすべきだ。というようなことを考えていた。
「ある人の持つ属性から演繹される否定性」とは、もう少し具体的に言えばAという属性を持っている人はαが苦手、できない、向いてないというような命題のこと
これは精神疾患や発達障害に関する問題に留まらず、人のもつあらゆる不利を連想するような属性についての言及
ある人の属性が私やあなたにとって公共的なものであるか、またはより私的なものに近いかによってとるべき態度は異なるということ
公共的には配慮すべきだ。一旦その人がαができないという先入観を持ち、遠ざけたり支援するように立ち回る。
先入観を持たないことはできない。できるのはより配慮した先入観を持つことと、それが違った場合修正していくことだけだ。
私的には「私はAという属性を持っているからαができないのだ」と考えてはならない。特にそれが人生の課題に関係するなら、それが難しくとも取り組まなければならない。さらに言えば私は苦手なのだ、できないのだという考えは、現に失敗し続けるまで考えてはならない。逃避はあり得た可能性を潰し、問題をよりこじれたものにする。
誤解ないよう補足すると、ブラックな職場から逃げるなという話ではない。特定の属性に向けた援助を得られるなら、孤独に苦しまず、それは勿論活用していい。ここで書いていることは、人にはこうありたいという抽象的な目標があり、そこから逆算される人生の課題が存在するということ(それらは無自覚なことも多い)。これらの内の幾つかは不可避であり、その限りにおいて、どんな属性を持っているかは無関係だということである。
公的と私的という関係はグラデーションである
自分と一緒に悩んでくれる友人は他者ながらより私的な存在である
カウンセラーや精神科医は客観的な目線を維持したまま患者の私的な領域に潜り込む
ここでは言葉が負の思い込みを与える例を書いたが、言葉を与えるなと言いたいわけではない。言語化は活用すれば大きなメリットがある。しかし活用するだけなのであって、囚われてはならない。
自分を表現した言葉を見つけることで公共のノウハウを手に入れたり、自分の苦しみが孤独ではないことを知ったりして、快方に向かうこともある
重要なのは身体と観念を混同しないこと、そして人は観念ではなく身体として先立っており、言葉に制約されるものではないということだ
蛇足
Xにて「Aという属性の人がαできないことに配慮が無いやつがいて軽蔑する」といった趣旨のツイートがおすすめ欄にしばしば流れる。強い言葉に報酬を与えるSNSの厄介さや、摩擦を伴いながらも他者の属性へ配慮する社会へ少しずつ近づいてほしいという個人的な祈りはさて置き、ここではそういう言説が当事者を却って制約する可能性について考えていた。なんども強調するが、他人に対して無配慮なことを言うことを正当化するものでは断じて無い。むしろ他者へなるべく配慮しつつも、私自身が持つ不利とされる属性については、それを言い訳に人生から逃避するなという自戒の文章として読んでほしい。
人は言葉に汲み尽くされないとまとめてしまえばあまりにもありきたりで平板に感じる。しかしこうやって自作のピッケルでつついてみると色々学びがあってよかった。
観念(言葉として指示される)としての人と実存としての個人のミスマッチについて言及したが、これはそのまま「社会」や「人々」や「マイノリティ」ではなく眼の前の個人に寄り添うことの違いと同じだ