目標の内部化
自分が完全にコントロールできない他者、世界に幸せや楽しみを求めるのではなく、コントロール出来る範囲において幸せや楽しみを求める態度のこと
前者のアンコントローラブルなものに目を向けているのが外的なゲーム 後者のコントローラブルなものに目を向けているのが内的なゲーム 外部からやってきた幸せはラッキーであり、もちろん楽しめばいい
その後21世紀の道徳 (晶文社)でストア哲学的な考え方として同じ議論がされていたのでやはり先駆者はいるものだなぁと思いつつ命名を採用した 目標と書くと極めて具体的なものに聞こえるが、自分の選択している価値観・フレームワークから来るざっくりとした指針を実践するゲームと捉えてもいい
私は「自分がこうありたい」は感じることが多々あるが、「これさえやっていれば人生幸せだと言える対象(=好きなもの・こと)」がないことが悩みだ。なので価値観・規範を実践するゲームを遊ぶ、という一旦の結論に辿り着いた。
これは徳倫理学に接続する気がしているので詳しく学びたい 元々自分のゲームをすると造語していたのだが、他人に理解してもらうには抽象的過ぎるので冒頭のタイトルを採用した 自分の選択した価値観・規範の実践ゲームと見做せば徳倫理学とこのゲームは両立するのではないか 例えば、私はある種の社交性があるように振舞おうとするが、それは私は「そのような種の社交性を持つ人間でありたい(あこがれる)」からだ。外部の人間が親しくしてくれることは偶然の恩恵であり、それ自体を目的とすべきではない。
(avashe 対人ゲームのマインドの内容と重複するが)親しくしてくれる確率を高める振るまいを試行錯誤したり、正しく運用できるか試すというのは勿論この立場からも推奨される。目指すべきは最高の試合内容であり、目の前の相手はスパーリングに付き合ってくれる仲間と捉えるべきだ。その結果私は相手に好かれたり嫌われたりするが、それらは確率的なものであり、いわばダメ元という意識が重要となる。 これはサイコパス的だなと書いてて思ったが、むしろ自分の感情と無関係に実践できる価値観は自分の感情を保護できる。したがってこの点においてむしろ優れている。