思想書・哲学書の原著はダンジョン
思想書・哲学書全般に言えることだが、原著というのは解説書ではない。教科書や新書などに見られるパッケージングされた知識を受け取る本とは異なり、ある人が展開する思考・議論の流れを体験する本なのだ。なのでそこから何を持ち帰れるかは読み手次第となる。そういう意味で、思想書・哲学書の原著はダンジョンのようなものだと例えられる。 avashe.iconこれが現象学だ (講談社現代新書)でフッサールの解説を読んだときに理解したのだが、フッサールは生涯現象学をアップデートし続けており、彼の各著書はどれもがその成長途中のバージョンだった。分かりやすく体系的にまとめるということは亡くなった後だからできることであって、成長し続けている思考にそれはできない。コアコンセプトを強調して提示するくらいはできるだろうが、枝葉末節が複雑に生えていたり、バージョンが変わって言葉をより整合性のとれる形に再定義したりする。哲学者としては、分かりやすくするよりむしろ脳のダンプをなるべく正確に書き出すことの方が大事なのだろう。 などとわかった風に書いてみたけど、哲学書を読んでる時の主な感想は「もっと理解してもらおうと思ってかけ!かっこつけるな!神秘的なレトリックで煙に巻くな!」
日本語・存命の哲学者だと、永井均の著書で彼の哲学が徐々に更新されていく様子を追いかけることができる