ソクラテスに関する誤解
ソクラテス自身の著作は残っていないため、基本的にその弟子、特にプラトンによる記述によって残っている 紀元前399年にソクラテスが不敬神の罪(実際当時死刑レベルの罪)に問われ死刑になった、というのは事実 少なくとも裁判中プラトンはアテナイにいたので、裁判も見届けているはず
死刑後、ソクラテスの裁判に関する議論が起こり、その際にプラトンから見た「ソクラテスのこれまでの生と死」の意味を表明する必要があった
とはいえプラトンも10年くらいの付き合いなので、プラトンの考えの押し付けというよりソクラテス-プラトンの思想は明確に切り離せるものではなく、混合したものがここに現れているのではないかというのが訳者の見立て 批判的に見れば、プラトンのイデア論に親和的になるよう編集されている可能性もある
『ソクラテスの弁明』において、知恵について「知らないと思っている」という言い方をしている
『ソクラテスの弁明』において、「知る」と「思う」は区別されている
知るとは明確な根拠をもって真理を把握しているという状態
知っているものはその内容や原因を体系的に説明できなければならない
知っている対象の「知恵」とは、善、正義、美にかかわる真理を指しており、これを持っているのは神のみであることから、ソクラテスは神の持つ知恵に対比して「知らないと思っている」自覚を「人間的な知恵」と呼称している
avashe.icon私にはこれが善のイデアへの匂わせに見える
avashe.icon「神」という語に無条件に引いちゃう人は、この神が構造的にどのような概念なのか考えるのが大事です
人格神をすぐ想定しちゃダメ
ここでは問題の本質を遡っていくと表出する「根源的なオープンクエスチョンの答え」について、ソクラテス(を描写したプラトン)は「直接知りえない」と考えた、と思ってほしい
「知を愛し求める」姿勢を保ちながら、「知らないことを知らないと思う」ことを両立して始めて成立する
知を求めない消極的姿勢の人が「何も知らない」と言うのは意味を成さない
知を愛し求めることとは、ソクラテスとって物事の本質を理解しているか議論の最中で「吟味する」こと
この吟味を自他のために行う副作用でポリスの知識人(ぶった人たち)に恥をかかせて怒りを買ったり、弟子に付いた若者がソクラテス流を模倣することで若者を堕落させているとか言われて最終的に死刑になった
訳者は「不知の自覚」がいいのではないかと提案している 不知は知恵について「知らないと思っている」こと
思っている、というのは確証ではなく信念という一段弱いレベルである
avashe.icon無知と不知も区別されていて、不知の自覚がないことが無知らしい