ピアノまちづくり
──ストリートピアノ・寺ピアノ・ピアノラウンジ
2020.11.17~(執筆中)
ピアノを介したまちづくりを進めている。ピアノを弾いてきたし、ピアノで作曲してきたから、僕にとってピアノは自分の一部みたいなもので、これを通じて何か社会に貢献できることができないかと考えてきた。そんなおり、2019年にストリートピアノと出会って、これだと思った。00年代の環境NPOへのコミットからはじまり、2017年からライブをはじめ、2018年から空き家リノベーションやマルシェ、まちづくり、コミュニティづくりといったことに参画していた矢先のことだった。
アーティスト特権性の脱構築とカーニバル性
誰でも自由に弾けるストリートピアノの本質は、演奏者とオーディエンスが入れ替わることにある。通常の音楽イベントでは、演奏者は予めブッキングされており、プログラム通りにライブやコンサートは進められる。通常、オーディエンスは告知されたイベントに合わせて集まってくるが、多くの場合、特定の演奏家やアーティストが目当てである。
一方、ストリートピアノは、誰でも自由に弾けるために、特定の演奏家やアーティストのパフォーマンスを目的とするものではない。対価なしに、誰もが見られ、聴かれる公共空間でのパフォーマンスを誰もが担うことができることに、ストリートピアノの革新性(新しさ)がある。
しかしこれはいってみれば、何年、何十年も技を磨き、研鑽を積んできたプロフェッショナルなアーティストをある意味で否定するものともいえる。職業芸術家は、自らの芸や技術を披露することを生業(なりわい)とするので、無条件に無料で提供することはできない。無料で提供する場合には、基本的には自身のプロモーション(広報)であったり、公的な助成金やパトロンからの支援が必要だろう。
プロの演奏家がストリートピアノにどのように向かうべきかについてはopen questionであって、誰もが合意できるようなソリューションはないだろうが、ふだんの自分のイベントでは知り会えない人びとに知ってもらうよい機会、つまり広報的なものと考えればよいと思う。だからプロの演奏家がストリートピアノに出てくるメリットはあるし、それをYouTube等の動画でネット上で公開することももちろん、自身を知ってもらう広報の一環になる。なお、プロ演奏家のパフォーマンスがアマチュア演奏家を弾きにくくさせるということはありうるが、それはストピイベント運営上の問題である。プロが弾いたら小休止を入れるとか、子どもが弾くとか、セッションをやるとかすればリセットされる。
ストリートピアノがプロ演奏家にとっても、すくなくとも広報上のメリットがあることは了解されたと思うが、本当に重要なことは、アマチュア演奏家にとってストリートピアノは広報以上の社会参加である、という点である。プロ演奏家は、ステージやコンサートなどで自身のパフォーマンスを披露できるが、アマチュア演奏家にはそのような場は相対的に少ない。だからこそ、ストリートピアノで最も輝けるのは、アマチュア演奏家なのである。これにはプロアーティストのある種の特権性を脱構築する契機がある。ストリートピアノでは、プロもアマも、有名も無名も関係なく、同じ演奏者として平等である。もちろん腕の良し悪しやパフォーマンスの巧拙はあるだろうが、それでも演奏者として同一平面上にあり、それだけでなく、演奏者とオーディエンスが入れ替わることにより、演奏者とオーディエンスもまた疑似的な同一平面上にある。このような、フラットさ、皆が同じ平面上にある平等性と参加性が、アーティストとオーディエンスの間にある壁を突き崩す風通しのよさ、開放感と革新的な雰囲気をストリートピアノにもたらしているのである。
これは、かつて特権に守られていた貴族が市民革命によって特権を剥奪され、一市民として生きていかなければならなくなったことと似ている。出身の音大や誰に師事したかとか、コンクール入賞者とか、人気YouTuberであるとか、そういった経歴はストリートピアノではほぼ無意味であり、純粋にパフォーマンスだけで評価される。ストリートピアノはフラットだからこそ、けっこう大変な競争の場でもあり、それが様々に枝分かれしたパフォーマンスの多様性を生んでいる。ストリートだからこその、クラシックの技術だけではない、多様な価値観点があり、オーディエンスによって評価は千差万別でもある。たとえば高度な技術はなくても、リクエストに応えたりする双方向性があれば、場は盛り上がる。着ぐるみで演奏するとか、いろいろな芸もありうる。そういった演奏者による場づくりのうまさのほうがむしろストリートピアノには求められているのかもしれないのである。(もちろんいろいろなパフォーマンスがあるから、おもしろいのがストリートピアノの特長であるが。)
このようにストリートピアノは、いってみれば音楽の第二の民主化(大衆化)なのである(第一の民主化は20世紀にラジオやレコードとともに起こったロックやポップスなどの台頭、いわゆるポピュラーミュージックの世界的席巻)。市民革命以外でも、たとえばブログやツイッター(SNS)などでの情報発信は、ストリートピアノと似ている。YouTubeなどでの音楽配信は、もちろん意見表明としてのSNSによる情報発信と似ている。しかしSNSでの意見やコメントが当局の政策とか、新聞記事に乗っかって寄生する形で表現できるのとは異なり、音楽配信は独立した作品なので、うまく紹介されない限りは、ほとんどの人から認知されないことが多い。音楽配信そのものがツイッターなどでリツイートされることもあり、多くの人に知られることもあるが、ツイートする本人が多くの人びとにフォローされているとか、ハブに紹介されるといった音楽にとって外在的な構造によって、知る/知られないということは規定されている。しかしながら、ストリートピアノの現場は、そういったネットワーク的な構造的不平等性がなく、やはりフラットなのである。つまり、前述したプロとかアマとか有名とか無名が関係ないということがここでもいえる。ストリートピアノ──公共空間に置かれた誰でも弾けるピアノというきわめて単純な仕掛けは、構築された垂直的構造を脱構築する働きを内臓しているのである。
もちろん、アマチュア演奏家が活躍するためには、彼らがほぼセミプロに近いとか、ピアニストや他楽器の演奏家が相応の技術を有していたり、場づくりができるといったある程度の卓越性(腕のよさ)、つまり人的資本や文化資本といったさまざまな条件は必要だろう。ストリートピアノという文化が成立するためには、質量を伴った弾き手が一定層いないといけない。日本社会はヤマハやカワイを代表とするピアノメーカーやピアノ教室、音大のピアノ重視などピアノ文化の歴史的な育成という背景があり、この点はストリートピアノにとって恵まれた条件といえる。だからこそ、ここ数年で急速に世界的なストリートピアノ大国になったのである。
議論を脱構築のテーマに戻そう。バフチンが強調したように、中世の厳格な階層社会ではガス抜きの必要から、広場などにおいて身分を気にしない無礼講が許されるカーニバル(祝祭/ばか騒ぎ)が必要された。
カーニバルとは古代より続く、国や地域の違いによって様々な形態をとる祭りのことである。カーニバルにおいては、人々の間に通常存在する社会的、身分的な距離が取り払われ、無遠慮な人々の交わりが見られる。また、カーニバルは、動物が人間の衣装を着たり、貧民が国王に扮して国王の衣装を着たりする、価値倒錯の世界でもある。
古代より、広場はカーニバル性をもった場所であった。バフチンによれば、特に中世の人々は、規則にがんじがらめの生活と、カーニバル性を持った広場における生活との、二重生活を送っていたという。カーニバル広場においては、不謹慎、神聖なものに対する冒涜や格下げなど、あけっぴろげな生活が見られたという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ミハイル・バフチン
社会における垂直的な階層構造をフラットにする祭りは、いわゆる通常の音楽フェスでもある程度はみられるが、フェスではアーティストはやはり特権的なステージの上にあり、一般のオーディエンスがステージに上がることは許されない。つまり、フェスやライブでは水平性は徹底されてはおらず、教祖的な、つまり神のようなアーティストの超越性のもとでの、ファン同士の平等(神の下での平等)という構造が残っており、一種の宗教的な垂直的構造が維持されている。この残された垂直構造をさらにフラットなものにするのが、誰もがステージに立てる、誰もが主役になれる、ストリートピアノの仕組みであり、その演奏者の大衆性により、演奏者じたいのカリスマ性も脱構築されているのである。
https://gyazo.com/64ec187a1b65452252ca66880f312fd1
図:ストリートピアノは誰が演奏しているかよりも、純粋に音楽を公共の場で共有することに意味がある
ストリートピアノにおいては、どんなに高度なパフォーマンスをもつ演奏者も、演奏者の一人にすぎない。1日に100人の演奏者が演奏したとしたら、1/100の存在にしかすぎない。だからこそ、演奏者とオーディエンスの溝が埋まり、フラットな場が実現されている。誰が演奏するかよりも、音楽そのものと、音楽のある場を作り出す人びと、参加者全部が重要な役割をもった主人公なのである。ストリートピアノで用いられるアップライトピアノは演奏者の顔が見えず、オーディエンスは後ろから音楽のみを聴くことも多いが、誰かわからないけれども、いい音楽を奏でてくれていて、それにノッていく、というのがストリートピアノという新しい音楽シーン、音楽体験の新しい様式なのである。
そして、アーティストに代わるここでの神的なものは、むしろ沢山の演奏者たちとオーディエンスが一体としてつくりあげる《協働性》にあるのだ。一演奏者だけでなく、集まってくれた多くの演奏者、オーディエンス、そして主催者といった関わる全ての人びとが、プログラムもシナリオもないなかで、かなり対等な力関係によって、ひとつのイベントを、こういってよければ、ひとつの筋書きのないドラマを即興で作り上げていく。このいわば創発特性、デュルケームのいう《集合的沸騰》にこそ、ストリートピアノの醍醐味があり、最大の魅力がある。演奏者の力量にのみ還元されない、そこに集まった人びとの力、参加者の心意気の掛け合わせ(相乗性・シナジー)こそがストリートピアノの本質なのである。
ピアノ弾きの社会性
ピアノは、1人オーケストラともいわれる。1人で完結してしまうので、あまり仲間を必要としない。だからこそ、黙々と1人で練習に励み、1人の世界に埋没する一匹狼タイプが多いと思う。いってみれば、ピアノ奏者(ピアニスト)は作家や研究者に近いと思う。ドラムやパーカッションなどの打楽器奏者(リズム隊)がメロディを奏でる他楽器奏者を必要とし、トランペットやフルートなどの管楽器がコードを奏でる他楽器奏者を必要とするように、通常は、メロディ、コード、リズムの音楽の基本三要素を全てできる楽器はほとんどない。たとえば、ピアノと似たオルガンはリズムを奏でない。ピアノだけが、三要素を全てこなし、かつ(そのピアノフォルテというその本来の名称にあるように)強弱を自由につけられる。管楽器や弦楽器と違って、音を続けて大きくすることはできずすぐ小さくなるが、そのぶん、多くの音を使って複雑な音楽を奏でることができる。
その一方で、ピアノ奏者も人間である。作家が文章という表現方法によって社会と繋がるように、ソロで完結しがちなピアノ奏者も、他者や社会と繋がりたいこともある。これは承認や交流といった基本的な欲求を背景とすると考えてもよい。人間は本来的に相矛盾する欲求をもっている。1人でいたいときもあれば、誰かと繋がりたいときもある。時と場合によって、自己の欲求は変化する。こうして孤立しがちなピアノ奏者も、承認や交流を求めており、だからこそストリートピアノのような誰かに聴いてもらえる場にニーズがあるのである。
ピアノのように、オーディエンスと直接目線を合わすことなく演奏できる楽器はシャイな日本人に向いている。これはピアノ奏者だけでなく、オーディエンスにとってもそうなのである。奏者から見られることなく、奏者を見ることができる、というのは、いわばオーディエンス(聴き手)の特権でもある。いってみれば、これはTVやラジオに近い気軽さがある。ストリートピアノの聴き手になるための敷居は非常に低い。この点は、ギター弾き語りなどの路上ライブを囲むファンになるか否かを迫られるかのような一般のストリート・ミュージシャンとはけっこう違う。
1人オーケストラの革新性
ピアノが1人オーケストラとして個人での活動に向いているのは、同じく個人でのコンピュータ(パーソナル・コンピュータ)の名称をもつPCの普及やITエンジニアの拡大と響き合う。PCのキーボードと、電子鍵盤楽器としてのキーボードが同じ名称であるように、ピアノとPCの相関は高く、DTM(デスク・トップ・ミュージック)などでは鍵盤キーボードによるMIDI入力がなされる。要するに、ITとピアノはきわめて相関が高く、ピアノとDTMができることによって、多様な音源を用いた作曲にも開かれている。J-Popやジャズ、クラブミュージック、ゲーム音楽、映画音楽などさまざまな楽曲提供をすることができる。作曲家はピアニストであることが多いのはこのためである。
ピアニストはPCの個人作業や作曲というクリエイティブな作業に向いているので、現代アートのように、新しいジャンルを切り開くような人もいる。たとえば、高木正勝は、作曲家、ピアニスト、映像作家であり、コンピュータに精通しながらも、田舎に拠点を構えて自然と調和した暮らしをしている。
ピアニストはソロアーテイストとして個人で完結するからこそ、機動性が高く、新しいことをしやすい。一方、オーケストラは十数人くらいいる団体なので、新しいことをするのは難しく、どうしても以前からの営みを繰り返すことになる。クラシック音楽が、Classicという古典を意味するように、また主に18世紀後半から19世紀くらいの100年から200年前の西欧音楽を意味するように、クラシック音楽好きは一般に文化的に保守的である(政治的には革新的かもしれないが)。
その一方、ソロでの活動が基本であるピアニストは作家、美術家、研究者、クリエイターと同様に、文化的にも革新的でありうる。ピアノの魅力は、こういったいわば作家性やクリエイター性にもあり、オーケストラや管弦楽団に比べたら、現代の他のクリエイターたちとコラボレーションすることが比較的容易なのである。ヴァイオリンやビオラのような弦楽器が(ジャズを含む)バンドに入ることはめずらしいが、ピアノやキーボードがロックやポップスでは珍しくないし、ジャズではピアノはデフォルトである(ジャズバンドのミニマムはピアノ、ベース、ドラムのピアノトリオ)。
ストリートピアノとピアノバー
ストリートピアノの隆盛の背景には、もちろん日本社会におけるピアノカルチャーの成熟がある。
①前世紀のヤマハによるピアノ普及
②キーボードやシンセなどITやピアノ親和性の高さ
③21世紀のネット社会における動画配信カルチャー(まらしぃをアイコンとする家ピアノ配信)
④ピアノバー、ピアノラウンジ、ピアノのあるレストラン、ピアノスタジオなどのピアノのある場の普及
⑤→Pia-no-jaC←、H ZETT Mなどのインストバンド、清塚信也などのポップなピアニストの活躍
無料のストリートピアノは、ピアノラウンジやピアノバーなど有料の施設にとってプラスなのか、それともマイナスなのか?これはひとつの解くべき問いだが、新宿三丁目のロシナンテなどを考えると、ストリートピアノはむしろ既存のピアノバーなどには追い風に思われる。というのは、ストリートピアノを弾いてから、そこで出会ったピアノ仲間たちと飲もうとすれば、やはり客が弾けるピアノバーに行きたいと思うからである。
一方、プロやセミプロにしか弾かせないジャズバーのような場所はややオールド・ファッションなものになってくるのかもしれない。だが、そのようなバーでもオープンマイク的な「オープンピアノ」デーなどを作ることで、ストリートピアノのように自由に弾けるシーンを作ることはできる。
ストリートピアノは、このように、既存のピアノバーやピアノラウンジの営業形態を変えていき、限られたピアニストの特権であった楽器演奏という行為をより開かれたものにしていく。このことは、もちろんプロピアニストの演奏だけを聴きたい客にとっては朗報ではないだろうが、店の新しい客を開拓することはできる。あるいはピアノバーそのものの敷居を低くしてくれるかもしれない。もちろん、これはオープンデーという形でピアノを週に1, 2回ないしは数回開放するのであって、いつも開放する必要はないので、既存の客層との両立は可能に思える。
私自身は演奏者や作曲家といった音楽家の視点だけでなく、まちづくりという視点からストリートピアノを考えているので、ストリートピアノとピアノバーが両立できるような仕掛けを考えていきたい。ストリートピアノはたしかに、創造的破壊をもたらすようなイノベーティブな側面があるが、だからといって既存のピアノバーやピアノスタジオがなくなるべきでない。たとえば、やはりストリートピアノは不特定の聴き手がいるので練習の場ではなく、基本的には披露の場であるべきだから、練習はスタジオで行うべきだと思う。
音楽家と場所性
音楽家、特に演奏家、ミュージシャンは場所によらず、どこにでも行き、そこで音楽を奏で、人びとを喜ばせることができる。だからミュージシャンにとって場所はそれほど本質的ではない。しかし、ミュージシャンも刺激を与えあったり、語り合ったりできる仲間がほしいものだ。そこでミュージシャン同士で集まれるように、近くに住んだりすることはあるだろう。特に、音楽大学のまわりではそういったことが多いだろう。
かつての渋谷がミュージシャンたちに魅力的だったのは、ミュージシャンが集っているため、ライブハウス、カフェ、レコード屋といった音楽にまつわる店が多く、音楽をやるうえで、非常にやりやすい環境であったからだろう。
それと同様に、ストリートピアノ、ピアノラウンジ、ピアノカフェ、ピアノスタジオといった店舗や場所が整っていれば、ピアノ奏者が集ってくることができると思う。そして集まってくれば需要があるので、こういった人たちが集まってきて、住んでくれるかもしれない。常設ストピは、そういう意味で、店舗や場所のようなものである。
スクエアゼット・プロジェクト square_az
square_azという名義で、私は2017年にライブ活動をはじめたが、これにはいろいろと伏線がある。ピアノそのものは2011年に再開した。2011年は東日本大震災があった年だったが、芝浦工大の専任教員(助教)になれたのを契機に、それまでの学術的な研究教育活動だけでなく、音楽を再開した。赤羽発の音楽教室Beeのピアノコースに通いはじめる。主な目的としては、自作曲を発表会で聴いてもらうことにあった。せっかく作曲しても当時はストリートピアノなどもなかったので、気軽に誰かに聴いてもらえるのは教室の発表会くらいだった。
翌年の2012年からは年2回催されるBeeの発表会の懇親会等で私と同じように、ピアノを通じて友人やコミュニティを作りたいと思っていた当時30代前半や20代の生徒たちとカラオケ感覚のピアノ・パーティを立ち上げた。すでにmixi等のSNSやネットのサイトなどを通じて、ピアノ弾き合い会やピアノ・パーティは存在していたが、そういった社会人サークル的なものは、大学のピアノサークル出身者などが多く、当時の私にはとても敷居が高かった。腕に覚えがある者でなければ、なかなか公共的な場に参加することは難しいので、都内などでの弾き合い会はレベルが高くなる傾向にあると思う。したがって、ある程度、自分好みのピアノ・コミュニティを作るためには、当然ながら一番ではなくてもある程度、ピアノの技量が相対的に上のほうにいないとやりづらい。そういう意味では、ピアノ教室は初心者に近い人もいるし、私自身が引っ張れる位置に立つことができた。ピアノだけなら独学でよく、教室に行く必要はあまりないのだが、ピアノを通じたコミュニティづくりをしようと考えた私にとっては、ストリートピアノがほとんど普及していなかった当時においては、ピアノ教室に通う一択だった。
ピアノ・パーティに参加してくれたピアノ弾き語りのcazさんという私と同年代の方が、ボーカル出身で非常に歌が上手いということで2016年くらいからライブをはじめた。すでにcazさんとは友人になっていたので、ライブの客としてライブハウスに行く機会が多くなった。このライブは LAY - aco(レイアコ)というギター弾き語りを中心とする弾き語り系のアーティストが110組以上集まるような長時間にわたるライブであり、そこで多くのアマチュア・アーティスト、兼業アーティストと知り合うことになった。
2017年に入って、私自身も自作曲のインスト・ピアノで、Lay - acoに出演するようになった。最初の名義はmpsq_azで、sqはsquareの省略形だが、読めないので、後にsquare_azに改名した。mp^2は、Masayoshi Muto Piano Projectの頭文字、MMPPが(MP)^2と書けるので、mp-squareと読む。aは今住んでいる赤羽、zは出身地の逗子の頭文字で、逗子から赤羽に来た私のルーツを表現している。MとPに関しては武藤がピアノをやっているのは自明なので略してしまって、形式的なものsquareだけが残った形になるが、二乗、掛け合わせ、広場という意味をもつsquareは、形式的なもの以上の意味をもったので、そのまま使うことにした。azは、私のルーツである赤羽と逗子という意味だけでなく、from a to zで森羅万象、宇宙全体、世界の全てを意味するので、square_azには、森羅万象の掛け合わせ、cross world的な、意味をもたせることができたので、この名義でいくことにした。のちに広場などに置かれるストリートピアノの主催をはじめることになったので、広場(公共空間)とsquareに意味も帯びるようになり、いろいろな意味をもたせることができてよかった。
私が出演していたはLay - acoじたいも、矢口さんというBeeボーカル教室(ギター教室)の生徒が立ち上げたイベントであり、Bee赤羽校は、アマチュア・アーティストが生徒にけっこういるような場であった。
パフォーマンスアートとソーシャルキャピタル 2023.5.22
音楽、ダンス、演劇、サーカス、体操、フィギュアスケート、バルーンパフォーマンス、マジックなどは広い意味でパフォーマンスアートとよばれる。サッカーや野球のようなスポーツや美しく盛り付けされた料理もパフォーマンスアートにいれてもいいのかもしれない。パフォーマンスアートはモノではなくコトであり、モノとして形が残る美術・文学・映画とは違い、後には何も残らない。祭りの後の儚さである。しかし本当に何も残らないのだろうか。儚いがゆえに、それは以下にみるような集合的な価値をじつはもっている。
美術や映画などは、基本的にモノなので、いつでも楽しむことができる。音楽も配信やCDなどはいつでも楽しめるものだが、じつは音楽の本質はライブでありパフォーマンスアートである。パフォーマンスアートという用語は長いのでライブと言い換えよう。ライブと芝居、およびCDと映画はパラレルな関係であるが、ともに技術の力を借りないライブや芝居のほうが基本的であり本質的といえる。
美術は、それが展示されているミュージアムに行けば、展示期間中ならいつでも楽しむことができる。しかしライブは原理的にはその時と場所(イマココ)での一度きりである。個人の都合を考えれば、いつでも楽しめるほうがよいが、ライブはそういうものではない。
しかしそのかわり、ライブでは出会いがある。それゆえ音楽等のライブは、人と人の繋がりを作り、社会関係資本(ソーシャルキャピタル)の醸成を通じて、①人と人の関係を作ることで福祉的・予防医療的に居場所をつくることができる。そしてさらに、②異分野間の化学反応を起こして文化経済的に新しいものを生み出すことができる。こういった機能は、時間と空間が限られているからこそ可能になる。
モノとしては何も残らないから一過的なものにすぎないともいえる音楽等のライブは、じつは人びとに同時共通体験をもたらすことで、人びとの間にある繋がりを活性化し、社会関係資本を豊饒化させているのである。
芸術と福祉の弁証法(ARTとCAREのaufheben)
芸術が芸術だけのためにあるとしたら、それはやはりつまらないと思う。芸術の本質は、人の心を動かすところにあるが、感動は生活にアクセントを与えてその質(QOL)を劇的に向上させる一種の福祉でもある。たとえば、夢中になる、我を忘れるといった体験は西田幾多郎の純粋経験を想起させるように、自己意識やつまらないものに囚われがちな「現存在」を一種の解放へと向かわせる。芸術は至福であり、至福は癒しを含意するというか、超えている。いわば芸術は通常の治癒を超えた超回復的なポジティヴ・ヘルスといっていい。芸術は医療としては過剰なのだろう。
とはいえ上田紀行『スリランカの悪魔祓い』にみるように、未開社会においては治療・祭・宗教・芸術は未分化であり、むしろその機能分化されていない形態こそが、本来の意味での人間的な癒しになるものだった。このような社会においては、人と人の繋がりの回復が、治癒と同一視されうる。
たとえば、ライブやコンサートで、アーティストと聴衆が、時間と空間を共有する生の音楽という共通体験によって図らずとも一体感を得ることがあるが、この集合的沸騰(デュルケム)も、人と人を再び近づけさせ、和解させるものである。人間は社会的な動物であり、他者に関わることができない完全な孤独は、空虚や虚無すなわち無力感や生きがいのなさを帰結してしまう。
ベルリンフィルによるベートーヴェンの交響曲の演奏やレコードに典型的にみられるような観賞価値は、聴き手の側に立った芸術の根源的価値の1つであり鑑賞に堪える芸術性だが、その一方で楽器を演奏したり歌ったりするプロセスそのものの演奏参加性は、音楽におけるやはり根源的な価値であり、ミュージッキング(「音楽すること」)としてスモールが強調するものだ。演奏参加性は、芸術性のような芸術文化的価値というより、教育や社会参加、癒しやケアといった面も含めた福祉社会的価値を体現するものである。もちろん広く言えば、音楽演奏への参加は、文化芸術的価値(文化>芸術)すなわち文化的価値をもっているのだが、芸術文化的価値(芸術>文化)すなわち芸術的価値を無条件にもつものではない。すくなくともそのように整理したほうが見通しがよい。
鑑賞性と演奏参加性は、聴き手と演奏者の対立を反映した重要な区別である。音楽は基本的にはその作り手である演奏者や作曲者を中心とした情報発信であるが、それが価値があると認められるには聴き手による評価を必要とする。柄谷行人のいう売り手と買い手の非対称性がここにはあり、じつは演奏者より聴き手のほうが立場が強いのである。(ストリートピアノの場合、聴き手の立場は特に強く、聴かずに立ち去ったり、ピアノから離れて会話など別のことをするということができる。)とはいえ、ミュージッキング的な立場にたてば、音楽にとって評価は二次的なものであり、演奏することそのもののプロセスのほうが重要である。
とはいうものの、演奏参加性と鑑賞性をいかにして両立していくかは、地域社会における音楽イベントに関わる実践者にとっては常につきまとう大きな課題である。アマチュアや参加性を重視するか、プロや鑑賞性を重視するか、という選択である。サントリーホールのような格式ある大きなホールではこういった課題はおこらずつねにプロや鑑賞性を重視するのが自明だが、予算のない地域イベントなどではストリートピアノのように必然的に演奏参加性を重視することになる。
演奏参加性と鑑賞性の両立は、第三の道を探ることによって可能になることも多い。この第三の価値は、音楽の外部価値である。それはのちに、音楽を別の目的の手段として捉える手段的価値として議論するが(3タイプある)、ここではBGMのような形で音楽が人びとの集まる場を和やかにするという音楽外的な価値を広く有していることを指摘しておきたい。映画音楽などにも使われるように、音楽は演劇、アニメ、TVゲーム、CM、宗教的儀式、式典、祭り、パーティなど様々な総合芸術的作品や社会的イベントを支える部品でもある。クラブイベントなどをみればわかるように、音楽は人びとの繋がりを深め、コミュニティを形成するものでもある。歴史をみれば、音楽は祝祭・医療福祉・宗教などと一体であったし、そこから音楽が芸術として機能分化して独立した価値をもつに至るのはバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといった近世近代的な現象ともいえる(職人としての演奏家はいたが、ベートーヴェンのような芸術家がいわば職人ではなく思想家として尊敬されるような芸術が芸術として独立の価値をもつようになったのは近代だということ)。
私たちは音楽がそれ自体として独立な芸術性といった芸術至上主義的な価値をもつという社会通念のもとに生きているが、このような通念はそれほど古いものではない。むしろ、たとえば日本有数の作曲家だが、いわゆる独立な芸術作品を作ることには無関心な菅野よう子のような音楽家のほうが自然なのかもしれない。菅野はあるアニメ、ゲーム、CM、ドラマといったテーマを依頼されて楽曲を制作するが、音楽は本来的にはそのような役割を果たすものである。こうした音楽外の様々な事柄との関わりのなかから音楽というものを再度、位置づけていくことが、おそらく演奏参加性と鑑賞性の対立を止揚するのだと思う。
とはいえ、菅野よう子のようなプロの仕事は、明らかにハイレベルな鑑賞に堪える芸術的価値をもっているし、こういったプロの仕事は演奏参加性とはあまり関連性をもってはいない。そこで、演奏参加性と鑑賞性を両立していると考えられる、ストリートピアノとオープンマイクに共通してみられるものを抽出したい。それは結論的にいえば、コミュニケーションである。交流といってもいいが、演奏者と聴き手のチェンジが起こるということを含む。この役割交換は、カラオケでも起こるのだが、カラオケはおそらく一般的すぎて多くの場合、鑑賞性を伴うことが少なく演奏参加性や歌うことじたいの娯楽性に重きがおかれる。これはカラオケボックスではなくカラオケスナックのようにより見知らぬ人がいる場においては減り、鑑賞性が高まりはするが、ストリートピアノやオープンマイクのような場のほうが(鑑賞性を重視する)LIVEやコンサートに近いのは明らかだろう。しかしいずれにしても、役割交換は演奏者と聴き手の溝を埋め、両者に対等な関係をもたらす。これは人間にとって居心地のよいものであり、コミュニティの成員は対等であるべきという(レイ・オルデンバークのいう)サードプレイス的な要件も満たすことになる。サードプレイスの本質は対等な立場での会話すなわち「水平的コミュニケ―ション」であった。そして、ストリートピアノやオープンマイクのような役割交換を伴う音楽シーンにおいては、この水平的コミュニケーションが、たとえ会話を伴わずとも実現しているのである。
コミュニケーションとしての音楽 2026.2.9
音楽は演奏者(あるいは音源制作者)と聴き手からなる一種のコミュニケーションであり、通常は(瞬間的には)演奏者・制作者から聴き手へと一方通行で流れるコミュニケーションである。しかし、感想やコメント、拍手、投げ銭、リクエスト、その演奏を聴いて何かが自分の中で変わりそれが行動に反映するといったような、ややタイムスパンを長めにとれば、双方向的なコミュニケーション(相互行為)と考えることもできる。
音楽をコミュニケーションとして考えると、なぜ私たちが音源ではない生演奏に心が動かされるのかがわかってくる。生演奏では主にイマココの目の前の人びと(あるいはLIVE配信先の人びと)のために演奏行為(音楽行為)が行われる。この、ほかでもないあなたという聴き手のために音楽家が演奏することは、聴き手にとって一種の聖性(アウラ)をもった価値をもつことになる。会場に来てくれている/配信を観てくれているあなたのために、演奏するという演奏家から聴き手へと向かう《他者志向性》(ハイデガーでいうならば気遣い)を認知的あるいはメタ認知的に聴き手が理解しているために、たとえCDやYouTube音源とそれほど変わらないばかりかそれらより完成度では劣る生演奏であっても、聴き手は感動するのである。(一見するとCD音源のように完璧なモノのようにみえる)音楽も、本質的には生身の身体をもつ人と人のコミュニケーションなのである。
(ここから容易にわかるように、聴き手の数が少ないほど、「あなただけのために」というイマココの特別な価値は高まる。大きなホールよりも、小さな部屋で少人数の人びとに対しなされる演奏のほうがこういった観点では価値が高くなる。このことは貴族のサロンではなく近代初期に一度に沢山の人びとを収容することができるホールによって音楽が民主化されていったこととは正反対の価値の転回が起こっているといってよい。)
音源としての音楽の価値がほぼタダ(フリー)に等しくなったサブスクリプション全盛の音楽界においてはLIVEでしか稼げなくなったといわれて久しい時代において、コミュニケーションとしての音楽というのは、いってみれば音楽の先祖返りといってよい。ネット社会の今日では、モノとしての音楽の価値がほぼタダになってしまったがゆえに、コトとしての音楽、すなわち誰かが誰かにコミュニケーションするという音楽の本来のあり方が浮き彫りになってきたのである。
なんのための音楽か──音楽のもつ多種類の価値  2026.2.8
音楽は楽しいから、好きだからやるものだろう。音楽に限らず、美術、演劇、大道芸、スポーツなどは、それじたいが私たちの生きる目的や意味であり、生きがいであり、それじたいが生活を豊かにする楽しみである。音楽などの芸術は、コンサマトリー(自己充足的)なのである。だが芸術に限らず任意の事物は、一般的にそれ自体の価値だけでなく、他の事物にプラスマイナスの影響をもたらす正負の外部性をもっている。特に正の外部性をもつ場合には、目的-手段系列に組み込まれうる。たとえば、適度なスポーツは自身の身体を頑健にし、健康を増進させる。音楽や美術はその演奏家・作家自身の喜びをもたらすだけでなく、他者にも喜びをもたらすし、音楽がBGMとして雰囲気を作ったり、絵画が空間に品位をもたらしたり、といった手段的な効果をもっている。
芸術の手段的価値は、自己充足的価値の副産物でもあるが、手段的価値そのものを目的化することもでき、それがBGMであったりする。アート(芸術)に近いが、デザインというジャンルは、より手段的価値のほうに比重が移っている。ただ、より自然で本来的なのは、芸術にせよデザインにせよ、自己充足的価値と手段的価値をともにもっている、ということだ。片方だけに限定させる必要はないのである。(以下ではそれぞれ「自己充足価値」「手段価値」とよぶ。)
プロの音楽家は生きていくために音楽活動をするわけだが、アマチュア音楽家は純粋に音楽それ自身のために活動をしている。音楽だけが目的ではなく、音楽を通じた交流や音楽を通じた地域や社会との接点など、あるいは自身の承認の問題を解決するためという動機もあるかもしれない。ただいずれにせよ、音楽活動をする動機や目的は様々でありうるし、それが一つに限定される必要もない。動機や目的というのは、本来的には複数的なものであり、複数ゆえに全体として強い動機やエンジンになりうるのである。
音楽の価値を区別するのに、自己充足価値と手段価値という視角とは独立に、意味的価値、欲求的価値(心身に関する価値)、物象的価値という3つの次元を区別することができる。このうち、物象はモノやモノ的なもの(作品そのものや譜面)に関するモノ的次元であるが、意味とニーズ(欲求)は人間に関する価値である。意味的次元と欲求的次元(ニーズ的次元)を区別するのは、前者が意味的世界に関わる一方、後者は身体的・心理的世界に関わるものであるからである。欲求的価値は、心理的価値、心身的価値、ニーズ的価値ともいいかえられるが、有名なマズローの欲求階層説(科学的には立証されてはいない)などで著名な諸欲求や健康、エランヴィタール(生の躍動)的な衝動、ミュージッキング(演奏参加の価値)などに相当する。
table: 音楽における価値の三次元と目的価値と手段価値
▽目的価値 Final Value ▽手段価値 Instrumental Value
▷反省的 Reflective 自己の精神的快/芸術文化発展 他者への精神的快/交流・繋がり/地域・社会貢献
▷前反省的 Pre-reflective 活動欲求の充足 自己と他者の心身の健康/承認/自己実現
▷物象的 Object-based 作品/作編曲/演奏/再生 BGM/場の雰囲気
反省的価値は音楽の意味的価値、前反省的価値は音楽の身体的価値
※ 音楽のもつ価値をつぎの6つに区別できる:
1. 反省的目的価値 RFV: Reflective Final Value
2. 反省的手段価値 RIV: Reflective Instrumental Value
3. 前反省的目的価値 PRV: Pre-reflective Final Value
4. 前反省的手段価値 PIV: Pre-reflective Instrumental Value
5. 物象的目的価値 OFV: Object-based Final Value
6. 物象的手段価値 OIV: Object-based Instrumental Value
※ old version
table: 音楽における自己充足価値と手段価値
▽自己充足価値 Consummatory Value ▽手段価値 Instrumental Value
▷意味 Meaning 自己の精神的快/芸術文化発展 他者への精神的快/交流・繋がり/地域・社会貢献
▷欲求 Needs 活動欲求の充足 自己と他者の心身の健康/承認/自己実現
▷物象 Objects 作品/作編曲/演奏/再生 BGM/場の雰囲気
1. 意味的自己充足価値 MCV Meaning Consummatory Value:自己の精神的快=高度な情操/芸術文化発展
2. 意味的手段価値 MIV Meaning Instrumental Value:他者への精神的快/交流/地域・社会貢献(繋がり・ミュージッキング)
3. 欲求的自己充足価値 NCV Needs Consummatory Value:活動欲求の充足(衝動的欲求)/演奏参加(ミュージッキング)
4. 欲求的手段価値 NIV Needs Instrumental Value:自己と他者の心身の健康/承認/自己実現(マズロー的なもの)
5. 物象的自己充足価値 OCV Objects Consummatory Value:楽曲・作品・音源/作編曲/演奏/再生(モノとしての音楽)
6. 物象的手段価値 OIV Objects Instrumental Value:BGM/場の雰囲気(家具音楽=サティ的なもの)
上記の6タイプの音楽的価値に、特に序列はなく、音楽現象を自己目的と手段という目的手段の視角と、意味・欲求・物象という3つの対等で独立的な次元をもつ視角から分析しているにすぎない。3次元のうち前二者は人や人の繋がりに関わり、後者はモノに関わる。意味と欲求の違いは、反省的なものと前反省的なものという意味であるが、音楽鑑賞(観照)の結果得られる高度な情操をもつ精神的快は快楽的なものではなくむしろ意味的なもの(長期にわたって続く重要なもの)として位置づけている。
私は以前に、音楽の内在的価値における演奏参加価値(演奏者中心)と鑑賞価値(聴き手中心)の対立をとりあげ、前者を福祉社会的価値、後者を芸術文化的価値をもつものとして位置づけた。もちろん、現実の演奏会などにおいては、2つの価値が止揚されるわけだが、これら以外に音楽の音楽外的価値=音楽の外部性=音楽の手段的価値を指摘し、BGMやDJクラブなどにおける交流価値などを例にあげた。
音楽の手段的価値については、意味的(MIV)、欲求的(NIV)、物象的(OIV)という3つの次元があることを上表で提示したが、これらはそれぞれ交流性、承認と自己実現、BGMという具体的な形をとることがわかる。
一方、音楽の内在的価値としての演奏参加価値と鑑賞価値は、自己充足的価値であり、それぞれ欲求的(NCV)と物象的(OCV)に対応すると考えられる(演奏者中心のミュージッキングは音楽視聴も含むのでNCVが完全に演奏者中心であるわけではなく聴き手の立場も汲んでいる)。では、意味的自己充足的価値(MCV)は、どうかといえば、この価値は、演奏者側にも聴き手側にも関わっているといえる。MCVは音楽それ自体に文化芸術的価値を認める、一種の芸術至上主義的な価値であり、これは演奏者と聴き手という音楽的コミュニケーションそれ自体の様式としての価値なので、演奏参加も鑑賞もこのコミュニケーションの表裏一体の側面にすぎず、これらが統合された音楽的コミュニケーションの価値を謳うものなのである。
芸術至上主義は物象的自己充足価値(OCV)も伴うが、名曲のみに価値があると考えるOCVではなく、MCVはあらゆる演奏行為が尊く、意味があると考える。この視点では、誰に聴かせることもなく、家での楽器演奏もまた芸術文化として価値がある。たとえ誰も聴かないシーンにおいても、演奏は自己が文化に参与する感覚を伴っているからである。(またもちろんこの自宅練習やスタジオ練習などが、聴き手を伴う演奏会への準備であるとすれば、明らかに芸術文化的価値を伴う。)
なお、音楽の物象的自己充足価値(OCV)は、名曲、偉大な演奏のレコード、名曲を残した古典的作曲家(ベートーヴェンやモーツァルト)といった古典的な音楽価値論の立場といえる。これに対してミュージッキングは、音楽の欲求的自己充足的価値(NCV)や音楽の意味的手段価値(MIV)に関わっている。
ミュージッキング Christopher Small
Musicking — the meanings of performing and listening. A lecture
The essence of music lies not in musical works but in taking part in performance, in social action. Music is thus not so much a noun as a verb, ‘to music’. To music is to take part in any capacity in a musical performance, and the meaning of musicking lies in the relationships that are established between the participants by the performance. Musicking is part of that iconic, gestural process of giving and receiving information about relationships which unites the living world, and it is in fact a ritual by means of which the participants not only learn about, but directly experience, their concepts of how they relate, and how they ought to relate, to other human beings and to the rest of the world. These ideal relationships are often extremely complex, too complex to be articulated in words, but they are articulated effortlessly by the musical performance, enabling the participants to explore, affirm and celebrate them. Musicking is thus as central in importance to our humanness as is taking part in speech acts, and all normally endowed human beings are born capable of taking part in it, not just of understanding the gestures but of making their own.
ミュージッキング ― 演奏と聴取の意味について
音楽の本質は、音楽作品そのものにあるのではなく、演奏への参加、社会的行為にある。したがって音楽は名詞というよりむしろ動詞「音楽する」である。音楽するとは、いかなる立場であれ音楽的演奏に参加することであり、その意味は演奏によって参加者間に築かれる関係性にこそある。ミュージッキングは、生きとし生ける世界を結びつける関係性に関する情報を授受する象徴的・身振りによるプロセスの一部であり、実際、参加者が人間同士や世界の他者との関係性、あるべき姿についての概念を単に学ぶだけでなく直接体験する儀式なのである。こうした理想的な関係性は往々にして極めて複雑で、言葉で表現するには難しすぎる。しかし音楽的演奏はそれを難なく表現し、参加者がそれを探求し、確認し、祝うことを可能にする。したがってミュージッキングは、言語行為に参加することと同様に、私たちの人間性にとって極めて重要な中心的存在であり、通常の人間能力を備えた者は皆、生まれながらにしてそれに参加する能力を持っている。それはジェスチャーを理解するだけでなく、自らをも作り出す能力である。
(強調:引用者)
引用元:https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/1461380990010102
ミュージッキングと繋がり Gemini AIまとめ
1. 関係性の構築と再確認
ミュージッキングは、ただ音を鳴らすことではなく、その場にいる人々の間に人間関係のネットワークを生成する儀式です。
相互作用: 演奏者と観客、または演奏者同士が音や身体的な相互作用を通じて繋がります。
理想の提示: 私たちがどのように他者や世界と関わりたいか、という「理想の人間関係」を、音楽の場において直接経験・表現します。
2. コミュニティの形成と共生
ミュージッキングは、地域や社会の中で人々が繋がり、コミュニティを創生する媒体となります。
「居場所」の創出: 音楽を通じて子どもや若者が繋がり合える居場所を築くなど、福祉や地域活動の文脈で重視されています。
共生の場: 障害の有無や背景に関わらず、音楽的な掛け合いや即興演奏を通じて、その場ですぐに繋がれる共同体を構築します。
3. 社会的な結びつき(ソーシャル・ボンディング)
音楽的な活動(歌う、踊る、叩く)は、参加者に強い感情的な絆を生み出します。
身体的同期: 同時にリズムに合わせる、歌うなどの行為は、脳内の化学物質(エンドルフィン等)を放出し、社会的な距離を縮めます。
「私」から「私たち」へ: 個々が音楽を通じて一つの場を共有し、多様な視点や感情が共鳴する感覚(「Many becoming one」)を創り出します。
まとめ
ミュージッキングとは、「音楽を通じて社会的なつながりを具現化する最良の媒体」であり、音楽という手段を用いて、人間がいかに繋がり、生きるべきかを探索するプロセスと言えます。
このGeminiによるまとめからもわかるように、ミュージッキングと音楽まちづくりはほぼ同じものといえる。
なぜ音楽だったのか 2026.2.8
なぜ私は音楽をやるのか、あるいはストリートピアノ運営やLIVE運営のような音楽に関わる活動――音楽まちづくり活動をやっているのか。この活動が音楽教室に入会した2011年から15年以上、LIVE活動をするようになった2017年から9年以上、ストリートピアノを運営するようになった2019年から7年以上、という長期間にわたり、手間暇かけて、お金もかけて、いわば私のライフワークとして活動しているのは、なぜなのか。それは一言でいえば、50年近く生きている私自身が、音楽とともに歩んできたからというほかない。音楽とは直接は関係ない文理融合的な教育研究(学業)で専門性を確立し、安定的な仕事を得ながら、趣味で培ってきた音楽や美術を仕事に結び付けたいという意志ゆえだった。
(美術に関しては私は美術が中学のときまで最も得意だったのだが、2010年代は主にインスタグラムのような簡単なカメラ撮影をしていた。その後、2012年のピアノパーティLiberamenteのスタート時よりチラシ作成などもするようになった。)
私にとっては、大学生になるくらい、つまり18歳くらいのときに立てた志として、数学・哲学・音楽という三本の柱をもって自分の人生を切り開きたいという夢があったのだが、この夢を今でも追求している。この夢は、哲学が社会学に変わり、数学と社会学を結ぶものとして数理社会学という学問ジャンルが存在していたために、私自身が居場所を見つけ、救済されたのだが、この社会学への傾倒が、実社会へのコミットメント(社会を変えていくこと、社会革新)の必要性を強く促したのだった。そこで、社会学から社会へという指針が変化し、数学・社会・音楽という三本の指針のうち後二者からストリートピアノ運営という道が開かれた。そしてストリートピアノの数理的、統計的な研究教育という形で、三本の柱全体が繋がり、文理芸総合という段階に達した。これが40代後半、もうすぐ50歳になるかという頃の私の到達点である。
こういう意味では、なんのために音楽を私がやるのかといえば、学問よりは直接、地域や社会との繋がりを音楽がもたらしてくれるからだ。私は中学生くらいの頃から文系・理系・芸術系のどれも得意かつ愛好していて、大学選びでは理系、大学院選びでは文系、就職したら芸術系というように、かなり現実的でリーズナブルな選択をしてきたのだが、これと同時に社会学を専攻したり、実人生を送るうえでも社会や地域への貢献を意識する年齢になったりしたことで、自分の好きなものでいかにして社会に繋がることができるのかを考えていて、その答えが、数学ではなく音楽でありストリートピアノだったということだった。
数学や哲学は専門性が高く、それじたいとしては社会と繋がることが難しい。しかしすくなくとも私にとって音楽や芸術は、人びとにより直接的にわかりやすく文化的な価値(学芸的な価値)を提供できるものだったのである。私はいくらでも数学やゲーム理論や社会学や哲学や社会科学を語ることはできるけれども、それは残念ながらこれらに興味があったり専門だったりする大学生や院生や勉強をしている社会人に限られてしまう。しかし音楽という言語は誰にでも理解可能なジャンルなのである。私にとってピアノや音楽は、社会や地域や一般的な人びと、いわば任意の一般的な他者へと繋がる非常に強力なコミュニケーション・メディアだったのである。
これは自然言語によらないために外国人にも通じるという、音楽という言語のもつ強力な関係生成能力なのである。これと似たものは同じく非言語的な美術や料理であるが、美術は即興性やセッション性という点でやや難しく、料理は食材や調理時間などの準備が大変であり、お金もかかる。音楽は楽器を買ってしまえば、そして長年練習していれば、演奏というコミュニケーションのコストは非常に低いのである。
私はピアノや音楽が好きであるし、得意でもあるし、なによりも愛好している趣味であるが、そんな好きな音楽を通じて、多くの魅力的な人びとと繋がり、ソーシャル・キャピタルを高められることは、私のウェルビーイングを著しく高めるものである。いってしまえば、音楽の自己充足的価値と手段的価値の両方を私は享受している。だからこそ音楽は人生を豊かにするといわれるのだろう。
音楽は逃避なのか 2026.2.9
〇〇とは何かという哲学的思考を追究すると、哲学、社会学、文学などの人文学に突き当たる。私は子どもの頃から、死とは、生とは、学ぶとは、社会とは、世界とはといった思考を巡らしていたので、哲学的思考は私にとっては懐かしく本質的なものである。
ところが私はこの言語ゲームの限界が、それが自然言語でなされることにあることに気づいてしまった。世界は自然言語だけでなく、数理言語や音楽言語や美術言語(図像や立体)といった様々な言語で構成され、生物学的的には人間の生命や知性を生むDNAや自己組織性の物資的なメカニズムが広範に世界に浸透している。自然科学と社会科学のあらゆる学びは、この世界の複雑性が哲学のみで理解できるはずがないことを自明なものにする。世界理解には自然言語だけでは足りないのだ。
人間や世界を理解しようとすれば、哲学や文学のような自然言語的なアプローチだけでは非力すぎる。私は数学を学び、物理、化学、生命科学、経済学、社会学、世界史といった諸科学を学び、世界理解を多角的に理解できる理論的地平に立つことができた。しかし音楽や美術といった芸術はまだだった。この分野が学問ではないということもあったが、最も身近にして最も難しいものであることも直観していたからだ。だから最後にとっておいた。私はどちらかといえば音楽へ逃げたわけではなく、これまで音楽から、芸術から逃げていたのだった。音楽が人間の幸福やウェルビーイングへの一番の近道であると考えていたにもかかわらず。
音楽は多くの人びとに愛されており、カラオケなども含めた音楽聴取や音楽演奏におけるその身近さや手軽さにおいて、趣味(芸術とエンターテイメント)の王様とさえいえるかもしれない。そのような誰にとっても身近なもので、演奏参加のような能動性もあり、しかも喜びをもたらすものでありながら、私はこれに学問的に取り組むのを後回しにしてきたし、それは社会や学問世界における音楽の位置づけがどうしても周辺的なものに留まっていたことも一因にあるのかもしれない。とはいえ、音楽は生活の楽しみの中で大きなウェイトを占めるものであることは間違いないのだから、人間の幸福やウェルビーイングを議論したければ、必然的に扱うべき対象なのである。
音楽は専門家のためのものではない 2026.2.10
音大やジャズミュージシャンが高度な技術と高い専門性をもっているために、普通の人びとと音楽家に間には深い溝があると一般には思われている。しかしながら、もしそうだとしても、そのような溝は埋められるべきである。
音楽は演奏家の高い技量によって、人びとの間に垂直的な関係を伴う敷居を設ける側面は存在する。演奏者(音楽家・発信者)を上位(周辺)に、聴き手(受信者)を下位(周辺)に位置づける垂直的な秩序である。しかしながら、演奏者と聴き手の立場は交換可能であるし、音楽によらなくても、たとえばダンス、空手の型、ものまね、落語、お笑い、手品、アクロバティックな運動、演劇、大道芸、パントマイム、演説といった様々なパフォーマンス(芸)によって、ある種の情報の発信者(中心)の側に誰もが立つことができる。音楽の才能や能力がなくても他のパフォーマンスによって誰でも必ずなにかしら芸をなせるはずだ、というのは私の希望であり、信念なのかもしれない。重要なことは世界一になることではなく、人が集まったその場で(一時的にでよいので、むしろ恒常的ではないほうがよい)他者たちから見られるという中心的な位置を占めてパフォーマンスをするということなのである。これは人びとが生き生きとする自律共生的なコンヴィヴィアルな関係性の内実でもある。
重要なのは、誰もが数分間は中心的であることであり、中心的位置であるパフォーマー(演奏者)の役割が入れ替わるということなのである。これは野球などでの「日替わりヒーロー」のようなもので、「分替わりヒーロー」とでもよぶべきものである。数分でヒーロー=中心たるパフォーマー(演奏者)が交代する役割交換の仕組みこそが、ミュージッキングのうちで最もラディカルなものである。
そのようなパフォーマー=中心に音大出とか高度な技量をもつ演奏家が居座り続けるのが、コンサートやLIVEといったふつうの音楽シーンなのだが、その一方で、カラオケのような形でパフォーマーが入れ替わり続け、固定化されず、誰もが中心となるような非常に水平的な音楽シーンも存在する。公共的な形では、ストリートピアノがその最たるものであり、ここでは自由・平等・博愛といった近代社会の理念が音楽によって実現されるのである。ストリートピアノでは、自由に選曲して演奏でき、その機会が誰もに平等に開かれており、演奏後には上手い下手は関係なく博愛的(友愛を伴う)暖かい拍手が送られる。ここにはスモールが語るような人びとの理想的な関係の構図が実現されるのである。
ストリートピアノは、毎日の常設の形であったり、イベントにおいても5, 6時間という長時間となる場合が多く、これは多くの人びとに機会を提供する機能を果たす。長時間の開催により、参加者が自分に都合のよい時間で参加できるため、このような意味でも参加性が高くなるのである。
もちろん、全ての音楽イベントがストリートピアノやカラオケのように、演奏者と聴き手がチェンジするような水平的なものであるべきだ、いいたいわけではない。演奏参加性は、演奏クオリティ(観賞価値)を重視した場合には難しいことは明らかだ。演奏クオリティが下がれば、聴き手は満足度は下がるし、そもそも集客ができなくなって音楽イベント(コンサートやLIVE)じたいが困難になってしまう。したがって多くの音楽イベントは、演奏クオリティを最重視しなければならず、中心と周辺が固定される社会関係としての通常のコンサートやLIVEが多くなるのは自然なことである。この意味で音楽の専門家たる演奏家や作編曲者の仕事がなくなることは絶対にない(専門家のニーズや居場所はつねにある)。しかしだからこそ、中心と周辺が入れ替わるような場が意図的にデザインされるべきなのであり、これはストリートピアノイベントを仕掛ける社会的な意義ということになる。
心の旅としての音楽  2026.2.10
私は音楽は演奏家のためのものでも、作曲者のためのものでも、聴き手のためのものでもないと思っている。音楽はそれら音楽に関わる全ての人びとのためのものであり、役割によらず、音楽はどの立場においても等しく吟味され、楽しまれるべきものである。 音楽は、演奏者と聴き手に境界線を引いたりその溝を深めたりするのではなく、それは引かれどもすぐに埋め合わされるような、人びとを1つの音楽的世界に連れていく精神的な旅なのである。「心の旅」といってもいい。
演奏者(あるいはDJのような選曲者)は、そのような旅の案内人であり、ガイドである。というのは演奏者自身においてさえ、音楽というより抽象度の高い意味世界の探訪者であり、音楽的世界に連れて行く者にすぎず、喜びを与える音楽そのものではないからだ。たとえば天気のよい日に風光明媚な場所に連れていけば皆が感動するだろう。演奏者や演奏家や作曲家(専門家)はそれと似たようなもので、たしかに自分の力で作っている側面もあるけれども、私たちが感動するような精神的な場所に連れて行くという側面が強いのではないだろうか。すくなくとも、私は演奏においても、そのような場所に連れていくことを意識して演奏する。そのほうが緊張せず、うまくいくからということもある。
重要なのは、演奏者と聴き手という上下関係を音楽という神(意味)が超越するという感覚であり、演奏者が中心でありながらもさらにその中心には音楽という神がいるという構造である。この最中心部の音楽のもとでは、演奏者と聴き手は原理的に平等でありうる(音楽の下の平等)。というのは、人間は音楽そのものにはなれないので、ここには大きな断絶があるからだ。このような深い断絶がある結果として、演奏者と聴き手という人間同士はささいな上下の違いを乗り越えて、ともに音楽を楽しむという意味において平等な存在になる。
#音楽・ピアノ