Music, Mathematics, and Systems toward World Understanding
https://gyazo.com/5ef8e67d156670a38ba57bf4af321900
音楽・数学・システム──世界理解のために
2025.2.2
1. 数学の必要性
日常的生活を送るうえではほとんど必要がないのに、なぜ数学を学ぶ必要があるのか?
中高生によるそんな問いは自然だが、その問いに自ら答えを見出すことも学びに含まれていると思う。この問いの解答を学校がくれないから数学を勉強しない、という生徒の言は結局、学力不足による悪循環なのだろう。
そもそも学問は日常生活(消費的生活)にはほぼ要らないし、その最たるものが数学だろう。ただ多くの学問を学ぼうとすると、必要になるのが数学だ。数学は法学や哲学などを含む諸学の基礎である。また、科学技術や実務での統計など、様々な仕事で数学やプログラミングなど数理的能力は必要である。
2. 音楽の必要性
数学と同じことが、音楽にもいえると思う。学問の中での数学、芸術の中での音楽は、ともに最も抽象的ゆえ、他の分野を必要としない。そのため、数学も音楽も、何に必要なのか判然としない。
しかし数学も音楽も、ともに抽象的ゆえ、全ての分野の基礎になっている。 数学が学問の範であるように、音楽も芸術の範であると思う。たとえば絵は実物と似ているかが問題になるが、音楽はそれがなく純粋に芸術である。演技は役者への好悪の感情が入りすぎる。
それにしても、数学や音楽は抽象的ゆえそれだけで成立してしまうから、その分野だけやっていれば十分なように見えてしまう。これも問題に思える。数学や音楽は多くの他分野に影響を与えるので、他分野との関係性を理解しておく必要がある。ただそれには多くの他分野を学ぶ必要がある。
しかし、数学が他分野(科学・技術・統計・コンピューター等)と関連するのを理解するのは容易だが、音楽が他分野と関連することを理解するのは難しい。だから僕は数学からはじめて、最後に音楽にたどり着いた。たぶん一番難しいから。
3. 音楽からみた美術と物語
美術のスキルは、パワポのデザインや書類など役立つことが多い。でも音楽はそうではなく、カラオケくらいしか思いつかない。音楽は仕事にも遊びにもあまり関係しない。音楽は純粋な趣味になりがちだ。
数学が日常生活に役立たないのと同様に、音楽もそうなのだろう。ただ数学は諸学の基礎であり範だった。音楽もまた文学(詩・小説・エッセイ...)、演劇(映画・ドラマ・アニメ...)、メディアアートなど、特に時間芸術(パフォーマンスアート)の基礎をなすと考えられる。
美術的なものを音楽から理解しようとすると、一番よい例は建築かもしれない。建築は外から近づき、門や玄関を入り、最深部へと進む時間的なプロセスがある。塔、城、宮殿、教会などは音楽的に理解しうる。
このやり方を絵画にも応用できる。絵画を部分に分解して時系列で再構成する。つまり、絵画のある部分から出発し、次の部分に注目し、その注目点を時系列で繋いで全体を把握する。このプロセスは絵画を語る、ということになるだろう。語りは時系列であり、音楽的なものでもある。もちろん文もそうだ。
語ること(ナラティブ)や物語は、人間が物事を理解する最も基本的かつ総合的な方法である。人間は言葉や意味を通じて世界を理解・構成する。ただ、その理解は物語という時系列となり、ここに音楽と通底する点が出てくる。
絵画は語りの対象であり、語りには音楽が宿る。視覚と聴覚は意味と物語で繋がる。
4. 精神の形式化としての音楽
文章を書くことと、作編曲はけっこう似ている。ともに時系列であり、語られたり、演奏されたりすることを念頭においている。違いは、言語的意味の有無だろう。
音楽は語りにおける言語的意味を捨象したものともいえる。起承転結のような文章構造は、楽曲の構造にもみいだせる。
ただ音楽には和音やセッションなど交響的なものが同時に理解できる一方、語りはいわば単線のメロディから重層的なものを頭の中で再構成する必要がある。なお、図表は交響的な意味を音楽と同様に直接伝えることができる。また図表はそれじたい美術的なものでもある。
音楽家の文章がわりと優れていることが多いのは、文章が音楽的だからだろう。つまり文章が韻を踏むとか、リズムがいいとか、詩的であるとか、音楽に近く琴線に触れるのだろう。だから文章の形式化として音楽を捉えることができる。そして文章は意味であり精神なのだから、音楽は精神の形式化なのである。
音楽はつまるところ、意味を捨象して精神の運動をテーマ化したものだ。意味が血肉なら、音楽は精神の骨格に迫るものだ。
元々は生の語りに伴い意味を伝えるという目的の手段であるリズム、抑揚、イントネーションなどが転倒したものが音楽になったのだろう。これは宗教に仕えていた芸術が転倒して独立化したのと似ている。
だから音楽は芸術の中でも最も精神的であり、抽象的でもある。美術のように目には見えない。
5. 音楽としてのシステム
音楽は美術のように目には見えないし、文章のように語ることもできない。ただ、本には似ている。本は部分的に読めるが、その意味を直接見ることはできず、頭の中で再構成するほかないシステムである。音楽もまたそうで、ともにシステム――全体を一望することができない――なのである。
ところで、日本人はシステム思考が伝統的にできない。言い換えれば体系的思考ができないといわれる。日本の音楽が少数の例外を除いてこれまで評価されてこなかったのと同根なのかもしれない。そのかわり頭の中で再構成する必要のない具体的な美術の伝統は世界的に評価されている。
このように考えてくると、音楽はシステムであり、逆にシステムというものを音楽的なものだと考えると、音楽が演劇や美術といった芸術分野だけでなく様々な他の分野と繋がっていることが理解されてくる。
システムは要素の関係性の総体であり、要素の集合には還元されない創発特性──ある種のジャンプを本質とする。音楽は音の集合ではけっしてなく、音たちの創発特性=質そのものである。音の集合になんらかの質=意味や美を僕らは見出すから音楽が成立する。このことはあらゆる分野や政治経済・教育学芸・医療福祉などの諸機能システムにもあてはまる。
僕らは主に言葉や行動を複数用いてなんらかの意味、仕事、プライベートでの活動を成立させているが、これらはある種のシステムとみなせる。このシステムは、音楽と共通している部分が多い。
6. システムの質としての音楽
丸山眞男は思想や物事の「通奏低音」という言葉をよく使ったが、音楽は世界理解の範となる。こうして考えてみると、音楽は芸術の範というにとどまらず、世界を理解するために必要とも思える。社会学者の見田宗介が交響という概念を多用しているが、これは明らかに音楽的である。なお交響性はイリイチのコンヴィヴィアリティ(自立共生)とも近いと思う。
そういえば、サッカーではシステムという言葉をよく耳にするし、どこかの国の代表チームのパスの連携が、ベートーヴェンの交響曲のようだと評されることもある。システムや全体としてある種の「質」をもった何か(全体性)を僕らは音楽として捉えるのはわかりやすい。これは音楽が独立した秩序だからだろう。
つまり、システムの質ともいえる意味は、音楽に似ている。美と同様に、意味も音楽も、それ以上の目的-手段系列を遡れない目的そのものだからであり、それはシステムの全体性によって定まる創発特性だからである。
1. 世界のある部分や側面をシステムとみなす
2. そのシステムの論理的な部分は数学的(システマティック)
3. そのシステムの質的・意味的な部分は音楽的(システミック)
とまとめると、システム・数学・音楽が世界理解にいかに資するかがよくわかる。
7. システミシティ
システマティックとシステミックという言葉がある。前者は整然とした機械的なシステムを連想させ、後者は生命的・有機的な全体性を指している。システムの論理的な部分はシステマティックであり、システムの質的な部分はシステミックである。
数学は公理から定理を論理演繹的に導き出すシステマティックなシステムだが、システミックの典型例は生命とともに音楽ということになるだろう。さらに付言しておくと、数学におけるシステミックさ、すなわちシステミシティ(systemicity)は、定理が公理から定理として生成される点や、公理が自由に設定できる点などにあると考えられる。システミシティあるいはシステミックは全身性と訳されるが、ここでは身体性や生命性に依拠してより広義に用いたい。
なお、多数の領域やシステムからなる世界全体の意味世界からみると、1つのシステムのもつ意味は、世界全体での役割や機能ということになる。1つのシステムの意味は、この全体世界との相互調整(interaction)によって構造的にきまってくる。これは全体世界のもつシステミシティといえるのかもしれない。
システムで考える、というのは一見すると冷たく思える。システムは要素への分解と再構成を伴うため、数学や論理に結びついているからだ。ただ、システムは単なる論理ではなくて創発特性による全体論的な意味――システミシティをもつ。そういう意味的・情緒的な部分は音楽の比喩で理解するのがよいのだろう。
システミシティ、すなわちシステムの質や意味を、音楽的なモチーフで考える《システムの交響性》という概念は、実存的・エンパワメント的な側面をもつと考えられる。目に見えないものが大事、というが、これは意味や心のことだろう。意味も心も精神も質も、脳細胞のネットワークシステムの創発特性(働き)である。システムの創発特性は、生き生きとした生命感、いわば「元気」みたいなもので、具体的には音楽そのものや、それに近いものなのだろう。 
参考
丸山眞男 1961『日本の思想』
真木 悠介(見田 宗介)1973『気流の鳴る音──交響するコミューン』
さんごの暮らし相談室 2024「公共圏とルール圏──他者の両義性と〈自由な社会〉の構想(見田宗介より)」
德宮 俊貴 2022 「見田宗介における『交響』」
松行康夫 1999 「非決定的な問題状況の構造化とソフトシステム方法論 」 システミティについて数少ない日本語での解説がネット上からとれる:
システム論とは、その背後にシステム概念という知識を担保しており、それを前提にした問題解決のためのシステム論的方法である。ここで、システム論的方法というときにのシステムには、システマティック(systematic)とシステミック(systemic)な2 つのシステムが存在していることに注意する必要がある。前者のシステマティック・システムというときには、還元主義的・機械論的なシステム思考を意味する。チェックランドの表現を借りれば、システマティックなハードシステム論とは、構造化された問題を対象とし、その目的と手段の関係を対応させる二分法的思考をいう。そのため、そこでのモデルは、刺激一反応系の因果律に依拠した数学的形式を重視する。このことは、まさに、システマティック・システム論が、還元主義的機械論科学の典型であることを示している。われわれが、生きているシステムとしての人間が集合して営む経営や社会システムなどの複雑システムを研究対象とするとき、ハードシステム思考には、さまざまな問題が立ちはだかる。
一方、後者のシステミック・システムというときには、その対象がシステミシティ(systemicity)を持つことを意味する。この術語は、これまで、主として生物学・医学などで用いられてきており、ある状態が身体全体に広がっている場合に、システミックな状態であるとして表現されてきた。Oxford Dictionary of Current English によっても、“身体を全体として見たとき、そのシステムの(of the bodily system as a whole)" という狭義の説明のみである。チェックランドも、この術語の意味として、“全体としてのシステムの、または、全体としてのシステムにかんする(of or concerning a system as a whole)" という、広義の解釈をすることを勧めている。
チェックランドによれば、システミシティを構成するための要素として、①創発特性(emergent property)・② 階層構造(hierarchical structure)・③ コミュニケーション・④ コントロールの4 要素を指摘している 。ここで、① の創発(emergence )とは、全実在には、全体に対してのみ意味があり、それの部分に対しては意味を持たないような性質をいう。この性質は、個々の要素の活動およびそれの構造から生じるのではあるが、個々の活動と構造には還元できない。また、創発という特性の背後には、②にいう階層構造という層を形成しているとする見方が隠されている。生物学的な生きているシステムの階層構造には、原子・分子・細胞・器官・有機体というような層が存在し、それぞれに創発特性を見ることができる。システム概念には、上述のように、創発性と階層性があるが、それが生きている、あるいは、生存していることを示す2 つの概念である③ コミュニケーションと④ コントロールのプロセスが備われば、変化する環境のなかでも生存することが可能である。すなわち、システムは、コミュニケーションとコントロールをすることで、その環境から受ける衝撃に対して全体として適応できる、とチェックランドは考える。(松行 1999)
追伸 2025.2.4追記 2025.3.10追記
哲学・数学・音楽を人生の基底として生きよう。20歳のとき、そう決意した。
ここでの哲学は自己と他者という論点により社会学を含むし、また人間全体に関していうならば、社会そのものといってもいい。そもそも哲学は社会学化しているのだ。だから、社会・数学・音楽というのが僕の生きるテーマであり、指針であり、決意であった。
そしてそこから30年間ほど経ってきたが、この決意は徐々にこれでよかったのだという確信へと変わっていった。最初の15年は数学と社会の間で思考し、つぎの15年は音楽と社会の間で思考してきた。最後の15年は社会・数学・音楽を総合しないといけない。これはとりもなおさず、文理芸総合の試みといっていい。
哲学的思考、数学的厳密性、音楽的感動の3つを包括する概念が、システムだったのだと思う。システムとの出会いは大学のときだった。社会理工学研究科の価値システム専攻という存在を知り、僕の進路が明確になった。
言葉をうまく使わないと、意味は伝わらない。
研究にせよ、会話にせよ、私たちは意味を伝えることをほぼ目的として生きている。そういう意味では一番大事なスキルは国語だし、文章力だし、語る力なのである。
だがそれ以前に、新しい意味を紡ぐ能力が前提とされるが。研究能力とは畢竟、新しい意味を紡ぐ能力のことだ。だがこれは研究者だけにとどまらない。一般に、人間は、つねに新しい意味を求めて生きている。新しい意味がなければ、生活に飽きてしまい、生きる意欲が沸いてこない。だからこそ社会全体では、新技術が開発され、芸術や芸能分野では新しい作品が生まれてくる。現代における最高の価値はこれまでになかった新しさであり差異なのである。
しかし生活レベルにおいては、多くの人びとはその新しい意味を自分の家族や子供に求めている。だが、私は必ずしもそうではなく、これがある意味で、幸福であり不幸でもあるということになるのだが。
世界のことを分かりたい、世界を理解したい、という意欲がなければ、様々なことを勉強したいとは思わないだろう。
そうであれば、世界理解への意欲はどこからくるのだろうか。これは子どもの知的好奇心と似ている。子どもは「なぜ?」と問い、何事も理解しようとする。その先に勉強もある。逆にいえば、中高生においてはこの「なぜ?」という問いが不足してしまっているのかもしれない。
なぜ世界は他でもなくかくあるのか、という世界理解への問いがなぜ忘れられてしまうのだろうか。それは中高生になると、ある程度、まわりの世界や社会や人間についての理解がすすみ、生活する程度では齟齬がなくなっているからだと考えられる。慣れてしまっているのである。そうであればチコちゃんのように「ぼーっと生きてんじゃねー」と一喝するのが教育的なのかもしれない。よく考えると変なことはいくらでもある。よく考えないで疑問をもたず見過ごしているのである。
優れた音楽は一過的な享楽を超えたものだ。それは時代を超えていく永続的な理解であり、救済でもありうる。
MELL-Beingでも書いたことだが、音楽は趣味であり、一種の享楽という側面がある。つまり、音楽は一時的な楽しみであり、具体的な人生経験とか本を読むといったことでおこる当人の世界観や意味世界の変容(複雑化)すなわち学びを引き起こすことは稀かもしれない。だが、音楽もまた学びと考えられているからこそ、義務教育でも教えられている。音楽はもちろんこの言葉に含まれているように音を楽しむことからはじまるが、それが高度化すれば、ベートーヴェンのように一種の啓示であり、聖書のような神託という次元に達しうる。音楽は一時的な楽しみ以上の何か崇高なもの――芸術となるのである。オルガン奏者であったバッハは、キリスト教の教会音楽を、異教徒にも通用するような芸術に高めたが、一般に、芸術が娯楽以上の何かであるのは、この崇高さによる。
そして崇高さとは、不可逆的な意味変容をもたらすことであり、一種の学びであり、世界に対する新しい理解なのである。なにかを理解してしまうと、それ以前の理解していない状態を認知するのが難しい。このように理解は本質的に不可逆的なものであり、人間の意味世界を変容させる学びである。優れた音楽にはこのような要素があり、特にバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといったクラシック古典派にはこの要素が多く認められてきたから今日でもリスペクトされている。つまりこれらの偉大な音楽家が創った音楽には、世界理解に関する重要なヒントが刻印されていると考えられているのである。
たとえば、小林秀雄はモーツァルトの交響曲40番ト単調にそれをみいだしている。疾走する悲しみ、涙は追いつけない、という有名なフレーズはこの楽曲がもたらす高度で複雑な感情すなわち情操のあり様を言い当てている。このモーツァルトの音楽やその小林秀雄による意味解釈に人が感動するのは、そこに私たち人間や人生や社会や宇宙や生命といった全体的なもののある断面を圧縮して作品として表現しきれているからなのだろう。高度な感情である情操には、システム論的にいえば、相克するものの止揚すなわち総合性や統合性といったシンセシスが認められるだろう。このシンセシスはもちろん創発されたものでもある。
相克するもの、つまり矛盾するものが統合されるには第三のものを案出するという知恵が要る。弁証法とはこの案出のことにほかならないが、優れた音楽は矛盾する複数のものが統合されているという点で弁証法的であり、深みがある。一辺倒にはならないのである。そしてそれは人間や社会における真理や真実性でもある。優れた芸術は美しいのみならず、人を弁証法的な真理に触れさせる。
優れた音楽や芸術に触れることで、弁証法的に開かれる地平は、救いであることも多い。近年ではクラシックに救済を求める人はあまりいないかもしれないが、ジャズ、ロック、ポップスといったよりポピュラーな音楽に救われた人は数多いだろう。こういう意味でも音楽は単なる享楽を超えた理解であり、さらにある種の理解が癒しや救済という宗教的な価値にまで到達するのである。
音楽は資本でもある。
優れた音楽は一般に繰り返しに耐える。この性質は、音楽が消耗品のようなものではなく、むしろ使えば使うほどその価値が増すような資本の性質があるということだろう。音楽資本論とでもいえるだろうか。今日において50年~100年以上の長きにわたり聴き続けられているクラシック音楽やジャズなどの古典音楽や伝統音楽には一種の資本性を認められると思う。これはもちろん文化資本の一種なのだろう。
名曲は何度も演奏され、何度も聴かれ、多くの人びとに聴かれることによって、世代を超えて人びとを結びつけるメディアとなる。文化資本が社会関係資本を生むということである。
名曲とまでいかなくても、流行歌などはそれがテレビやラジオでかけられたり、カラオケなどで歌われたりすることで、いわゆる「ヘビロテ」によって広く知られることもある。音楽もまた情報であるから、それがどこまで知られるかどうかは重要な側面といえる。そしてここには知られれば知られるほど余計に知られる、という資本に共通してみられるポジティブフィードバックが働いている。というのもこのように話題になることで、社会にとっては何らかの新しいものを産出できるわけであり、それは購買行動にように経済を回すことに繋がるからである。
もちろん流行歌はそのうち廃れるから流行歌であり、賞味期限はそれほど長くはないかもしれない。だが流行歌の中から時代を超えて歌われるような名曲もしばしば生まれる。90年代J-popなどはそうだろう。こういった名曲は一種のコモンズ(共有の財産)として、つまり資本として、経済的のみならず、社会を精神的にも豊かにしていく。だから流行歌は単に消費されるだけでなく、資本にもなりうるのである。特に今日のようにYouTube上に楽曲が簡単にアップロードされれば、音楽はYouTube上の完全なコモンズであり、資本となる。若い作曲者はYouTube上の名曲にアクセスすることで学び、また新しい曲を創っていく。そのなかからほんの少しではあろうが、新しい名曲も生まれていく。これは資本が蓄積するプロセスといってよい。
音楽と生命は似ている。
音楽を自己増殖する資本と捉えると、一種の生命種のようにも思えてくる。今日における音楽ジャンルの多様さや星の数ほどある作品や演奏は、音楽という一本の大樹の枝葉を構成しているのである。この音楽全体という大樹は、数学全体という大樹と似ていると思う。理由は本文で述べてきたとおりだ。
音楽はたしかに数学と同様に抽象的であるため他との関係を必要とすることなく完結している。島国のように孤立しているといってもいいかもしれない。しかしうえで考えてきたように、物事をシステムとして捉え、そのシステムを音楽として捉えることで、認識的な様々な事象との関連性が出てくる。音楽がより広く活躍するためにはシステム思考が必要なのかもしれない。
ここで他分野と音楽との繋がりは、システムを通じてということであれば、その他分野はシステム化される必要もある。幸い、近代社会以降では科学の目があらゆる分野に注ぎ込まれ、自然にあるものや人間がつくったものをとわず、様々な事象をシステム化し、コントロールし、人間や社会にとって有益となるように文明を発展させてきた。今日に生きる私たちのまわりにシステムはありふれている。たとえばスマホ、PC、スマホ、オーディオ、TV、クルマ、家といった機械はすべてそうである。
システムに音楽を認めるというのは、機械や生命に音楽を認める、ということなので、一見難解に思えるが、そんなに難しくはない。それらのシステムの本質なり機能なりが、要素の性質に還元されない創発特性によってできていることと、創発特性は音楽のようなものなのだ、という音楽の比喩でシステムを理解するということだからだ。ただ、さまざまな機械やさまざまな生物種や生命個体があるように、さまざまな楽曲(種)やその譜面(DNA)をもととした演奏(個体)がある。生命や機械といったものを音楽で考えることもできるし、音楽を生物の比喩で考えることもできる。重要なのは音楽世界と生物世界を互いに行き来きして対応づけすることである。この対応づけによって、システムの構造が浮かび上がるからである。
なにより重要なのは生命個体や生物種のもつ価値は、演奏や楽曲の価値と対応しており、両者はかけがえのない固有性や美を独立してもっており、またそれに伴う私たちの生活や意識と結びついた意味を帯びて織り込まれている、ということである。これは演奏、楽曲、生命個体、生物種はそれぞれ内的に非常に高度なシステムでありかつ、外的にも私たちの思い出や生態系といったものと結びついている。
システムを敵視すべきではない。システムからは逃れられない。であればシステムを自分事にしよう。
ハーバーマスはシステムによる生活世界の植民地化を訴え、システムを私たちが大事に思っている馴染みの生活世界の敵として位置づけた。だがここでいうシステムは、企業や政府や銀行といった政治経済システムや技術システムのようなハードなシステムである。教育、科学、芸術、医療、福祉といったものも主に学校や病院といった機関を通じて社会の中での機能システムとなっており、社会システムを構成しており、これらは日常的な生活世界とも密接に結びついている。
したがってシステムを敵視することは文明を敵視することになりかねず、自給自足のような貧しい暮らしが帰結するだけだろう。今日、多くの人びとは都市で暮らしており、自給自足というよりは半農半Xのような暮らしをひとつの理想として生きている。この半Xの部分には社会との関わりがあり、これはシステムと関わっていくことを含意している。システムは「自分事」にしなくてはならないし、これは具体的にいえば、社会参加・地域参加・政治参加といった市民性ということにほかならない。
システミシティはウェルビーイングと関係する。
システムは冷たい印象があるが、システミック、システミシティという概念は生命をモチーフとする《生けるシステム》(Living System)を語るさいのキーワードである。
Livingや生命に関しては僕が取り組んできたMELL-Beingとも通底している。MELL-Beingは、Music Empowerment and Liberal Lively Beingの略であり、音楽、エンパワメント、自由、元気といった概念が入っている。
そしてもちろんメルビーイングは、持続的な幸福であるウェルビーイングをもじったものである。上述したイリイチのコンヴィヴィアリティだけではなくニーチェ(力意志)やベルグソン(生の躍動)といった生の哲学の諸概念をある意味でふまえている。
音楽、美術、演劇など芸術がもっている人びとの心を動かす力、すなわち感動機能とでもいったものは、人びとを勇気づけ、元気にすることができる。病のようなある種のマイナスの状態からプラスの状態へとエンパワメントを起こすこの力は、癒しといわれる。では癒しはシステムとどのような関係にあるのか。それは創発特性やシステミシティといった概念を通じて、といえる。
美や新しい意味といった芸術のもつ感動機能は、美や意味あるいは笑いといった様々な感情と未分化な心的状態に関係するのかもしれない。というのはこの未分化な状態は統合された完全性をもった状態でもあり、この全体性が癒しと深く関わっているからである。
システミシティは風船箱の比喩と似ている。
空気を入れた風船が沢山入った箱から1つの風船を取り出すと、全体の配置が変わってしまう。こういったものが構造であると丸山圭三郎は説明したが、システミシティはこのような意味での構造に近いといえるかもしれない(ただこの配置は安定的な均衡でもありやや静的ではある)。構造は相対的に変化が少ない部分であり、物事の骨格をなしているが、システムは要素の関係性の総体として、構造における相互関係性をより積極的に明示する。
創発特性は要素の性質に還元されないシステム(構造)の性質だが、これは質的に要素より上の次元が成立することを意味する。システミシティは、ホリスティックな性質(全体論的な性質)のことをさすが、これは創発特性の別名であり、要素の関係性の総体という複雑な因果関係が引き起こす何かである。
紙に描いた黒い点が集合として何か漢字や絵として認識され意味をもつように、創発特性は至る所に存在している。これは一種の生の躍動(エラン・ヴィタール)とも関係する。創発は何かに命が灯るということでもあるからだ。バタイユなら太陽のエネルギーを比喩として、過剰と表現したものである。そしてこれはニーチェの力意志やウェルビーイングにも関係している
システミシティはタナトスを潜在させている。
システミシティ、創発特性、構造、生の躍動、過剰といった言葉は、一種の生命原理であり、エネルギーをもっている。そうであれば、それはタナトス(死)もまた暗示するものでもある。細胞の自発的な死であるアポトーシスは形態形成のポジティブフィードバックだけでは形(形相)が定まらないからこそ必要なものなのだろう。無限に細胞分裂を繰り返すだけではガン細胞と同じで形にはならず個体を破壊してしまう。
受精した卵細胞は分化し、各細胞は骨や筋肉や内臓や脳といった各器官を構成するに至る。役割分化である。生命の形態形成においてなんらかの役割を担う細胞には、なんらかの役割を担わないという否定があるのだが、にもかかわらず、DNAとしては共有する情報をもつという複雑でうまい仕組みがあり、役割の違う細胞同士が敵視しあうことはない。
生体は、特に哺乳類における体温維持にみられるように、恒常性維持(ホメオスタシス)というある種の安定的な均衡状態が動的に保たれており、これは形態維持というシステムのネガティブフィードバックとして名高い(生体にはバランスを保つように一方に触れればそれを打ち消す否定のメカニズムが実装されている)。ネガティブフィードバックは生を維持するためには、タナトス(否定)が必要ということなのだろう。全ての細胞が無限に細胞分裂を繰り返しては形=秩序が崩れてしまう。歩いたり走ったり喋ったり書いたりという機能が失われる。生命はつねにシステムの範型であり続けている。
システミシティは、発生や細胞分化、形態形成的なポジティブフィードバックにも、形態維持的なタナトスを含むネガティブフィードバックも、ともに含むような全体性の概念といえる。システム論はループ図に象徴されるように、因果関係の円環を強調するが、システミシティもまたボトムアップとトップダウンを繰り返す因果関係の円環を含意しており、さらにその円環にはポジティブなもの(生)とネガティブなもの(死)の両方の仕組みを内包している。
私たちがなんらかの形(形相)や意味について思考するさいには、その形や意味が他の形や意味との相互関連性(レリバンス)において思考されるように、形や意味は本質的に断片ではありえず、ソシュール的な差異の体系に必ず潜在的には位置づけられている。ある形や意味が断片的にみれるのはそれが関連の形や意味を明示させてないからにすぎない。差異は一種のタナトスである。というのはそれは同じであることに意味はなく、否定され殺されてしまうからだ。なにかの意味は差異がなければ生きていけないのである。
音楽のタナトス
意味がもつコンヴィヴィアリティ(生・肯定)とタナトス(死・否定)は、音楽においてはとても複雑に思える。音楽を受容する人間のほうは、本質的に保守的なので自分の既に知っているお気に入りの音楽を聴こうとする。聴けば聴くほど音楽は身体に馴染み、この馴染みは自分らしさを形成していく。好みの音楽を聴くということは、自己形成でもあり自己確認でもある。したがって好みでない音楽については排除されるので、ここには否定とタナトスがあることになる。
おそらく繊細な人、アーティストなどのように美を追求している人であればはるほど、タナトスが大きい。世に出回ってるほとんどの音楽は許しがたく、気に入らない。だからこそ自分自身で自分の気に入る音楽を創る意志と意欲が生じる。アーティストが気難しいのは、こういう理由がある。彼ら・彼女らは99%の否定(タナトス)でできているのである。そしてこれはもちろん芸術一般や学術一般、文化芸術や学問にまで拡大できる話かもしれない。学者や研究者が基本的に批判的で否定的なのは、同じような理由による。彼らの場合は美ではなく真を追求していて、他の人びとが真ではなく偽(間違い)に陥っていることを批判するわけである。
カンブリア期に生物種はその可能性を試すべく、きわめて多様な種が誕生した。だがその多くは今日では失われている。環境変化を伴う自然選択のテストに耐えられた種だけが残り、他の多くの種は絶滅したのである。つまり、多様な種とか量の多さはその後に選択とい名のタナトスを伴っている。生は死を常に随伴する。豊穣性はなによりのものだが、生物の数量が環境容量をはるかに超えれば多くの死は免れない。音楽にもこれはあてはまる。有限の時間と体力しかなき人間が受容できる音楽は限られており、そこには選択という名のタナトスが横たわっている。選ばれなかったものたちは忘れ去られるか、気づいてさえもらえない。多くの音楽はほとんど一般に知られることがない。
音楽に精通している人、多くの音楽を聴いてきた人であれば、音楽のタナトスというものを深く理解しているかもしれない。音楽に限らず芸術や学術は一般に独創性(オリジナリティ)あるいは新奇性(ノベルティ)が唯一でないにしても根源的な価値であり、似通ったもの、贋作、論文盗用などいわゆる「パクリ」は重罪であり、その作者には社会的な死が宣告されるといっても過言ではない。他とどう違うのか、ということが自己の立ち位置となるのであり、そこに全ての掛け金がかけられている。
音楽においてはメロディが似ていることはオリジナリティの大きな損失になる。似たような音楽はごまんとあるし、それらはやはり価値が低いものとして烙印をおされる。それはつまり死刑宣告ということであり、音楽ほどこのタナトス性が強いものはないかもしれない。もちろん美術もそうだろうが、私たちは一度でも見たり聞いたりしたものは、けっこう覚えているものであり、二番煎じというものにはほとんど興味をもてないのである。これは音楽の個人的なタナトス(好みがはっきりしていて好ましいものを否定する性質)ではない別種のタナトスといえる。私たちはひとつのものを愛好して繰り返し聴き、そのうち飽きてしまうかもしれないが、また時間が経つと聴きたくなる保守性をもっている一方で、自分の一部となったものと似て非なるものに対しては、もう自分がそれをもっているのだから要らない、どうせならちょっとは違うものがほしいと思う性質をだれもがもっている。関連性はよいのだが、ほとんど同じだとまさに意味がなく、意味がないものは不要なのである。これは一種の機能的代替性と似ている。機能的に代替できてしまうものはコモディティ化・陳腐化してしまい、一点ものとしての価値(稀少性)がなくなってしまう。
芸術において、似ているということは、理解されやすいという機能を除くと、価値がない。他との違い、つまり差異がなければ芸術作品もアーティストも存在を許してはもらえない。固有性とか独創性とかオリジナリティというのはこういうタナトスと表裏一体である。アーティストや研究者はある種の苛烈な競争にさらされているわけだが、これはつねに死をつきつけられているということなのである。
システミシティの範型としての新しいメロディ
このように考えてみると、新しいメロディというものは、固有性の非常にわかりやすいメタファだと思う。システミシティというものは、新しいメロディのようなものだ、ということである。システミシティは他にはない固有のかけがえのない何か、命のようなものといえる。これはシステマティックが生命のない機械的なものであることを意味するのと真逆である。システミシティは、じつはその新しいメロディというものが、これまでの音楽の全データベースにないような新しさがあるということなのだから、音楽全体のシステムに新しい何かを付け加えた、ということになる。つまり、メロディという単独のシステムは、その外にある無数の別のメロディとの差異の体系のなかで価値(新しいポジション=位置)をもったということなのである。システミシティは、そのシステム内部だけでなく、システム外部のより広いシステムという全体の中において意味をもってくる、すくなくともそのような可能性がある概念なのである。
つまり、音楽というのは音楽全体がやはり1つの大きなシステムなのであり(もちろん他の音楽外的なシステムとの関係性もありつつも自律している1つのシステム)、その中ではじめてあなたが鼻歌で適当に歌ったメロディでも、それは全音楽における位置価をもっている。もちろんそれが他の人に受け入れられるか否かは別問題であり、それがより広く受け入れられるのであれば、その価値はどんどん上昇していくのである。
チェックランドは、システミシティの四要素として、①創発特性、② 階層構造、③ コミュニケーション、④ コントロールの4 要素を指摘したが、①②は明らかなので③④についてはどう考えればよいだろうか。チェックランドはシステミックなシステムの範型を生体としているので、環境変化におけるコミュニケーションとコントロールが重要であると考えているようだ。たしかに生命のような複雑で自律的なシステムはそうだろうが、メロディのようなきわめて単純なシステムには③と④の要素はないように思える。しかしながら、上述してきたように、メロディは他の全てのメロディとの差異であることを考えれば、これは環境とのコミュニケーションということになるだろう。また、音楽が演奏され、人びとに知られてなければ存在しないに等しいということを考えれば、③コミュニケーションは明らかに必要である。この場合な音楽が主で、演奏する生身の人間なり撃ち込まれたプログラムなりは従ということである。
では④コントロールはどうであろうか。コントロールは、システムが環境に適応しつつ存続していくことに必要であるとチェックランドは言っている。知性でも生命でもないメロディなり特定の楽曲なりが存続していく場合に、コントロールとは何を意味するのだろうか。ここでも、メロディや音楽が人間を使う、ということを考えたい。これはある種の方法論的集合主義とか構造主義的な発想になるのだが、個々の人間は一種の言語である主(マスター)に使われる従者ということになる。
メロディや音楽というのは一種の形式的な情報なのだが、にもかかわらず、これが存続していうというのは、簡単にいえば、ベートーヴェンの「第九」(ミミファソ|ソファミレ|ドドレミ.....)のように古典になる、ということである。音楽は演奏されることによって、あるいはCDやYouTube動画などが再生されることによって、生き残り、伝えられていく生命をもつ。ここでのコントロールとは、音楽に関する所有権である著作権なども含めたシステムのことで、音楽が広がったり、使われたり、利用されたりできるように、たとえばYouTube上にあげられ、ネットでいつでも聴けるようにしておき、あるいはCDを配ったり販売したりして、沢山の人びとに所有してもらい、あるいはカラオケのデータベースに登録されて歌われ続けたり(音楽は生命の繁殖ときわめて似ている)、「この気分のときにはこの音楽」などど、さまざまな関連性のなかで利用できるようにコミュニケーションを通じて、音楽外のシステムとの関係性を構築しておくことなどが含まれる。
そういう意味では③のコミュニケーションと④のコントロールは一体なのだが、ある種の環境の変化に対して対応するところにコントロールは力点をおいている。環境変化に対応するための多くのオプション(選択肢)を作っておくということなのだが、これはCDとして多くの人びとに所有されるとか(YouTubeでお気に入りに登録されるとか)、この選択肢はある種のDJ的な場と音楽のマッチングのシステムを構築しておく、ということも含まれる。これは特定の音楽作品なり演奏なりが社会という環境の中でしかるべき位置をもっているということだろう。
このようにある音楽作品が人びとの生活に根差し、時代超えて生き残っていくということは、生物種が生態系の中でニッチを見つけて繁殖、再生産していくことと非常に似ていることがわかる。この意味で、音楽作品はチェックランドの4条件を兼ね揃えたシステミックなシステムであることがよくわかるだろう。音楽こそがシステミック・システムの範型なのである。
情報としての音楽システム
音楽はいうまでもなく聴覚情報であるが、一般的な情報が何らかの事象を伝達するのを目的とする手段である一方、音楽情報はそれを吟味することじたいを目的とする。音楽は通常は手段である情報そのものが目的であるような自己目的情報なのである。もちろん、音楽に限らず、視覚情報というカテゴリーとなるが、自己目的情報であり、一般に、芸術は自己目的情報といえる。これは芸術が目的と手段を転倒させることによって機能分化(独立)した経緯と符合する。
自己目的情報(いわゆるコンテンツ=情報内容)は、いってみれば生命のようなものである。生命は繁殖・反映し、生き生きと生きることじたいが目的となっている物質的なプログラムといえるだろうが、音楽は情報としてより多くの人に聴かれ、演奏され、再生され、親しまれることがひとつの目的となっている。音楽は動画に比べると情報量が少ないため、インターネットの普及に応じて比較的早く配信化するようになった。i-tunesなどで音楽を購入したり、今日ではサブスクのような形で配信を聴くことが多いだろう。これは前世紀(20世紀)においてもTVに先行する形で音声のみのラジオが先に普及したのと同じである。
ただ、音楽は演奏したとたん、録音などをしなければ消滅してしまう。発話などが文字や文章で記述できるのとは異なり、生演奏としての音楽が保存され、時間を超えて受容されるには20世紀まで待つ必要があった。音楽が情報化されたのは、譜面の発明に加えて、録音技術が開発されてからだろう。そして21世紀に入ってからは、スマートフォンなどで映像つきで演奏もきわめて簡単に保存され、YouTube等の配信サイトとインターネットやSNSを通じて情報として社会的にシェアできるようになった。譜面、レコード、ネットと発展してきたメディア技術の進化は、音楽の共有や生存の可能性を飛躍的に高めたといえる。と同時に、夥しい数の作品、ジャンル、アーティストが認知可能となり、競争が激化した。中国やインドといった膨大な人口を抱えるかつての途上国らが新興国として豊かになったこともこの激化に拍車をかけているのだろう。
インターネットという社会インフラに住まう自己目的情報(コンテンツ=情報内容)として、音楽はシステム化してきている。もともと作品や演奏はそれじたいひとつのシステムであるのだが、ネットというメディア環境を得て、音楽はネット上の生き物にもなってきている。楽譜(紙メディア)、ラジオ・TV(電波メディア)、ネット(電子メディア)というメディア技術の進化は、音楽システムを進化(複雑化・複合化)させ、音楽の居場所を飛躍的に拡大させた。特に、近年のスマートフォンなどによるSNSライブ配信や動画作成は、個人での情報共有を空前の規模にしている。
本来は儚い音楽
音楽は行為や発話と同様に、生じてすぐに消滅するような行為である。録音や録画を通じて、あるいは作曲などでは譜面を通じて音楽を残すことはできる。しかしそれは現場で生じる音楽そのものではなく、いわば加工や複製可能なメディア芸術であって、純粋な音楽ではない。音楽は本来は、即興演奏のように、残す動きをしなければ何も残らない行為であり活動である。そういう意味で、音楽は本質的に儚く、それは人間の行為一般と共通している。
しかしながら、譜面、録音、動画収録といったメディア利用は、多くの音楽にとって非常に身近である。新曲を習得するには、譜面ないしは音源にあたって楽曲をある意味でコピーする。このように、ある種の型をコピーする作業が、譜読みや練習といわれる。
譜面や音源を残しておくことで、音楽は蓄積して高度化していくことが可能になった。近世の欧州におけるクラシック音楽の登場は、その最たるものだろう。音楽は本来、自由にアレンジしたり、その場で作曲(即興演奏)したりするものであったと考えられるが、作曲と演奏の間に区別が設けられ、すなわちその時々によって変化する即興演奏を否定するような楽譜や楽曲が登場する。通常の音楽は、この譜面というルールに沿って展開(演奏)される。ある曲を演奏することは、かつて作曲者によって作曲され、演奏された時から通常、数年、数十年の年月を経てその曲が《再生》されるということにほかならない。
音楽空間の構造
即興演奏のような形で、楽曲から離れた無数の演奏が生成と消滅を繰り返す場が音楽空間といえるが、この音楽空間においていわば構造(相対的に変化しない部分)を与えるのが全ての楽曲の集合である。この集合=音楽空間構造は、それぞれクラシック、ジャズ、ポップスといった似た様式のものを集めた音楽ジャンルによってある程度マッピングされている。
演奏者はある程度、自分の身体や脳に楽曲をしみ込ませるように覚え、身体化することができる。このように身体に楽曲を吸収させ身体化させることが練習の目的である。こうして楽曲の一定のパタンやルールが身体化されると、演奏の儚さというのはある程度、解消される。すなわち、楽曲を身体が覚えているので、再び演奏することで音楽が再生できるようになる。演奏家が演奏できる楽曲のレパートリーは、その楽曲が潜在的な状態から顕在的な状態に再生することを意味する。
ラングとパロールという概念は、音楽にもあてはまるだろう。全ての楽曲はラング(構造)を構成し、演奏はパロールを構成する。私の場合、純粋なパロールともいえる即興演奏を繰り返すことで、徐々に楽曲が固まっていき、ラングである曲が作れることも多い。譜面のある曲や音源のある曲を演奏することは、ラングからパロールを発生させることであり、そのパロールがラングを顕在化させることでもある。しかし作曲は逆に、無数のパロールをラングとして落ち着かせる作業である。一方、ラングからパロールを発生させるが、譜面とは少し変えて発生させるアレンジという様式もある。ジャズは本質的にアレンジである。
楽曲は道のようなもの、演奏は一本道のドライブのようなもの、コンサートは旅行に行くようなもの
楽曲は道であり、その道を走れば、様々なカーブも直線もある。だから音楽作品は「曲」(楽曲)とよばれる。さまざまなカーブを含むだけでなく、道には景色があり、道を走ればさまざまな景色を楽しむことができる。クラシック曲の演奏は、このような譜面という道に可能なかぎり沿って車・バイク・自転車などを運転(ドライブ)することで、さまざまな景色を楽しむことに似ている。
一方、ジャズは道からある程度、はみ出て、いわばオフロードにはみ出しつつ、それでも道に沿って進んでいくというドライブだろう。一方、即興演奏はまさに道なき道、オフロードをドライブするようなものである。そしてオフロードも何度も同じ道筋が繰り返されれば、踏み固められて新しい道=新しい楽曲になっていく。これが作曲にほかならない。
世界地図をみれば、夥しい数の道があることがわかる。日本国内だけでも膨大な数だろう。音楽世界にある楽曲も、この道のようなものである。じっさいのドライブでは一本道を辿ることは少なく、さまざまな道を経由していくだろう。右折・左折によって新しい曲に入ることを意味するので、ドライブというのはいくつかの曲を順に演奏していくLIVEやコンサートのようなものである。DJの選曲も同様である。沢山の楽曲からなるコンサートは、いわば高速道路ではなく一般道(下道)を使って旅行に行くようなものである。そこには様々な道=楽曲があり、それを演奏していくのである。
音楽と数学は世界の共通言語である
いうまでもなく、音楽や数学は自然言語ではなく、世界共通の言語であり、だからこそ国、民族、宗教、そして自然言語の違いを超えて共通に理解しあうことができる。この共通言語性は、コスモポリタニズム=世界市民的な普遍性を当然ながら備えており、人類社会や地球社会といった概念を彷彿とさせる。
音楽は高度で複雑な感情である情操を伝えるものであり、これは理性と野性あるいは精神と肉体を止揚するものである。数学と異なり、音楽は感情を表現することができ、より精神や人間の全体性を他者に伝える力がある。
私たちが音楽によって癒されたり、音楽を介して人と人が共感し、繋がることができるのは、私たちがある意味で孤立した個人(孤立存在)から解き放たれ、他者とともに肯定的に存在できるコンヴィヴィアルな(自立共存的な)存在として、人と人の間にある間主観的な《言語世界》に帰還することができるからである。コンヴィヴィアリティ(自律共存)においては、個人の自由(Freedom/Liberty)と他者とのコミュナリティ(communality 交流・共感・承認・共通アイデンティティ)=共生性(≒共同性)が止揚されている。マズローにおいては自己実現と自己超越がなされた状態といえる。
table: 自由と共生性
コンヴィヴィアリティ
↑
自由     ←→ コミュナリティ
(自己)   (他者)
私たちは言語を通じて存立する言語的存在であり、それをベースとした他者とともにある社会的存在であるのだが、そういった他者との共在性(コミュニティ感覚)が失われ、孤独な状態におかれると一種の病理に陥ってしまう。もちろん、言語は自問自答を可能にし、それによって新たな認識へと人を開くことで、孤立したままに人を一種の励起状態や癒しの状態、あるいはより認識の高みへと向かわせ、より統合された見識をもたせることができる。これは一種の幸福ではたしかにあるのだが、それだけでは不十分であり、言語だけでなく具体的な人間からの共感も必要とする。そして音楽はそのような共感をダイレクトに可能にする特別な言語なのである。
音楽を通じて人と人が繋がるというのは、人が孤立から脱却し、間主観的なメディア的存在(集合的・言語的存在)に回帰することであり、それは癒しであった。
システムはどこにあるのか
システムはいわゆる「仕組み」であり、因果関係の総体であり、様々なルールや期待のもとでの継続的なアクション群である。モノではなくコトであり、それは様々なものが関係づけらているのだが、そういった関係の総体が仕組みであり、システムである。だからシステムは、モノに収まっている場合もあれば、そうでない場合も多い。たとえば車やオーディオやPCというモノはシステムとしてスタンドアローン(孤立)で動く。電気やガソリンといったエネルギーは必要とはするが。しかし、このようなモノに入ったシステム(機械)というのは20世紀までの話であり(あるいは19世紀的といってもいいかもしれない)、ネット社会においてはIoTといわれたように、自動車や家など全ての機械がネットに接続されるようになる(スマートシティ)。すでにインターネットによって中長期的にはシステムが1つに収斂する趨勢ではある。(ただここ数年から30年ほどは西側諸国と新興国による対立し、ファーウェイが西側から締め出されたように、2つのシステムが並存するだろうが。)
音楽は1つのシステムであるし、数学も1つのシステムである。そしてともに、それらが所在する場所を必要としない。あえていえば、人びとの頭の中にある知識であり、情報である。情報は知識より一般的である。知識は、構造化された情報であったり、自己目的情報(コンテンツ)であったりする。知識は自己再帰的・自己生産的な情報ともいえる。音楽や絵画といった非言語的な広義言語まで含めた言語システム上において、広義の語彙(言葉)は言語システムの要素であり、その要素の関係性の総体として言語というシステムは成立している。言語は知識や情報を可能とする基底である。語彙と文法からなる言語がベースになって発話・文・文章が生まれ、この言語行為によって情報や知識が生産されるのは明らかなことだろう。
学問(科学)も芸術も、明らかに広義言語をベースとしているが、そのなかでも数学や情報科学を中心とする科学技術が世界に無数にあるコンピューターやスマートフォンを接続させ、インターネットをつくりだし、このネットが社会を飲み込むかのようなネット社会を実現させたのは21世紀に入ってからのことであり、1995年のWindows95発売以来のここ30年のことである。このネット技術によって、システムは人びとの頭の中だけでなく、ウィキペディアやホームページやブログや電子ジャーナルという形で、急速にネット上に知識がアップロードされることにより、ネット上にいわばデジタルツインのような形で出現することになる。つまり人びとの頭の中に分有・共有されている知識・期待・規則・規範・習慣といったものの総体であるシステムが、ネット上で可視化されつつあるといっていい。これはGPSデータやGIS(地理情報システム)といったものや、個人的なメールのやりとり、SNSデータなども含まれる。
ルーマンは社会システムをいくつかの機能システムとよばれるサブシステムからなるシステムとして捉えたが、ルーマンは単に捉えるだけでなく、さらに踏み込んでシステムを実体視した。この点がパーソンズや通常のシステム科学との違いであり、ルーマンが宗教的な危うさをもって忌避される原因にもなっている。しかしシステムの実体視というのは、ある意味で、構造主義や方法論的集合主義の伝統には沿ったものといえなくもない。いうまでもなく、システムにはコンピュータ言語、数学、音楽、デザイン言語、機械工学、制御工学、情報工学、法律学、医学、経済学といった様々な意味での言語が必要なわけだが、こういった言語は明らかに集合的なものであり、個人の合理性より先行している社会的なるものである。
私はルーマンのシステム実体視を肯定も否定もできないという微妙な立場なのだが、システムが機能分化によって複雑化し、社会がある意味でより進化(複雑化)していくことは正しいと考えている。これは細胞分化による役割分化のアナロジーにも近いと思うが、近代社会において経済や科学が宗教から独立(機能分化)したことはやはり大きいのである。いわゆる専門分化という流れは、知識の構造としてそのほうが効率的で生産的だからそうなるのであって、止められない流れである。自由主義というのは、統合の機制をゆるめて分権的にこういった専門分化や機能分化を推し進めていくのであるが、そこでは量的拡大もあるため、つねに総合とか統合といった一種のタナトス(選択と集中)および弁証法(第三の案)が、あるいは統合的な自己意識たる社会学や理論が要請されることになる。もちろん、パラダイムシフトのような全く異なる第三の案のようなものも含めて。
ルーマンが機能分化を論じたことは、その起源をとえば、機能未分化なシステムの存在を前提とする。この機能未分化なシステムは、宗教、芸術、科学、医療、教育、経済、家族、友愛といった様々な側面をもっていただろうと思われる。これは今日においてはベンチャー企業やあるいは地方のヒッピー的な自給自足的村落共同体のような、ある種の小さなコミュニティにおいてみられるかもしれない。システム化というのは、多くの場合、明示的なルールや期待によって人びとの行動を制御(コントロール)し、分業や分担を加えて、組織化していくことにあるのだが、そういったなかで様々な方向(価値)が独立していく。しかしながら機能分化は、人生の意味を教えてくれる宗教的なコスモロジー(人生論を含めた宇宙論)の崩壊、豊饒な意味世界の崩壊をもたらし、断片化を促すので、この個人的な統合には、癒しや精神的な救済や心の豊かさとして、新興宗教やスピリチュアリティが再び駆り出されたり、より穏健的な対応としては文学や哲学が要請されることになる。これは社会的には社会学が要請されるのとパラレルな動きである。
ただ、政治や軍事といったものは、集合的な生存のための団結の必要性から、社会の原初においても独立的であったかもしれない。もちろん古代においては宗教と政治が結びつき、今日においてもイスラム社会なのでは結びついてはおり政教分離は残っている。しかしこれは宗教という社会にとっての根源的なものが、やはり政治という社会にとって根源的なもの同士の結びつきが強いということを示しているのではないだろうか。西欧社会では、聖俗の分離によって宗教の権威としての教皇と、政治軍事の権威としての王が、それぞれ分立した二重支配となっていたが、これは心は宗教が、身体は王が支配するという構造であった。宗教と政治は精神と肉体という人間の二つの次元をある意味で社会的に統合するものであるから、結びつきが強いのである。じっさい、今日でもイスラム社会や旧共産圏も含めた一部の専制的な国家では、西欧社会の二元支配ではなく、心と身体の一元支配となっている。
いずれにしても、政治と宗教は、社会学や文学やスピリチュアリティと同様に、統合的な側面を強くもつ。とりわけ、政治においてはいわゆる国家権力として、警察を含む司法権力や軍事力といった武力システムを伴うので、暴走しないような文民統制(シビリアンコントール)やメディアを含めた政府に対する監視(これは国民に対する監視を掣肘する憲法的な機能)が重要なのはいうまでもない。
ところで宮台真司がいっているように、英米などホッブス・ロック・ルソーの社会契約論の伝統をもつ自由主義的政治システムが強い社会では、ルーマンの社会システム論は流行らない。これはおそらく、じっさいに社会における政治の力が強いのもあり(米英は大陸欧州や日本に比べて労働者規制が少なくいわゆるアングロサクソン的な強権性がある)、英米にはロールズやA.K. Senやミクロ経済学のような公共哲学と経済理論の影響が強いからだろう。米国における選挙の盛り上がりや米国人の政治システムに対する矜持は有名であるし、イギリスはロックやピューリタン革命により近代民主主義が生まれた国でもある。ピューリタン的なゼクテ(小さな教会)が会社の原形となり、合わなければ他のゼクテ=会社に行けばいいという発想からある種、労働者に対して冷酷な強権的伝統が米英にはある。おそらく選びの教説のようなカルヴァンの思想に起因するのだろうが、この思想が英国で受け入れられ、のちにピューリタンが作った米国において基本思想になるのは、市場を重視する新自由主義的な、ドライなアングロサクソンの文化にマッチしたのだろうと思われる。大陸欧州や日本など非英米圏においては市場より社会のほうが重視されるが、相対的に英米圏では市場の比重のほうが大きい。これは経済学や統計学英国で生まれたことと無関係ではない。