1970/04~ 資料:自主卒業式闘争の記録(私記)
*『新左翼』紙[1970/4/15・第56号;「新左翼社」発行]掲載の寄稿文による。
*編者注: <未作成>
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【学園からの告発】
新たな闘いの開始 豊高で卒闘と市街デモ
2月24日卒業式当日、豊中市街にデモを打つ。
そのことが発想され、提起された頃──具体的には2月の初頭──の豊高の状況は必ずしも良好とはいえなかった。そればかりかその発想自体、ぼくとぼくの友人との全く私的な、それだけではムセキニン極まりないアヤフヤな会話の中から、ポッカリと浮かび出て来たものである。
しかしながらいかにそれ自体三年間のウップン晴らし的なものであったとしても、ぼくはそうしたウップンの何であったかにこそ注視したい。豊高三年間の「狂育」に骨のズイまで侵され、そして昨年来の“闘争”とも無縁ではなかったぼくたちにとって、そうした発想はやはり必然であったように思う。そしてそれが既成の─当局公認の─「自治会ルート」から離れた所で具体化され準備され、そして当日雨の中を百数十名の学友を集めて貫徹されたという事は、豊高において、運動体としての「自治会神話」を決定的にくつがえし、勢いこれ以後の運動の質の転換を大衆的に示唆し得たと思えてならない。
以下今は豊高を離れたぼく個人の自己確認を含めて、豊高における「卒闘」の報告とささやかな総括とを試みたい。
一 大量処分で消耗
「2・24豊中市街デモ」を発想し全校的に提起した時の状況は、必ずしも良くはなかったと先に書いたが、それはひとつ「力量」の問題だった。すなわち昨年六・七月の部落問題に端を発した期末テストボイコット闘争から十一月のハンガーストライキ、十二月の本館中枢部バリケード封鎖、そして今年一月一四日十項目要求を掲げての校長室大衆団交に至るまで、一貫して闘争の主力を担って来た部分に対し、一方的な大量処分がねらい打ち的に下された、それは直後のことだったからである。そして後に残った比較的活動的なノンセクト部分による処分撤回の闘争も、被処分者の分裂などによって行きづまり、全体として闘争は沈滞していた。当面の卒業式を控えて何とかしなければという事は分かっていたにもかかわらず、みんな無闇に「消耗」し、どうにも動きが取れないでいた時でもあった。
こういった状況の下でそれも多分にあやふやな形で発想された「市街デモ」であったが、それは明確に当初から一つの立場を持っていたように思う。それは式典そのものに“反発”するのではなく、明確に今まで三年間の豊高教育全体に向けて闘われるものであること。
それゆえ式典自体の形式主義・権威主義のみを問題にし、当局との妥協のもとに「改革」次元に矮小化しようとする自治会の方針を乗り越えたものであること。
と同時に(卒業式典を否定してたたかう限り)明らかに式典にアンチした形で、闘うわれわれ自身の真の“卒業式”であること、……
これらを根幹にデモ実行委における検討が加えられ、枝葉がつけられて、舌たらずなアジビラに文章化されると次の様な具合になる。
……そして今当局は欺瞞に満ちた一生一代の名演を演じようとしている。卒業式典──それはまさにわれわれが歩んできた差別=選別の受験体制の帰結点であるが故にその集約として、一つの象徴として存在する。言い換えれば点数のみによって「優等生」=知識だけの「エリート」労働力、「劣等生」=単純労働力として巧妙にふりわけ“卒業証書”によってレッテルをはり大学受験・入社試験というせり市を通して、資本に向けて労働力商品を供出していく、そうした一つのセレモニーとして式典は位置づけられる。
……そうした当局のいう式典を拒否するとすれば当然、別の場においてわれわれはわれわれ自身の声で三年間の総括を語り確認し合わねばなるまい。……すなわちわれわれを選別し抑圧しているもの─われわれが本当に向かうべき敵は決して学校当局などではなく、それは明らかに政府自民党─文部省─府県教委が一体となった反動的現教育体制であり、その背後には言うまでもなく日本独占資本主義体制=日帝の影がある。……ここに於てわれわれが自らの「労働人形」化を拒否し、何よりも人間であろうとする闘いは、決して卒業式粉砕のみにとどまらず、明らかに反体制・反権力の闘いとして街頭にたたかわれなければならない。そしてまた一面においてはデモに結集した豊高一─二─三年生の学友の連帯は、到底「改革」にしかすぎない自主送辞・交歓会などによる「在校生との交流」の比ではないだろう。
▶真の教育をわれわれの手に
▶差別=選別の全ての受験体制粉砕!
このメインスローガンのもと、すべての豊高生によって闘われるであろう2・24豊中市街デモこそ、われわれは真の意味におけるわれわれ自身の「卒業式」であると確信する。……
二 友達からの電話
──ぼく自身のことを語ろうと思う。なぜなら「卒闘」を語ろうとも、さきのようにその位置づけなりを語ろうとも、それに多少とも係わり得たぼくを離れてはそれは空疎なだけだ。
ぼくは恐らく「一般生徒」であったろう。ノンセクトというよりもノンポリに毛のはえた程度であったのかも知れない。少なくとも「過激」ではなく、多分に「いい子」的に闘争に係わって来たとも言える。
<映画と小説が好きだ>
去年十二月のバリケードが学校当局の居直りに屈した形でもって自主解除の結果に終わった時、そしてその後期末テスト-冬休みを何なく終えた時、ぼくは何の虚しさも、抵抗もなく「受験勉強」をやろう、と思っていた。日和る、という程の後ろめたさもなく、ごく常識的に。
その「常識」が曲者だという事を今のぼくは知っている。受験体制粉砕という自分を「常識」でもって何のためらいもなく切り捨てる事の危険がその時の僕には在った。
或る夜に電話があった。暗闇の中でぼくは処分が下された事を知らされた。他ならない無期停学に処された「もっとも過激かつ煽動的な」友人からの電話であった。初めてぼくの内部で「常識」が揺らぎ始め、次に迷いと葛藤が起こり、それは今や教育の片鱗すら放棄した学校当局に対する怒りによって保証されていた。ぼくはそれから授業には出ていない。ノンセクト部分を含めた形で処分撤回を闘い、そしてそれは敗れた。
一本の電話がぼくを変え、あれ程「常識」的に闘争から離れようとしていたぼくを撤回闘争に至らしめた、といえば余りにも出来すぎた話だろうか。しかしそれは決して恨みではない。ぼくはもとよりあの時期の三年にも似あわず撤回闘争に、卒闘に係わって来た自分を悔いてはいないつもりだ。ただぼくの何がぼくをここまで動かしたのか。「常識」に埋没した自分を否定し、なお否定し切れない(僕はやはり受験を意識せざるを得なかった)ギリギリの所でぼくを闘わせたものは何なのか、なぜかそれに固執したいだけなのだ。
三 総合シンポジウム
要するに市街デモは儀式に過ぎない。それは分かっていた。
豊中高校の闘う部分の意志確認。ノンセクト部分の組織化。卒業生と在校生の本当の意味での連帯。当局のいう式典が「労働力生産過程終了」の儀式なら、市街デモとはわれわれの側のたたかいの儀式だ。
がそれにしてもそれだけでは余りに自己満足的な、ともすれば実体のない「総括」に終わりはしないだろうか。……そうして新たにデモ実行委から提起されたのが「豊中高校総合シンポジウム」であった。順序的には、デモの前に付随した形の確認集会を拡大したものとも言えたが、実質的にはそれだけで「自主卒業式」とも言える内実を持ったものとして、当日式典をボイコットした百余名の学友を結集して玄関前で開催されたのである。
すなわち具体的に言うならば、「今日われわれが直面している状況のトータルな分析・批判を試み、今後の闘争への展望を切り拓き、われわれの方向性を探る思想闘争の出発点として」明確に位置づけられた総合シンポジウムは、
◇基調報告──豊高闘争中間総括
◇現代教育の視座──教育と資本主義
◇現代の婦人問題(女性解放戦線)
◇行動の提起(立命館大ベ平連)
等の意見発表を主として続けられ更に近くの高校からの連帯のあいさつを経てデモに移った訳である。
四 闘いから得たもの
しかしながらこうした今度の一連の運動は必ずしも順調に進行し最大限の成果を収めたとは言いがたかった。「総合シンポジウム」「市街デモ」を提起し準備する過程において予測した事ではあったが、セクトの介入とその内部対立がそれである。はたして当日の総合シンポジウムの場に於ては赤と白のヘルメットが一般生徒を挟むようにして対峙し、当初からかなり険悪な空気ではあった。そして折からの雨を避け会場を教室に移してシンポジウムを続行する間、二度にわたって激しい内ゲバ騒ぎが起こったのである。ぼくはセクトの存在を否定しもしないし、その間のイデオロギー闘争を場を限って禁じる程管理者的ではなかったつもりだ。けれどもあの日少なくともそうした彼等の党派闘争は、むしろ組織化されるべきノンセクト部分とは全くかけ離れた地点で行われたのであり、物理的にも心理的にもその場に結集した百名のノンセクト部分を少なからず「消耗」させた事は否めない。その意味で当日のような事態を阻止し得なかったデモ実行委の力量不足を反省する一方、セクトの諸君に対しても共に闘う者として反省を求めたい。
とはいえそうした混乱にも拘らずその後、ぼくたちの市街デモは四キロ道路を埋めた。時折の小雨の中を9・18府教委通達粉砕!! 10・31文部省見解粉砕!! 等のシュプレヒコールを叫びつつ、圧倒的な連帯をもってデモは貫徹された。
もとより当局、自治会は全くの無力であった。そそくさと式を切り上げた学校当局はあの室内の内ゲバにも何ら関与しえず、予定されていた自治会の交歓─フォークダンスは中止せざるを得なかった。新聞には「自主卒業式」として報道されたあの日の一連の行動こそ、運動体としてはもはや無力な自治会組織を乗り越えて結集したノンセクト部分によって創り出され新たな闘争の出発点として相互に確認された場ではなかったか。少なくとも「名門」豊高の生徒からは、自分たち個々がおかれている差別と抑圧の矛盾に対して、自分の口で叫び、自分の足で歩き始めたのであった。
そしてまた闘い内部における感覚的な「ヘルメットアレルギー」は各々が主体的に参加し連帯して闘う中で、ほぼ完全に払拭された。それはすなわち、従来の欺瞞に満ちた「間接民主的自治会ルート」から、まさに自らが行動することによって自らを解放した豊高の学友の「直接民主主義」への指向と予感であったろう。
たたかいは始まったばかりだ。
五 個人的な感想
こうして二月二十四日、「総合シンポジウム」「豊中市街デモ」と続く(それは他校と比べてかなり毛色の変ったものであったが)卒闘は終わった。そして今その総括をふまえた当面の課題・展望といったものが豊高にはせまられている。
例えばこれまでの豊高闘争に明らかに欠落していた、闘争におけるイデオロギー的支柱・指導主力の問題──すなわち先進的な意識をもって結集したノンセクト部分をいかにして物取り主義的な改良闘争でない、現教育体制の根源に迫りうる・日常に埋没した形の個々に対して、意識分解を強いずにはおれない学内闘争に組織化したたかってゆくのか。そしてまたその過程におけるセクトとの距離という事も特に重要になって来ると思う。
しかしながらぼくはもはや豊高の生徒ではないのだ。無関係だとは言わないし言えもしないが、ぼくにはなぜか評論家然としては卒闘以後の豊高闘争の方向性をここに示唆しようとすることが苦痛に思えてならない。卒業したぼくと、豊高に残った学友とはおのづから闘う“場”をたがえた個と個でしかないだろう。
「卒闘」はぼくにとって新たな出発点と成り得たか。
当日総合シンポジウムを司会し、デモをリードしていたぼくは、不思議にもそこに結集した学友個々の表情を一人づつ覚えていて、ぼくにはそれが嬉しい。
ごく「常識的」に受験勉強に没入しようとしていた僕に、処分撤回を、卒闘をふたたび闘わせたものは何だったのか。それが単に当局に対する怒りというより、あの夜処分を知らせてきた彼自身の、動揺を隠すような冗談半分の電話の声であり、かつて皆の前でアジ演説をしていたヘルメットとアノラックの姿であり「人間」でありつまりはまさに彼の生き方であったとするならば。
卒闘を終え豊高を卒業したぼくが今あらためて自己の中に確認し、語るべき言葉はもう明らかではあるまいか。すなわち──
あの日再度の内ゲバにも拘らず「総合シンポジウム」の教室を埋め、市街デモを共に貫徹した一人ひとりの学友を、ぼくは何よりも闘う者として・人間として・愛しつづけなければならないということ。 (白井完一)
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