1970/02/24 自主卒業式・市街デモ
#171https://gyazo.com/28e3ad97a5899f3c163154c25ed12cda
#自主卒業式
卒業式
二月二十四日
この日卒業式が行なわれた。九時五十五分、講堂で卒業式開始。少しヤジがとんだほかは平穏で、三十分ほどで卒業式は終わった。
さて、この日、校庭でもう一つの自主卒業式を有志が開いていたのである。参加者は、卒業生、在校生、他校生とあわせて五~六十人。ここでは自主卒業式がなぜ開かれねばならなかったのか、今の教育とはどんなものなのか、などの話を次々と卒業生達が行なった。また、講堂での卒業式を済ました人も、時々、自主卒業式に加わる。それから、書き忘れてならないのは、この日二つのセクトが、その卒業式に加わっていて、しばしばセクト争いがおこりそうになっていた事である。
しかし、とにかくも、自主卒業式は、行なわれていた。そのうち、みぞれが降りだしたため、自主卒業式場は、九号教室に移った。(今は、とりこわされてしまったが、その頃の豊高で、一番広い教室である。)そしてそこでは、豊中高校女性解放委員会の人などが、演説をしていた。しかし、二つのセクトは、ついに、争いをはじめ(それは二度起こったのだが)争いをとめに入った卒業生の一人が、頭に軽いけがをした。
そして十二時すぎ、自主卒業式の最後に市街デモが行なわれ、他校生など含めて、五~六十人がデモに参加した。それらすべてが終わったのは、一時すぎだった。
後日、生活指導より「二月二十四日に、卒業生が頭にけがをしたが、それは、他校生が入ってきたからであるから、今後、学校の許可なしに学校に立入ることを禁ずる。」ということが、生徒に伝えられた。
さて、二月二十四日の事は、上べだけ簡単におってみたのだが一番大切な点は、なぜ自主卒業式が行なわれたか、という事である。これは、自主卒業式の計画者が出したビラに、その説明があるので、それを抜粋しておくことにする。
『我々の歩んできた三年間をふりかえってみた時、そこにあるのはおよそ真の教育とはかけ離れたまぎれもない受験体制の姿であろう。そして現在に至るまで歪んだ教育体制すなわち差別と抑圧の受験体制のもとで、どれ程の不満が、苦悩が、あがきが、生まれそうしてその度におしつぶされていったろう。そして、まさに、そうした教育の矛盾に向けてつきつけられた有志の主体的変革=解放への志向すら当局のあくなき管理者的対応によって、どれだけの黙殺そして圧殺に抑えられてきただろう。まさしく我々の歩んできた三年間は人間が人間でなくなっていく絶えざる不安の連続でなくて、何だろう! そうして今、当局は欺瞞に満ちた一生一代の名演を演じようとしている。卒業式典─それはまさに我々が歩んできた差別=選別の受験体制の集約点として存在するのだ。言い換えるならば、点数のみによって「エリート」労働力そして「劣等生」労働力の別に巧みにふりわけ、それぞれ、「分」をあらわすレッテルをはり大学受験そして入社試験というせり市を通し、資本に向けて労働力商品を供出してゆくそのような一つのセレモニーとして卒業式は位置づけられているのである。よって、現在自治会を利用した当局の懐柔策としてある「自治会の自主管理による卒業式」等の改革案は卒業式の本質を歪曲隠蔽する以外の何ものでもない。我々は「自主卒」「在校生との交流」という美辞麗句にまどわされ、酔いしれてはいけない。卒業式とは三年間の歪んだ受験体制を美化し、全ての矛盾をオブラートに包む一つのイデオロギー統制の場として存在するのだ。そして、イデオロギー統制と労働力商品の完成とが表裏一体を成して卒業式の本質を形成しているのである。しかしながら、昨年各校で激化した卒業式造反は「自主答辞」といえども「形式」を否定し得ず、それらが、無展望かつ単発ショックウップン晴らし─の域をのりこえる事がなかった故に、真の造反たり得なかったのである。
─単なる物理的粉砕に終わらずに、それを如何にして発展させのり越えるか─
今月、我々に提起された克服すべき課題であろう。』
(二月二十四日、デモ実行委のビラより)
▶︎ 1970/02/24[有志ビラ]2.24デモ実行委員会              
1970/02/24 自主卒業式・市街デモ
◀ 1970/01/15~ 大量処分から処分撤回闘争へ
▶︎ 1970/04~ 資料:自主卒業式闘争の記録(私記)