1969/07/10 資料:糾弾集会の記録(抄録)
*大阪部落解放研究所編『部落からの告発』[1970;亜紀書房刊]所収・「豊中高校差別
事件」より抄出
*編者注:上記抄出元の記録文テキストは、1969年7月当時に豊中高校3年E組有志が同
放送部による録音テープをもとに採録・作製した「糾弾集会の記録」冊子(ガリ版刷り・非頒布)を原資料として再録・作成されたものとみられる。
[→後述の《解題》を参照]
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〔糾弾集会冒頭の問題提起部分〕(前掲書P.270~272)
解放同盟 今回の差別文書が非常に大きな問題となっていますが、それは、『豊陵新聞』が「有志は異常児か?」という見出しで、「有志とはまるで特殊部落の住人としか見えないのかも知れない」とある。差別用語である「特殊部落」ということば、このことばはもちろん使ってもらってはこまる。が、単にそれだけでなく「異常児としての有志」に対する非難攻撃が、「特殊部落」の住人というふうに表現される思想──このうらに何があるのか、問題はこのことなのです。
ここのすぐ隣りの大阪市に、柴島浄水場がある。大正五年か六年にできた当時は東洋一、その目と鼻 の先にある「日の出」を中心とした三つの部落に水道がついたのは、何と昭和三八年です。これが差別行政です。水道労働者もだまっている。
日本の碩学といわれた大内兵衛先生は、『世界』の 三月号に「東大を滅ぼしてはならない」という論文で──「学問も知らざる者が学問をすると称してゲバ棒をふるって暴力が横行する。無能な教授連が地位だけを守る……」こういう悪の象徴として、大学を「特殊部落」と表現したのです。
日本の一切の悪、その代名詞として「特殊部落」ということばは、百万語でも語り尽くし得ない諸悪を、わずか四文字で表現するわけです。NHKのベ トナム特派員は、あのサイゴンの都市を称して、曲りくねった道、じめじめした道路、一切のきたないものを「まるで日本の特殊部落のように」と表現し ました。
こういう日本の社会的体質、このために部落民は死んでいるのだ。一昨年三月、同志社大学二年生の学生が自殺をした。エリート教育の結果ですよ。差別と闘うことを知らず、部落差別の現実からのがれることしか知らない教育を先生方の仲間はやってきたのだ。今回、こともあろうに、民主主義教育を標榜する高校新聞の論説に載せられた。しかもそれ以前に論説は三回書き直され、四回目には執筆者が代わって、その結果が差別文書──これがフリーパス。書いた本人にも問題がある、家庭にもあろう。新聞部自体も総反省しなければいけないと思う。同時に、このようなことを書かせたのは、単に社会の責任だけではありますまい。小学校、中学校、高等学校の教育の中でこの差別の思想を無意識に使えるぐらいじょうずに身につけさせているわけです。それから学校長………この問題が起ってからのあなたの態度は何ですか、いったい。ひたすらにおのれの責任をのがれることだけだ。二五日の講演会もそうでしょう。本当の意味で正しい部落問題を子どもたちに認識させるための講演会ですか。本当の意味で同和教育をやろうとする思想ですか。こんな責任のがれの思想こそが、今日のこの差別教育を起していると思う。さらに、この校長を助けた先生方全体、どのような教育をこの豊高はやってきたのか。六月二五日を契機にして、今日子どもに対して教育ができないじゃないですか、紛争の中で。差別の問題をどれだけ的確に子どもたちに教えられましたか。自らがエリート校の、名門校の先生としてふんぞり返っているかぎり、子どもに部落撤廃の思想を植えつけることはできないんですよ。
特に府高教(府立高等学校教職員組合)の先生方に訴えたい。教育労働者として、部落解放運動をになう先生方が、なんでこの問題が起きてきた時に、いち早く府高教本部に連絡し、解放同盟に連絡し、共にこの問題の発展的、教育的な解決のために助け合わなかったんですか。
最後に、府教委の責任です。こういう差別教育は 全府下一般的にあるんですよ。豊高だけの問題ではないんです。ひたすら困難な大学進学、利己心だけを育てあげる教育を強制し、本当の意味の人間を解放する教育、民主教育を忘れさせた府教委の責任が 最も重大であると思う。今日は豊高教育というものを徹底的に糾弾し、先生方の総反省を求めます。 これで問題提起を終ります。
同盟  いまの問題提起の中で特に指摘されたとおり、新聞部の責任というより、そういう閲覧、検閲し、それを通していくところの学校の体制、あるいはその後の学校のこの事件の処理、解決の方法について、非常にあいまいさがあったのではないか。今回の問題が起った原因──いわゆる学校体制そのものに問題があるのではないか。生徒にこのような部落差別をたくみに使うだけの、使うことのできるような思想を植えつけてきた、その学校の教師ひとりひとりの責任及び学校全体の責任というものが追及されなきゃならんと思うのです。なぜこのような問題が起るのか、この点について、まず学校側の見解を聞かしていただきたい。それを機会にひとつひとつまた問題を提起し、話し合いを進めていきたいというふうに思います。
校長  ただいまご指摘がありましたすべての点につきまして、学校側の全く無責任な態度、それを強 く反省いたしておるわけであります。今後二度とこ のようなことのないようにあらゆる努力をいたしたい。この豊高教育における、自由と平等の保障されたところの世界の創造、これは生徒各々が真の意味において、自分自身の自己を開発し、本当の人間精神に徹する主体的な行動に立つということを本校の教育の中心といたしまして、そのためには「協同進取」の民主的な立場に立ち、また「質実剛健」のいわゆる自主的な立場に立って教育が進められておる わけであります。けれども、われわれの努力のまことに不徹底であったということの総反省をいたしております。先日来、毎日毎日職員会議を開きまして、この豊高教育における総点検のなかに、今回の問題点の出てきたところの根本的な原因は何か、ということを追求いたしておるわけでございまして、このたびの問題を契機といたしまして、豊高教育を根本的に変革していきたいと念じておるわけでございます。しかし、このたび、皆さん方に対してまことにご迷惑をおかけいたしました。『豊陵新聞』一六七号におけるところのいわゆる差別事件、並びにその後皆さん方のご好意によりましておこなわれましたところの盛田先生のいわゆる差別についての講演の粉砕事件、それはすべて私の責任でありまして、今後真の意味におけるところの、差別者という立場に立って自己を告発し、真剣に二度と教育の場にこういうようなところのことが起らないように取り組みたいと念じておる次第であります。以上をもって一応お詫びのことばとさせていただきたいと存じます。[~P.272]
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《解題》
以上に抄録した糾弾集会の一部(冒頭の部落解放同盟による問題提起及び豊中高校側・中野校長の応答部分)は、大阪部落解放研究所編『部落からの告発』[1970.3.20,亜紀書房刊]所収の「豊中高校差別事件」(第二部・Ⅲ)の章中、「七月一〇日の糾弾集会」としてその全容が収録されている記録文テキスト(PP.270~288)によるものである。
同章全体の執筆者は、当時の大阪教職員組合執行委員・解放教育推進部長、持永保氏と記されている。
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この糾弾集会の「記録」に関しては、集会以後の1969年7月の時点で、当時の豊中高校3年E組有志が放送部による録音テープをもとに文字起こしし、ガリ版刷りの冊子として自主的に作製したことが知られていた。
この際の経緯について、同年9月発行の「豊陵新聞」168号所載の記録記事には、次のような記述がみられる。
「……なお後に糾弾の正しい理解を望む目的で三年E組が録音テープによる糾弾集会の詳細をガリ刷りの冊子として作ろうとしたがのち先生・生徒の協議によって同冊子約百部の発行は中止された。」[→ 1969/07/10 -B 参照]
ここで、前掲書『部落からの告発』に収録された記録文テキストが、上述の経緯で3E有志により作製された「記録」冊子の内容と同一のものか(もしくは同冊子の原文をもとに改稿のうえ再録されたものか)どうかに関しては、同冊子の原本が非頒布(編者も未見)であったことなどから、現在のところ確証は得られていない。
もっとも、部落解放同盟の側では、同年11月発行の刊行物にみられる以下の記述からも、「糾弾集会の全容」を採録した原資料として同冊子の存在を確認したうえで、むしろ積極的に参照・活用されていたことがうかがわれる。
「……糾弾集会の全容については、豊高新聞局の依頼で放送部が採録した録音テープ及びテープを完全に再録した三年E組の資料もある……」(『解放新聞 大阪版』・豊中高校差別事件特集号;解放新聞社大阪支局,1969.11.1)
以上から、『部落からの告発』収録の記録文テキストが、もともとは3E有志作製の「記録」冊子を原資料として参照しつつ作成(再録)されたものという可能性はきわめて高いと考えることができよう。
[*編者より:ここで言及した糾弾集会の「記録」冊子をめぐる当時の経緯、以後の再録・転載等の事情をご承知の方は、ぜひご一報のうえご教示願いたいと思います。]
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いずれにせよ、こうした糾弾集会全体の記録はもとより、前掲書所収の報告「豊中高校差別事件」をはじめとした「部落解放同盟-部落解放運動」関連の原資料は、「豊高紛争」の全体像を明らかにするうえで、本来欠くことができない重要なアーカイブ資料であることは云うまでもない。
にもかかわらず、これらの原資料の多くはいまだ収集・整理中の状態にあって、当面「第Ⅰ期」としてのサイト公開に際しては、きわめて不本意ながら未収録となっている。
こうした事情から、[豊中高校:1969]の全局面に関わるアーカイブ構想の編者としては、今回未収録の上記関連資料をはじめ、当時の全校的な「紛争」過程に大きな影響を及ぼした「関西部落研」など“外部勢力”関係のビラ・冊子等をも包括した「第Ⅱ期」コンテンツとしての収録を期して、以後の作業を進めていくことを約束しておきたい。
(佐々木記)
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1969/07/10 資料:糾弾集会の記録(抄録)
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