1969/07/07 -B
Vol.2
7月7日(月)=豊高のいちばん長い日
朝8時頃、3年有志による「全校集会・期末テスト中止について」のビラが配布され、少しおくれて関西部落研究会のビラが配布された。その後8時30分から1,2年は平常通り授業にはいったが、3年生は3年有志の働きかけによって、ひき続き期末テスト延期について等のクラス討論を行ないつつあった。
同8時40分─関西部落研が去る7月4日に校長との間にとり交した誓約書についての回答を得ようと校内に這入った。この際校門前で教職員との間にこぜり合いがあり、教職員数名が軽傷をおった。更に彼等は職員室を経て事務室におしかけ、鍵をかけてあった校長室、事務室などのガラス4枚をカサで割るなどして校長に面会を求めた(*)。
(*)この間の“被害”の詳細(8日の校長談による)は、先ず正門前に於て岡本教諭がツ
バをかけられ、東郷、小西教諭はカサで殴られ、依藤教諭は眼のあたりをカサで殴られた。一見弱そうに見える教諭にのみ、彼等は手を出したようである。続いて職員室では椅子を振り上げるなどして女の教諭をおどし、北坂教諭を蹴り、更に石山教頭の首すじをつかんで校長との面会をせまった。事務室前ではそこにいた山本教諭に喰ってかかり、同氏のシャツをひきさいた。…といった所であったらしい。
同じ頃校長は放送室において「部外者はただちに退去して下さい。でなければこちらで適当な処置をとります」との全校放送を行なった。校長が出た直後、部落研によって放送室のガラスが破られた。一方クラス討論を行なっていた3年各クラスに役員会決定という名目で「講堂において期末テスト延期についての全校集会を行なう」との伝達があり、一部のクラスはその指示通り講堂におもむいた。然し実際に集まったのは300名たらずであった。
8時50分─一旦北門から学外へ出た校長は豊中署に警官隊出動を要請。それと相前後して同9時頃警官約10名が学内に導入された。一部の生徒がこれを阻止しようとしたが警官隊は二手に別れ、一方は事務室に、他方は部落研2人を新館と体育館との間に追いこみ、一人を逮捕したが、残りはプール横のへいを乗りこえて学外にのがれた(**)。
(**) この逮捕理由はその時は明らかにされていないが、この日の商業新聞夕刊の報
道によると建造物侵入容疑(毎日)、建造物侵入現行犯(サンケイ、大阪)、不退去罪(朝日)などが挙げられている。
警官隊は逮捕者を南門から連行しようとしたが、3年有志がバリケードを築いてこれを阻止、やむなく北門へ向かった警官隊は保健室横の通路において「カエレ、カエレ」のシュプレヒコールを受け、更にスクラムを組んだ生徒から「学校へ何故はいって来たのか、また逮捕理由は何か」との詰問を受け、隊は一時停滞した。9時30分が既にちかかった。警官隊は何の回答も示さぬままに北門にむかい、待機する生徒約40名のバリケード・スクラムに真向からぶつかる事になる。
一方講堂では全校集会のさ中、警官隊導入の報がもたらされてからは場内騒然となり次々に会場を飛び出す者が見られた。自治会副会長及び総務委員長は急拠、「この集会を警官隊導入抗議集会にしたい」との提案をしたが否決され、ついに10時、役員会は集会解散~退場を宣した。
──北門付近は熱っぽい空気に漲っていた。生徒と警官隊とが殆ど実力に訴えんばかりに対峙し、生徒は抗議の詰問を間断なく投げつける。やがて校外に待機していた警官はこの情勢を判断して同じく待機していた増援隊に連絡し、同50名の警官に支援を要請した。10時前後ただちに新手警官隊は正門を突破、3列縦隊で北門へ向かった。生徒約50名は北門横の女子便所前にすわりこんだが、遂に双方の実力行使に至った。この結果生徒側に負傷者が出、(2-H某君は眼下を裂傷)唐沢外科に2人、警棒等による軽傷者が20人位保健室で治療を受けた。(この中には無抵抗乍ら傷を受けた女子2人を含む) 結局この新手警官隊によって更に部落研の人一人が逮捕され、のち正門から逮捕した2名を連行し、暫く豊高前に留まったのち、数分後ひきあげた。
この混乱のうちにも、1,2年の大部分は1,2限の授業を受けていたが、10時30分─自治会の全校集会が学校側に承認され、3時限以下の授業を削っての集会が10時40分から校庭で行なわれた。初めこそ朝礼の体形に並んでいたが、やがて校長を3年有志がとり囲み、ほとんど校長と3年有志との応酬となった。このやり方に反撥を感じはじめた1,2年生がかなり出はじめた。以下は本日の警官導入に関して生徒と校長との応酬の概略である。
校長「結果的には部落研に暴力的な態度があった。これに対し自主的に対処する事が本来の豊高教育であると考える」
生徒「官憲(警察権力)をいれる事が自主的に対処する事なのか」
校長(強く)「学校の秩序が守られない場合(警官導入も)やむを得ない」
生徒「警官を導入したのち、むしろ秩序が乱れたのではないのか」
校長「或いはそうかも知れないが、諸君は(8時40分頃は)ホームルームで(現場には)いなかった。(から分からないだろうが)下では彼等は門をのりこえてはいり、窓ガラスを破る、カサを先生に突き出す。又職員室では恐れて隅に退かれた女の先生方に椅子を振り上げるなどの暴力ざたに及んでいた。だから警官隊を導入する理由は充分成立していた。」
生徒「警官隊導入は校長自身の判断か」
校長「校長として全くわたしの判断。秩序を乱す者は断固として排除する」
生徒「その警官によって生徒に負傷者が出た事についての責任は如何」
校長「警官隊によって傷つけられた生徒が出た事については全体の秩序を守らなかった生徒がいた結果であって諸君らも自己反省すべきであるが、実態を明確にし、完全に治癒できるよう、学校責任において努力したい。」
生徒「4日、学校側が守らないような誓約書をなぜ書いたのか。また同書には“関係者─生徒教職員─に話した上で云々”とあるにもかかわらず我々自治会ですら何も知らされていないとはどういう事なのか」
校長「この誓約書自体の中に君たちの主体性を持たせ、生かして行きたい。(?) 生徒に了承を得るとか得ないとか言うことがギマンである」
生徒「警官が部落問題に介入する必要があるのかどうか。教師は生徒が危害を加えられた時どうすべきであったのか。又これは自治会として要求するが、校長先生に本日の警官導入について釈明し、かつ自己批判していただきたい」
校長「警官導入については、学校の同和や自治の問題はあくまで豊高自体が考えて行くものであり、確かに部外者には全く関係ない。が本日の情勢において導入自体は止むを得なかったものであり、正当と考える。従って自己批判の必要を認めない」……
一応本日の事についての意見がとだえた所で自治会役員会から明日からの期末テスト延期について討論する事が提案され、賛成意見がのべられた。その後暫く公開質問状に関して意見が出された後各H・Rに戻り、期末テスト延期についてのクラス討論にうつった。小雨の中で立ちづめだった生徒が去ったのち、豊中高校の校庭はさながら泥沼の如く、幾百の足跡にぬかるんで静んだ。
昼からのクラス討論の結果としてクラスごとに延期についての賛否をとり、総務委員会はそれを集計し、4号教室へ報告することになっていた。討論が終り、採決したクラスも、この全校の結果が出される迄残っている事になる。そうして3時45分、自治会で集計がまとまり、4時より全校集会をひらく。との放送があった。全校集会で役員会は自治会としての方針を打ち出し、とりあえず明日からのテストは延期し、明日午前中は討論、その後集会を行う、との発表があり、4時半解散した。期末テスト延期についての全校投票の結果は次の通り。(※)
1年  2年  3年   計
延期   177 247 261 685
中止 83 79 56 218
実施 143 103 105 351
棄権 58 32 36 126
(※) なおこの時の延期決議が、後の(7月12日)テスト中止決議~一部有志テストボ
イコットという事態に発展するわけであるが、ここでこの時点におけるテスト延期理由を明確にしておくと、(1) 第一に今日7日の混乱──このままの状態でテストをやってしまえば今日の事に対する学校責任もウヤムヤに終る。又外部団体の妨害も考えられる。(テストが終れば即夏休み。全くギマン的収拾策動──という主張) (2) 10日に解同から糾弾をうけるようだが、テストの最中にそれを行なう事によって、問題の本質である同和に対する意識が生徒間に失なわれる恐れもある。──というのが主な所であったようである。
この日の夕刊各紙は豊高事件を大々的に取りあげ、そうして豊高の長い一日が終わった。事態は7月10日の糾弾集会へと廻転し、「長い日」を前に踏み出そうとした片足を、豊高は何処にその一歩を踏み下すべきなのかをまだ知らない。
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