1969/06/30 自治会だより#1 同和教育・生徒心得・講演会以来の事態経過
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同和教育・生徒心得・講演会以来の事態経過
【6月30日(月)】
[豊中高校自治会役員会]
自治会便り 1969.6.30/役員会発行
豊陵新聞167号に掲載された論説中の文章には、明らかに差別用語として知られている言辞があった。この様な言辞が、正式の学校新聞に掲載されたという事は、社会的にも教育的にも重大な失策である。この失策というだけで済まない問題を解決するためには、新聞を回収するだけでは、もちろん不充分である。つまり真に責任を取ろうとすれば、この様な差別事件が起った根本的な原因を追求して、これを取除かなければならない。それでなければ混乱状態はおさまり事態はママ拾収されても、この事件は、形を変えるだけで今後も続くであろう。そして種々の形で表面化してくるであろう。
勿論我々が原因を追求して行くためには、徹底した自己批判が必要でありその上に立った原因追求でなければならない。今回の差別事件が起った直接の原因は、豊高教育の中に『同和教育』『差別をなくす教育』が実際上行なわれていなかったという点にある。これは豊高教育が、民主教育を目ざすものである以上妙な事である。民主教育を目ざすのであれば当然その中に現実の社会の問題(例えば、『被差別部落』の問題)についての具体的な知識を与えその問題を解決して行けるだけの力を与える、という様な事もはいって来るはずである。ただここで誤解してはいけないのは、我々の重大な過失を教育の不備という点に責任転嫁してはいけないという点である。我々が今一番すべき事は、自ら被差別部落の存在について考え自ら新しい行動に移って行く事であろう。この方向性を確立した上での教育批判である事は言うまでもない。
それでは、現在では先生も『豊高教育が存在する限り続かねばならない。』といわれた同和教育がどうして今回の事件が起こるまで行なわれ様とさえしなかったのか。それには色々な理由があると思うが、その理由の一つとして受験教育を重視するあまり真の教育(人間・民主教育)が曲げられて来たという事があげられる。授業を例に取れば今まで個々で考え理解しようとする(これは暗記には便利)様な試みがあげられる。しかし、現在の様な教育の社会化(1クラス=社会であると考え、その構成員である個人が互いに教えあって理解を深めて行く。先生はそれを指導し〔即ちオブザーバー〕生徒の解決出来ない問題だけをヒントを与え生徒に解決さす。)が必要な時において全く時代に逆行するものであると思う。
また生徒心得22番目によるビラ配布や集会の規制も、『一人の考えた問題をそのままにしないでみんなで考えて行こう』という教育の社会化と言うところからみれば、『1500人のうち1人が被差別部落について考えれば、クラスでは討論を!! クラス外の人達にはビラや集会を持って訴える!!』事が出来たし今回の様な差別事件も起らなかったであろう。そしてこの22番目がある限り他の問題でも又、同じ様な間違いを繰り返してしまうであろう。
現在僕達の取るべき態度は、『被差別部落』『豊高教育の欠点』(即ち授業、22番目、教育の中立の再考、政治教育)等について何も知ろうとしなかった過去を深く反省し、これからは絶対しないんだ!! という強い信念を持って、色々な問題について考え行動することではないだろうか!!
質問、意見のある人は自治会室へ!!
豊高役員会
[裏面]
講演会以来の事態経過
校長はこの事件が起ってから部落解放同盟大阪府連に行ってこれからの学校の方針などを報告書にして話し合った。その結果、解放同盟の支援のもとに大阪教育大学盛田嘉徳先生の講演会をひらくことになった。25日、その講演会について(これは後からわかったのであるが)関西部落研究会が「部落民の直接の問題」だからということを言い、そしてその中の人が「──同盟に入っている」と言ったことで、彼らを校内に入れた。一方校長の事態確認のための質問により、解同側が「何の連絡も受けていない」ということで本校に来たのである。この時点における事態は諸君はすでに知っていると思う。その後、先生方は職員会議を開き、その間に起った空白の時間を役員が自主的にとりまとめた。その後有志によるグループ討論に発展した。
26日、放課後、部落研の人から自治会室をかりたいとの申し込みがある。
27日役員会が放送によって事態の説明、これからの方針が伝えられ、自治会室利用に関して全校投票が行なわれる。また高校反戦の諸君によって混乱が起こるかも知れないという情報があり、教室待機が放送され、PM.1:00 7~8人の人が正門前にくる。スピーカーによる呼びかけが行なわれ本校の生徒役100人がテラスの所にあつまり、よびかけを聞く。その間Policeによるたい捕者2名出る(その後Policeの警備が続き、校内に入るための検問がきびしくなる)。その後スクラムを組み正門前に進む。その後彼らの意見と生徒の意見をたたかわせたが生徒側が門が閉められていることに対し、彼らを入れるか入れないかの討論に移る。その間、門をこえて部落研との話し合いに入ったものもいた。PM.6:00~7:00にかけて自然ママ開散の形をとり、有志が正門前でグループをつくり討論をする。この間大部分の生徒が学校の退校命令により帰宅する。
28日、学校側が授業を再開するが、有志90人により1時間目から授業ボイコットが行なわれる。部落研がきて正門前で話し合う。そこで関西部落研の考え方を文書にしてほしいという話し合いがつき「豊高差別事件に関し豊中高校自治会へ申し入れる」という文書を受け取った。