1969/06/26 -B
#Vol.2
6月26日(木)
昨日の混乱がまだ尾をひいて残っているようなこの日の朝、1時限は学校側から各担任を通じての説明についやされた。学校の見解としては、
(1) 昨日はあくまで盛田講師の講演を第一としていた。(この意味において関西部落研の者は乱入者であり、妨害者である)
(2) あの混乱の中で学校(教師)の指導上の統率が皆無であったことを反省する。
以後クラス討論を行ったクラスもあるが、2時限からは平常通り授業が行なわれた。
午後1時すぎに関西部落研の人2人が校長室に来たが、教師は追い返そうとした。その後彼らは自治会室に向かい、自治会室を糾弾本部として貸すよう、要求。教師は急いで自治会室に鍵をかけた。この要求に対して5限終了時3年の一部は「生徒の手で解答(ママ)するから待ってほしい。」と回答したようだった。3:20 自治会役員会は自治会室貸与に関して全校集会を開くつもりで、全校生に教室待機を放送で伝えた。しかし一方学校側は職員会議決定として「クラブ以外の生徒は裏門などから帰宅」するよう同じく放送で伝達した。このためすぐに帰宅した生徒もいたが、他の生徒は正門前に集まり、関西部落研の人と小グループに分かれて意見を交わした。これは下校時まで続けられたが、その間の討論で明らかにされたことのあらましは──
・豊高の自治会室を糾弾本部とする動機
1. 豊高は問題発生の学校である。そこに本部を置き、豊高をまず糾弾することが先
決だ。
2. 講演会を粉砕し、全生徒に自己批判を迫り、学校を糾弾するなどして発端を作った以上、今後もこの問題について糾弾~追及をつづけ、生徒を指導していくのが当然である。
・本部をおいた後の行動は?
1. 豊陵新聞はじめ、自治会内部の学校の御用機関化したあらゆる部分を徹底的に調査して、学校を糾弾する。
2. と同時にごまかしでない根本的、本質的な同和教育を推進していく。
・この他の主張として
「問題当事校の生徒集団にしては同和教育を根本から追求していくという態度がみられず全く無責任かつ不誠実である。このような生徒の機関である自治会の自主的な運動の理解など、とても信用できるものではない。だからこそ我々が中心となる必要がある。」
その後5:40ごろ下校指令が出され校門が閉められた。生徒の大部分は帰宅したが、少数の者が、部落研と教師の応酬を囲んで討論していた。
一方、この日、放課後4号教室において臨時議会が開かれていたが、その際に役員会より部落研に対する自治会としての回答が提出され、それを承認するかどうかの討議がなされた。その原案は次のとおり
1. 自治会として自己批判すると共に、学校側を糾弾してゆく。
2. 同和問題を自治会活動の一環としてゆく。
3. 土曜日にゼミナールを開く。
4. クラス討論を重ねる。
5. 明日(金)、全校集会を開いて全校生に決意を表明する。
6. 自治会室の管理については、全校生の意志を基として決定する。
しかし、内容上、語句の問題などで審議は難航し、時間はせまっていた。その際、3J市川議員の方から具体的な確約をさけ、焦点を自治会室使用のみにしぼった新たな草案が提出され、6:00前に、議会は市川案を承認、早速自治会室前で教師と応酬していた部落研に対して役員がそれを読みあげた。
「自治会室の使用に関しては全自治会員の意志を整理し、生徒側の意見をまとめ、学校側に報告する。」
発表と同時に解散を宣し、討論中の教師、生徒は四散した。その後、役員会は有志を含めて応接室で以後の対策を考(ママ)じ、一方職員は、7:00ごろようやく職員会議を開いた。両者の審議は11:00ごろまで続けられた模様である。
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