1969/06/14 -B
6月14日(土)─情勢一転~全校への回収伝達
この日を一つの支点として、今度の「論説」事件は、大きくその方向を転廻することになる。昨日の申し合わせ通り、月曜日にだす謝罪文の最後確認のために、局員は早朝7:40分、校長室に集合した。中野校長は開口一番──もはやこの謝罪文は話にならない──すなわちボツだということである。顧問は奥田先生が同席していたが、校長とも沈痛な表情であった。局員がその理由を問うと、今回の事件は何より、学校問題であることを再三強調し、その意味で新聞としての謝罪文はもはや無意味である、との事であった。そして学校長としての自らの責任において急拠(ママ)担任を通じて回収し、全校生徒の前で事情説明及び学校としての教育の立場から謝罪する、との回答があった。続いて校長自身の言によると──昨日(13日)夜“解同の知人”と連絡をとり、謝罪文の意見を求めたが、その際、今度の事が「府立某高校における不当な侮辱」としてすでに解同に知れているという事が分った。事態がそこまで進んでいる以上、例えば解同から糾弾があった場合でも学校として何らかの対処ができるように取り計らっておく必要があり、その為に学校が回収し、謝罪もするものだ。(その意味でこれは学校問題であり、したがってもはや新聞としての謝罪は無意味である)──というイキサツであるらしかった。しかしながらそうなる限り、豊陵新聞の主体性といったものは全く喪われる事になり、何度も云う通り新聞の報道責任と学校責任とは性格を異にするものである、ということから局員はこの措置に反対した。
そしてその結果、結局16日(月)の朝礼では、校長が学校見解(謝罪、今後の推進方向等)を述べる前に、新聞が回収に至るまでの事情及び謝罪を、回収のアピールも含めて発表することに落ち着いた。が、回収についてはその場ではそれ以上取り上げられず、局員との会談後、校長は早速、職員朝礼に於て全職員に回収措置を伝達した。全職員に対して、今度の事件が公的に問題として伝えられたのは、この朝が初めての事である。*
* この朝の段階では、ただ167号紙上に不穏当な箇所があるから、とにかく回
収する、という事だけしか恐らく伝達されなかったものと考えられる。従って職員の大部分は、以上述べて来た豊陵新聞内外の事情を知る由もなく、あくまでこの朝の措置は、学校独自の措置と思っていたと思われる。これは全校生徒にしろ、結果としては全く同様であった筈である。
その後、朝のshort H・Rで回収措置が担任を通して、伝達された。が、前述の様に、正確な事情説明が職員間でさえなされていなかった為、生徒に対する回収理由もさまざまであり、大いに生徒を不審がらせた。然し一応は「月曜日の校長or編集局の説明を待ち、とにかく今は回収を」というのが、この朝伝えられたおおよそであったろう。──各クラス単位名簿で回収をチェックする、といった方法もこの日、決定していた。これは主として学校の方策である。また、回収に際しては局員がいるクラスでは局員が回収し、そうでないクラスでは担任がそれを行なう、という2者協力のシステムが内定したのも、この日であった。──あわただしく、事態は新局面に展開しつつあった。
放課後、局室に顧問来局、回収についての打ち合わせを行なう。その後、1・2年の間では次号の企画、それと並行して佐々木は顧問の勧めもあり、月曜日の朝礼で発表する謝罪原稿を校外で執筆、一部の局員は折から開催中であった、有志による初の集会「6・14 沖縄を考える会」取材のために9号教室におもむいていた。3時半頃、書き上がった謝罪原稿は、早速局員、顧問の前で読まれた。しかしその後顧問の方から再び用語等の点についてクレームがつき(やはり“差別の再生産”の懸念から。)今の認識の段階では、この謝罪原稿の是非を判断し難い、とのことであった。そして実際措置としては、いっそ月曜日には差別用語云々等の事情説明は述べず、ごく抽象的に純然と謝罪だけをすればどうか、との提案もあったが、それではいかにも学校側からおしつけられたような形になり、後になされる筈の校長の説明を考えると、全く局としての謝罪の意味がなくなる、として局員は反対した。討論はいささか感情的になり、佐々木は、月曜日には原稿ナシで口頭で発表する、と断言して、その原稿を顧問の手から取り上げるまでに至った。下校時間が過ぎると、局室には奥田・宮城両顧問と佐々木・松村が残り、ひき続いて月曜の事などを話し合っていた。**
** この討論の際、ひとつの疑問点として佐々木・松村の側から出された事
は、何故月曜日に豊陵新聞の謝罪だけでなく、校長の学校としての見解が必要なのか、という事であった。学校としての見解である以上、例えば木曜の職員会議を通して職員全体の見解として発表するのが当然であろう。結果としてはこの通りになったのだが、この時点では職員間には少なくとも回収という措置しか示されておらず、会議の場も何ら持たれてはいなかった。それともう一つ。実際は月曜日の謝罪と同時にアピールされるはずだった回収措置が、この日、急に理由もなしに行われた事について。これは早朝、校長が言明していた様に、外部からのツキアゲに対する方策であったようだが、豊陵新聞としてはあくまで差別文書の他への影響を考え、報道責任の上に立った措置であっただけに、回収という措置をめぐる両者間のくい違いが明らかになったのもこの日の放課後であった。
結局、当日原稿ナシで発表するにしろ、上の様な疑問もあり、やはり事前に校長と協議しておく必要がある、として、松村・佐々木は月曜の朝礼前に、校長と会うということに落ちついた。