1969/06/12 -B
#Vol.1
6月12日(木)=謝罪措置決定
放課後、急拠(ママ)局内会議を持ち、佐々木の方からこの『重大な問題』についての説明がなされる。この重大な「誤まり」について局員は少なからずショックを受けた様子で、確かに校正等の段階で未然にチェックし得なかったということは、この問題に対する認識を欠いていたもの、と反省し合った。そして、局として早急に何らかの措置を講ずる事を決定。具体的な方法としては、昨日の佐々木の「私感」通り、やはりこうした「誤り」を新聞という公器に犯したことの責任を謝罪する意味の文章を、今後の局の、同和教育への取り組みを明らかにすると共に、学校に対する教育上の批判をほのめかして配布する、といった所である。
印刷方法については、時間的に早急を要する所から、ガリ刷り謝罪文も考えられたが、やはり全校へのアピールの効果、事の重大性などをかんがみて、活版印刷を行うことに内定した。それでも、印刷にはできうる限り迅速を期し、おおむね明13日(金)原稿提出、14日(土)ゲラ刷り校正、そして遅くとも16日(月)には配布という計画がなされた。
ところがその後、職員会議* を終えた宮城先生が来局され、(奥田先生は、来られず。)しばらく討論の末、同先生は、謝罪文を号外のような形で出す必要はなく、せいぜい次号に訂正記事として出す程度でよい、との提案。また局員のこの問題に対する理解、認識が浅い今は今後の局の姿勢にしろ、具体的な事(例えば同和問題に関して特集を組むなど)を打ち出すのは、さしひかえ、まして学校批判までする事はない、とのクレームがついた。
が、局員としては事の重大性と、報道機関としての責任を再三強調し、局の意見を表明するなら、できる限り早い方が望ましい、との理由で、次号訂正に反対した。その後、出席者全員の意見によって、活版印刷による謝罪文を、前述の計画通り、16日の月曜に出す事に決定した。しかし、後者の教育批判については、それをする事によって、当編集局の誤りの自己弁護ないしは問題転化(ママ)と見られる可能性は十分あり、また事実局内の同和に関する認識も浅い内から問題提起等でとりあげると、却って批判を招く、との理由から妥協した。そして結局、16日月曜に出す謝罪文は、今度の過失に関する局の報道責任の謝罪と、具体的な内容をさけた、局の今後への決意を表明したものになる。この文章の草案は明日、佐々木が書いてくることにして、6時頃解散する。 
佐々木は帰宅後、おりから来宅した父の友人で、同和教育にたづさわっている人と、今度の事について討論し合った結果、はじめて“新聞回収”という措置を考えるに至った。局として報道責任を取る、というならば、やはりそこまで徹底してやらねば意味もなく、又例の誤った用語による誤った認識が拡がるのを、できる限りくいとめる必要もある(差別の再生産を防止する)─との“私感”からであった。そこで謝罪文も、今日の決定とは違って、「新聞回収」を前面に押し出し、全校生にアピールするという形で、同夜、執筆された。
* なお、この日の放課後定例職員会議が開かれたが、前述9日の記事の通り、
少数教員間で指摘があったにもかかわらず、例の語句についての問題はついに会議の議題にはならなかった模様である。
▶︎ 1969/06/16 -A【資料●】謝罪文草稿
1969/06/12 -B
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