資料10-01 解題
#謝罪と反省
【資料10-01】
《解題》
標題と並んで「大阪府立豊中高等学校」と表記されたこの文書は、自治会による試験中止決議とボイコット闘争に揺れた期末試験の最終日で第1学期の終業式にあたる1969年7月19日(土曜日)、試験終了後の各学級ホームルーム(H.R)において全校生徒に配布された。その内容(全文)は、同時に全校放送を通じて中野校長により読み上げられた。
配布資料としての体裁は、B5判・孔版印刷(いわゆるガリ版刷り)・袋綴じ簡易製本(長辺ホチキス止め)。ページ数は計10ページ(表裏表紙なし)。
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同年6月以来次々と生じた「事件」についての“学校側”見解は、時々の校長説明や「自治会役員会の公開質問状に対する回答」(7月11日発表)等で部分的には示されてきたが、本資料は、直近の期末試験実施の時点で「現在に至るまで続いている本校の混乱実態」の推移を振り返る形で、あらためて“学校側”としての「謝罪と反省」を(職員会議での合議を経て)公式に表明した初めての文書である。
文書全体としては、「豊陵新聞」167号が発行されるまでの経緯にはじまり、新聞発行後の回収措置、その後の講演会粉砕、警官導入から糾弾集会を経て期末考査に至るまでの主な「事件」の経過に沿って、それぞれに対する“学校側”としての事実認識とそれを踏まえた見解および反省が詳述されている。
そして、こうした「謝罪と反省」の内容を受けて、文書後段では、「同和教育に対する基本的姿勢及び民主主義教育推進のための具体的方策の一部」が1学期末時点での検討内容として提示されている。
これらをもとに“学校側”としては引き続き検討を重ね、夏休み中の登校日である同年8月11日に発表・配布された「豊中高校教育方針」および「同和教育の進め方」と題する文書(→【参考資料】として収録)をもって、その一応の成果を得ることとなる。
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以下、補記として、「紛争」当時の“学校側”が置かれていた「学校外」との社会的な位置関係について簡単に再整理しておきたい。
いうまでもなく、「府立高校」である豊中高校は、教育行政上の上位機関である府教委(大阪府教育委員会)の管理・指導のもとに置かれている。
このため、当然ながら一連の「事件」に際しても、問題発覚後の早い時期から、当時の府教委・同和教育推進室および指導一課との(担当指導主事を介した)密な連絡・協議のもとで、学校長を中心とした時々の対処策が講ぜられてきたことがうかがわれる。
──本資料「謝罪と反省」の記述からも、たとえば6月25日の講演会企画(盛田教
授への講師委嘱等)と粉砕事件後の対処、6月29日の教職員研修会の開催経緯等にみられるように、学校長・教頭以下の“豊高当局”と府教委との連携関係をみてとることができよう。
あわせて、このことは、本資料「謝罪と反省」に示された基本姿勢とそこからの事実認識、見解・方策に関しても、基本的には、当時の府教委の管理・指導方針に依拠した形で、“学校側”としての合意を経た公式文書化に至ったことを物語るものでもある。
そして、実際の「紛争」過程においても、こうした府教委方針との一体性は、たとえば同年7月の同和対策事業特別措置法(同対法)施行と府下同和行政の本格化を背景とした部落解放同盟に対する対応姿勢(糾弾会受け入れと謝罪・自己批判等)の中に強く反映されていたこともまた明らかであろう。
しかし、その一方では、関西部落研をはじめとする新左翼系の「学外者・乱入者」に対する一貫した「排除」の姿勢、さらには「自治会の票決にあえてさからう」形でなお貫徹された、豊高自らの学校運営にかかわる「試験実施」への断固たる姿勢……といった、いわば“正常化への意志”を全面的に体現した以後の学内体制を生み出す中で、夏休みを経た新学期──〈1969年秋〉以降の新たな「紛争」過程に臨むこととなるのである。
(佐々木記)
資料10-01 解題
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