資料1-03「事件の記録」vol.2
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【資料1-03】 豊陵新聞編集局・局員編/(1969.7.26) 『豊陵新聞167号「論説」事件の記録 vol.2/1969.6.25~7.7』
は・し・が・き
この一学期、豊高を震撼させた「論説」事件は、大きく3ツに分ける事ができるでしょう。第1は新聞局内での事件の発端~処置。第2は6月25日の講演会に始まる外部団体の関係した段階。これは7月7日の警官導入によって、重要な問題点をはらみ乍らも、一応の区切りをつけることができるでしょう。この巻におさめた事件経過は、この第2段階の記録です。以下、解放同盟の糾弾─期末テスト断行と続く、豊高内部の「闘争」が、第3巻におさめられる予定です。[*編注:「第3巻」は未発行]
──夏休みにはいった豊高は、今一応の平静を保っています。が、生徒個々は、果してどうなのか。確かにこの事件の当事者であった我々は(勿論現在もそうであらねばならないのですが)今迄、余りにも日々の現象面だけを追うばかりで、何ら今度の事件を根本的に総括としてとらえることがなかったのではないでしょうか。そうしている内にテストは終り夏休みに突入し、9月の新学期が始まって……そうして気がついて見れば心の中には何も残っていなかった。我々の、それは最も恐れなければならない事です。この我々の拙い小冊子が、今度の事件を総括的に、自分の問題としてとらえ、今後の新しい豊高をみんなでつくって行く上の一助ともなれば、幸いです。
終りに──今度のvol.2も、先号と同様「局員」編です。「局員」の有志出版がたてまえです。発行にあたって資金カンパなど、協力して下さった他の自治会員の方々に深く感謝いたします。
1969.7.26
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6月25日[水]
A.M.10:40
一年生全員と、二年生E・F・H・I・Jのクラスは、この日の同和問題に対する講演を聞くため、講堂に入る(午前の部)。中野校長からの、この講演を行うに至った簡単な経過報告と、この講演の意義について話があり、続いて大阪教育大の盛田先生が壇上に立ち話されようとした。ところが、その時教職員の制止を振り切って演壇に上がった数人(この時点では、誰か全くわからず)が盛田先生よりマイクを奪い、校長に対して“現実に差別が行われている以上、この様な講演を行っても、それは逆に差別を教えるだけである”というような事を言った。その時、一年二年より“帰れ!”と言うヤジが乱れ飛ぶ。しかし、彼らは何の気にする様子は見られず。校長は“同和教育に対する認識の浅い者が豊高には多い以上、講演を行って少しでもその認識を深めていく事は必要である”と言われる。そして、会場の生徒より圧倒的多数の拍手を受ける。更に校長は“府教委には、今回の事件を起こした意味から最高責任者としての責任のため辞表を提出してあるが、府教委は今は責任を果たすべき時であるという解答(ママ)を受け取っている”と言われる。すると、壇上占拠の者が“辞表を提出しただけでは済まぬ。知らなかった事自体が今まで豊高教育の責任である。”というと、校長は“知らなかったら、知らせて考える態度を養う事こそ教育である”と言われる。そして、また多数の拍手を受ける。そして、生徒が立ちあがって、“自分達は同和問題に対して知らないでは済まされぬから、講演を聞いてそれについての認識を深める”という意見を述べる。そして初めのうちはこの様な意見が多かったが、次第に生徒側にも“講演を聞くだけなら意味はない”という意見が聞かれるようになった。そして、演壇上の者が、自分達は同和地区の者だと言って、その実態を話し出す。そして、生徒もそれを聞くようになる。そして、壇上の者が話す実態を聞いていて、生徒より“確かに君達の言うことは我々の知らないことだから大いに参考になるが、君達の感情の混じった話よりも、それ以上の客観的な講演も聞いた方がより正しい認識ができる”という意見が聞かれる。そのうち、壇上の者より“校長は逃げた。教育と同和対策を述べた校長が、この時点で逃げるとは何事か”という者が出た。生徒より“校長は逃げてはいない。校長の意見を聞こう”と云う者があり、多数の拍手を受ける。校長は表(ママ)われ、“論説では、有志を悪くは言っていない。にもかかわらずその表現を誤った事は全く許せない事である。”という。そして壇上の者が、“生徒が今まで同和問題に対して知らなかった事は教師の責任であり、生徒は教師に自己批判を要求する権利がある。教師自身差別を悪く感じていない状態だから、教師・教育者としての資格はない。”と言う。そして、校長にマイクをつきつけ、ハンドスピーカーで校長に対し自己批判を迫ったが、校長はしない。
そのうち一般の先生より一時近くになったから、全員教室に入るように指示があり、大かたの者は入る。が、壇上では盛田先生の呼んだ解放同盟豊中支部の寺本さんを始め数名が、壇上の者と激しく口論。解放同盟は、講演をつぶした者のうち一人のみ同盟員であったので、他の者に対してその行為を激しく追及し、両者に少々の暴力行為が見られた。この時点で解放同盟を名乗って強引に校内へ入って壇上を占拠した者は、一人を除いて解放同盟員でない事がわかり、関西部落研究会という団体であるらしいことがわかる。(直(ママ)、11時30分頃より3年生数名が授業を放棄して講堂へ入った。)
一方本館にいた多くの生徒達は、その詳しい様子を知る術もなかったのである。昼食時の休み時間は、校舎内に騒然とした空気が流れた。やがて「1時45分から5時限目をはじめます。」という放送が流れ生徒は各クラスルームに待機していた。そして3年の一部の人が2・3年の各クラスをまわって「講堂に入るように」と呼びに来た。斯くして午後2時ごろ、残りの2年及び3年の多くは、講堂に入った。一応、部落研と解同と校長とで話し合いが行なわれることになり、講堂には部落研の3人が残って、討論会が始まった。豊高生の一人が司会をし、事情の経過を報告し、討論が行なわれた。部落研の人々のその実態などの話しや、豊高生のいろいろな質問がなされた。講堂に入らなかった生徒は、3時ごろボツボツ帰り始めた。一方それから講堂へ行った者もいた。午後4時20分頃、解放同盟支部長、校長らが解放同盟と部落研との話し合いの報告をするために、講堂に出現。支部長は、今日の部落研の行動について次のように述べた。
「その中に解放同盟の者がいたにもかかわらず、解放同盟との連絡がなされなかったのは遺憾である。」また「解放同盟の方針は真の民主教育の実現、真の民主社会の建設へ、みんなでたたかってゆこうというものである。解放同盟とは、あくまで、民主的かつ組織的な同盟であり、この後には、半世紀にわたる闘いの経験と実証がある。」というものであった。校長は、「解放同盟の人々の話を聞こう。解放同盟の人の話を聞くには、部落研の青年は邪魔である。従って、彼らを追い出そう。自治会員の支持を求める。」と述べた。これに対して激しいヤジが乱れとんだ。解放同盟も自らの立場を再三強調した。ここで3年の一部が解放同盟を批判。マイクを校長と奪い合うなどして、一時騒然となった。やがてマイクをとった校長が「生徒は退陣せよ。」と叫び、約半数弱の生徒は席を立つ。「帰るな。」と叫ぶ者もいた。解放同盟の人、及び校長は退室した。とりあえず、残った者を対象に、部落研の演説が行なわれた。そうして一応5時頃閉会し、後、有志のみ残って討論。午後6時すぎに終了した。
6月26日(木)
昨日の混乱がまだ尾をひいて残っているようなこの日の朝、1時限は学校側から各担任を通じての説明についやされた。学校の見解としては、
(1) 昨日はあくまで盛田講師の講演を第一としていた。(この意味において関西部落研の者は乱入者であり、妨害者である)
(2) あの混乱の中で学校(教師)の指導上の統率が皆無であったことを反省する。
以後クラス討論を行ったクラスもあるが、2時限からは平常通り授業が行なわれた。
午後1時すぎに関西部落研の人2人が校長室に来たが、教師は追い返そうとした。その後彼らは自治会室に向かい、自治会室を糾弾本部として貸すよう、要求。教師は急いで自治会室に鍵をかけた。この要求に対して5限終了時3年の一部は「生徒の手で解答(ママ)するから待ってほしい。」と回答したようだった。3:20 自治会役員会は自治会室貸与に関して全校集会を開くつもりで、全校生に教室待機を放送で伝えた。しかし一方学校側は職員会議決定として「クラブ以外の生徒は裏門などから帰宅」するよう同じく放送で伝達した。このためすぐに帰宅した生徒もいたが、他の生徒は正門前に集まり、関西部落研の人と小グループに分かれて意見を交わした。これは下校時まで続けられたが、その間の討論で明らかにされたことのあらましは──
・豊高の自治会室を糾弾本部とする動機
1. 豊高は問題発生の学校である。そこに本部を置き、豊高をまず糾弾することが先
決だ。
2. 講演会を粉砕し、全生徒に自己批判を迫り、学校を糾弾するなどして発端を作った以上、今後もこの問題について糾弾~追及をつづけ、生徒を指導していくのが当然である。
・本部をおいた後の行動は?
1. 豊陵新聞はじめ、自治会内部の学校の御用機関化したあらゆる部分を徹底的に調査して、学校を糾弾する。
2. と同時にごまかしでない根本的、本質的な同和教育を推進していく。
・この他の主張として
「問題当事校の生徒集団にしては同和教育を根本から追求していくという態度がみられず全く無責任かつ不誠実である。このような生徒の機関である自治会の自主的な運動の理解など、とても信用できるものではない。だからこそ我々が中心となる必要がある。」
その後5:40ごろ下校指令が出され校門が閉められた。生徒の大部分は帰宅したが、少数の者が、部落研と教師の応酬を囲んで討論していた。
一方、この日、放課後4号教室において臨時議会が開かれていたが、その際に役員会より部落研に対する自治会としての回答が提出され、それを承認するかどうかの討議がなされた。その原案は次のとおり
1. 自治会として自己批判すると共に、学校側を糾弾してゆく。
2. 同和問題を自治会活動の一環としてゆく。
3. 土曜日にゼミナールを開く。
4. クラス討論を重ねる。
5. 明日(金)、全校集会を開いて全校生に決意を表明する。
6. 自治会室の管理については、全校生の意志を基として決定する。
しかし、内容上、語句の問題などで審議は難航し、時間はせまっていた。その際、3J市川議員の方から具体的な確約をさけ、焦点を自治会室使用のみにしぼった新たな草案が提出され、6:00前に、議会は市川案を承認、早速自治会室前で教師と応酬していた部落研に対して役員がそれを読みあげた。
「自治会室の使用に関しては全自治会員の意志を整理し、生徒側の意見をまとめ、学校側に報告する。」
発表と同時に解散を宣し、討論中の教師、生徒は四散した。その後、役員会は有志を含めて応接室で以後の対策を考(ママ)じ、一方職員は、7:00ごろようやく職員会議を開いた。両者の審議は11:00ごろまで続けられた模様である。
6月27日(金)
朝のホームルームの時間に、自治会と校長から昨日の経過説明があり、1・2時間目を使って自治会室をあけ渡すか否かについて全校的に討論がなされた。2年は大かた3時間目から授業を始めたが、1・3年は4時間目まで討論を続けたところもあった。しかし結局3年で賛否をとっていないクラスがあったので、全校的な結果はわからなかった。1時15分頃高校反戦らしき(後に役員会から高校反戦は訂正された。)[集団?]が7~8人正門の前に来て、演説を始めた。この時正門にはってあった“部外者立入禁止”のビラを破った関西部落研と豊高OBの2人が警官に逮捕された。学校はあらかじめこの事態を予測していたので正門を閉めて数人の先生方が警戒していた。全自治会員は役員会から教師で待機するようにとの連絡があった。しかし、ただ待機しているだけで、事態の実状を全自治会員は知ることができなかった。1:30に学校長は“今こそ豊高の主体性を守るために授業を始める。差別文書のことは、解放同盟大阪府連では許してくれた。今きているのは、解放同盟と何ら関係のない者である。”と放送した。その後すぐに自治会の方からクラス討論を始めるように連絡があり、今の学校長の放送は連絡が不十分であったと放送された。又、校長も自治会に従うように放送された。H・Rでは彼らを入れるか入れないかについて討論が始められ、役員会は、同和教育に対する方針として、
1) 自治会全体、自治会員はこれに対して自己批判し、学校側の不備を糾弾する。
2) 自治会活動の一環として同和問題にとりくむ。
3) 来週中にゼミを開く
以上のことを放送した。(後に議会から、これは昨日の議会で否決されたものであって、あくまで役員会の方針である。自治会の見解ではないと訂正があった。2:40ごろに自治会から状況説明と正門前の青年達の意見を伝えた。)
「(主旨)高校反戦とはまだ確証できないので訂正する。7・8人来ていて武装はしていない。正門前で演説しているだけである。内容は “我々の仲間が2人国家権力によって捕えられた。君達が国家権力と一緒になって、我々に対して対処してほしくない。何故前に出て我々と話し合ってくれないのか。25日にあやふやな態度で臨まないと言ったのは、単なるポーズであったのか…” 」
そうこうするうちに、テラスの所に出ていた一部の生徒が一団となって正門の所へ話を聞きに行こうとした。しかし、教師が前に立ちはだかった為、生徒は正門の傍へ行くことができなかった。しかし再度正門に近づこうとし、それをとうとう教師は止めることができず、生徒は正門の前に行き、そして座りこみ、正門の内と外とで、しばらくマイクのやりとりが続く。そのうちに、3:30頃から、正門の外の人達との話し合いを校内でやろうというものと、やるべきでないという者と二者対立する。(この頃学校より、下校するようにとの指示があり、一・二年生の多くは下校する。)これからしばらく、この人達を校内に入れるか否かで話し合いが続くが、平行線をたどる。そして、一部生徒によって、通用門の方が開けられたが、外の人達は入ってこようとはしなかった。この時前後して、外の人達と話したい生徒は門をのりこえて門の外に出て行った。内部では相変わらず先程の話し合いが続いた。7時頃、自然解散した。
6月28日(土)
朝、校門前で豊高反戦連合による“授業をボイコットして集会を”といった内容のビラが配布された。この日は朝から平常通り授業が行なわれたが、2時限より3年有志を中心に、授業ボイコット討論集会がよびかけられ、延べ100名余りの生徒が玄関前で討論した。この授業ボイコット討論の理由~目的としては、(1)25日以降の経過説明を、学校側は全校生徒に対して全くしていない。そして今日平然と授業を行なう事によって生徒の意識をそらせ、正常化という名目で事態を収拾しようとしている。(2)この事は今日放課後の全校集会を認めず、即座に下校を指示する学校の態度でも明らかである。(3)この授業ボイコット討論によって学校のこうした態度を批判してゆき、このまま放課後の全校集会につなげて行く。そして当然校長教頭には事態説明を要求してゆく──などが主な所であった。
この討論は4時限終了まで続けられたが、その間教師数名が授業に戻れといいに来たのみであった。又、討論に加わる教師もあった。 12時30分、役員会から放送で6・27についての謝罪~今後の方針として次の3項目があげられた。 (1)豊高教育の内部変革として皆が作りあげていく授業、(2)組織(外的)改革として学校教育路線を監視~批判、(3)講演会・ゼミナールの推進。
この後12時50分、学校から正門を使わずに下校するよう放送があった。授業終了後、玄関前で一部生徒による集会が開かれ「全校集会を開け」との声が多くきかれた。集会も終わりに近づいた3時頃、警官が一個小隊門の外に来て正門前にいた3年生たちの写真をとった。これと前後して集会は自然解散した。後に関西部落研5名が来て、正門前で20~30人程の討論の輪ができた。
6月29日(日)
この日、豊高反戦・関西高校反戦[連絡会議]主催で予定されていた豊高における労学集会は中止された。
6月30日(月)
朝、自治会役員会から〈自治会だより〉〈自治会だより号外〉が配布された。生徒はH・Rに待機。8時40分より学校長より放送があり、その主旨は次の通り。
▶6月9日新聞発行から今までの経過報告
▶経過を通して、反省事項及び問題点
1. 学校側が主体的な指導をすることができなかったのは、周囲の状況をはっきりと把握できなかったためである。
2. 25日~28日にかけて日々の学習に害を与えたことを謝罪する。
3. 関西部落研がしようとしている糾弾は解同とは違うもので、これは25日には分らず、27日の金曜集会が流れた時わかった。
4. 解同から糾弾を受けるのは校長自身であって、生徒自身ではない。
5. 全職員は同和問題にとりくんで行かねばならない。そのため同和対策係を設けた。係の先生は福田、加藤、井関、森川、前田各先生(順不同)
▶本日解同より2名、同豊中支部より2名来て貰い、今までの経過を調査(回収に
至るまでと、25日の混乱の事など)
──これにひき続いて9時10分より役員会から放送があった。
(1) 自治会室貸与に関して全校投票の結果
貸す 39,貸さない 993,棄権 103
(ただし未決定クラス 6クラス)
▶本日部落研の人の意見を書いたビラを配布したが、役員会は決して部落研と行動を共にするものではない。
(2) 本日配布したビラについて各クラスで話しあってほしい。部落研をいれるかいれないかではなく、彼等に対する考えを各々整理しておく、という意味で。また、彼等の申し入れに答える必要もない。
──この後残り時間を利用して本日の自治会だよりを役員がよみあげたが、クラスによっては討論を行った所もあった。9時30分になって学校側から2時限より授業を行なう旨連絡があり、この日はその後平常通りの授業が行なわれた。
7月1日(火)
3年C組有志によるビラ「僕たちは訴える」配布
7月2日(水)
3年J組「クラス討論資料」のビラが配布され、役員会から学校に対して公開質問状が提出された。 放課後、議会が開かれ、6月26日役員会より部落研に対してだされた自治会としての回答6項目が議会で承認されていなかった事について役員会に質問したのち、この6項目回答を議会は否決した。また3年C組・J組では6時間目のH・Rを利用して合同討論を行ない、引き続き6時限終了後も行動で有志集会の場をもった。
7月4日(金)
昼休み1時ごろ関西部落研が校長室におしいり校長に誓約書を認めさせた(※)。この際教職員との間にかなりトラブルがあったもようである。なお放課後の金曜集会は雨天のため中止された。
(※)誓約書 1.期末テスト中止について
2.政治活動禁止撤廃について
3.学外者立入禁止について
上記3点を関係者に話した上 あす7月5日午後3時までに正門前に公示することを確認します。(関係者とは生徒・教職員を含む)
7月5日(土)
朝、3年I組より「3Iは訴える」ビラ、役員会より「自治会だより」が各々配布された。昨日の金曜集会が雨天でながれたため、放課後12時30分より校長が放送された。内容は次のとおり。
〇今回こうした差別事件がおこったのは、真の意味の教育が不徹底であったためだ。
〇職員会議により豊高教育を総点検。7月10日に解放同盟より(御)糾弾をおうけする。〇自治会からの公開質問状に対しては糾弾の席上ではっきりさせ、その後発表する……他。
尚、この直前、部落研と校長との間でマイクの奪い合いがあったもようである。放課後、7月4日の誓約書に対する回答は、ついに公示されず、そのため部落研は学校側に抗議したが、これに対して学校側は彼等を門外に追い出した。そして誓約書に関しては正門の内側より教頭がマイクにより口頭で回答した。回答の内容は、この項目に関しては学校が自主的な立場で解決してゆく、というものであったが、これは前日の職員会議だけで決定されたもので、生徒には全く知らされてはいなかった。この日、反大学部落解放集団の人が正門をはじめ門前で本校生徒とグループ討論を行なっていた。
7月7日(月)=豊高のいちばん長い日
朝8時頃、3年有志による「全校集会・期末テスト中止について」のビラが配布され、少しおくれて関西部落研究会のビラが配布された。その後8時30分から1,2年は平常通り授業にはいったが、3年生は3年有志の働きかけによって、ひき続き期末テスト延期について等のクラス討論を行ないつつあった。
同8時40分─関西部落研が去る7月4日に校長との間にとり交した誓約書についての回答を得ようと校内に這入った。この際校門前で教職員との間にこぜり合いがあり、教職員数名が軽傷をおった。更に彼等は職員室を経て事務室におしかけ、鍵をかけてあった校長室、事務室などのガラス4枚をカサで割るなどして校長に面会を求めた(*)。
(*)この間の“被害”の詳細(8日の校長談による)は、先ず正門前に於て岡本教諭がツ
バをかけられ、東郷、小西教諭はカサで殴られ、依藤教諭は眼のあたりをカサで殴られた。一見弱そうに見える教諭にのみ、彼等は手を出したようである。続いて職員室では椅子を振り上げるなどして女の教諭をおどし、北坂教諭を蹴り、更に石山教頭の首すじをつかんで校長との面会をせまった。事務室前ではそこにいた山本教諭に喰ってかかり、同氏のシャツをひきさいた。…といった所であったらしい。
同じ頃校長は放送室において「部外者はただちに退去して下さい。でなければこちらで適当な処置をとります」との全校放送を行なった。校長が出た直後、部落研によって放送室のガラスが破られた。一方クラス討論を行なっていた3年各クラスに役員会決定という名目で「講堂において期末テスト延期についての全校集会を行なう」との伝達があり、一部のクラスはその指示通り講堂におもむいた。然し実際に集まったのは300名たらずであった。
8時50分─一旦北門から学外へ出た校長は豊中署に警官隊出動を要請。それと相前後して同9時頃警官約10名が学内に導入された。一部の生徒がこれを阻止しようとしたが警官隊は二手に別れ、一方は事務室に、他方は部落研2人を新館と体育館との間に追いこみ、一人を逮捕したが、残りはプール横のへいを乗りこえて学外にのがれた(**)。
(**) この逮捕理由はその時は明らかにされていないが、この日の商業新聞夕刊の報
道によると建造物侵入容疑(毎日)、建造物侵入現行犯(サンケイ、大阪)、不退去罪(朝日)などが挙げられている。
警官隊は逮捕者を南門から連行しようとしたが、3年有志がバリケードを築いてこれを阻止、やむなく北門へ向かった警官隊は保健室横の通路において「カエレ、カエレ」のシュプレヒコールを受け、更にスクラムを組んだ生徒から「学校へ何故はいって来たのか、また逮捕理由は何か」との詰問を受け、隊は一時停滞した。9時30分が既にちかかった。警官隊は何の回答も示さぬままに北門にむかい、待機する生徒約40名のバリケード・スクラムに真向からぶつかる事になる。
一方講堂では全校集会のさ中、警官隊導入の報がもたらされてからは場内騒然となり次々に会場を飛び出す者が見られた。自治会副会長及び総務委員長は急拠、「この集会を警官隊導入抗議集会にしたい」との提案をしたが否決され、ついに10時、役員会は集会解散~退場を宣した。
──北門付近は熱っぽい空気に漲っていた。生徒と警官隊とが殆ど実力に訴えんばかりに対峙し、生徒は抗議の詰問を間断なく投げつける。やがて校外に待機していた警官はこの情勢を判断して同じく待機していた増援隊に連絡し、同50名の警官に支援を要請した。10時前後ただちに新手警官隊は正門を突破、3列縦隊で北門へ向かった。生徒約50名は北門横の女子便所前にすわりこんだが、遂に双方の実力行使に至った。この結果生徒側に負傷者が出、(2-H某君は眼下を裂傷)唐沢外科に2人、警棒等による軽傷者が20人位保健室で治療を受けた。(この中には無抵抗乍ら傷を受けた女子2人を含む) 結局この新手警官隊によって更に部落研の人一人が逮捕され、のち正門から逮捕した2名を連行し、暫く豊高前に留まったのち、数分後ひきあげた。
この混乱のうちにも、1,2年の大部分は1,2限の授業を受けていたが、10時30分─自治会の全校集会が学校側に承認され、3時限以下の授業を削っての集会が10時40分から校庭で行なわれた。初めこそ朝礼の体形に並んでいたが、やがて校長を3年有志がとり囲み、ほとんど校長と3年有志との応酬となった。このやり方に反撥を感じはじめた1,2年生がかなり出はじめた。以下は本日の警官導入に関して生徒と校長との応酬の概略である。
校長「結果的には部落研に暴力的な態度があった。これに対し自主的に対処する事が本来の豊高教育であると考える」
生徒「官憲(警察権力)をいれる事が自主的に対処する事なのか」
校長(強く)「学校の秩序が守られない場合(警官導入も)やむを得ない」
生徒「警官を導入したのち、むしろ秩序が乱れたのではないのか」
校長「或いはそうかも知れないが、諸君は(8時40分頃は)ホームルームで(現場には)いなかった。(から分からないだろうが)下では彼等は門をのりこえてはいり、窓ガラスを破る、カサを先生に突き出す。又職員室では恐れて隅に退かれた女の先生方に椅子を振り上げるなどの暴力ざたに及んでいた。だから警官隊を導入する理由は充分成立していた。」
生徒「警官隊導入は校長自身の判断か」
校長「校長として全くわたしの判断。秩序を乱す者は断固として排除する」
生徒「その警官によって生徒に負傷者が出た事についての責任は如何」
校長「警官隊によって傷つけられた生徒が出た事については全体の秩序を守らなかった生徒がいた結果であって諸君らも自己反省すべきであるが、実態を明確にし、完全に治癒できるよう、学校責任において努力したい。」
生徒「4日、学校側が守らないような誓約書をなぜ書いたのか。また同書には“関係者─生徒教職員─に話した上で云々”とあるにもかかわらず我々自治会ですら何も知らされていないとはどういう事なのか」
校長「この誓約書自体の中に君たちの主体性を持たせ、生かして行きたい。(?) 生徒に了承を得るとか得ないとか言うことがギマンである」
生徒「警官が部落問題に介入する必要があるのかどうか。教師は生徒が危害を加えられた時どうすべきであったのか。又これは自治会として要求するが、校長先生に本日の警官導入について釈明し、かつ自己批判していただきたい」
校長「警官導入については、学校の同和や自治の問題はあくまで豊高自体が考えて行くものであり、確かに部外者には全く関係ない。が本日の情勢において導入自体は止むを得なかったものであり、正当と考える。従って自己批判の必要を認めない」……
一応本日の事についての意見がとだえた所で自治会役員会から明日からの期末テスト延期について討論する事が提案され、賛成意見がのべられた。その後暫く公開質問状に関して意見が出された後各H・Rに戻り、期末テスト延期についてのクラス討論にうつった。小雨の中で立ちづめだった生徒が去ったのち、豊中高校の校庭はさながら泥沼の如く、幾百の足跡にぬかるんで静んだ。
昼からのクラス討論の結果としてクラスごとに延期についての賛否をとり、総務委員会はそれを集計し、4号教室へ報告することになっていた。討論が終り、採決したクラスも、この全校の結果が出される迄残っている事になる。そうして3時45分、自治会で集計がまとまり、4時より全校集会をひらく。との放送があった。全校集会で役員会は自治会としての方針を打ち出し、とりあえず明日からのテストは延期し、明日午前中は討論、その後集会を行う、との発表があり、4時半解散した。期末テスト延期についての全校投票の結果は次の通り。(※)
1年 2年 3年 計
延期 177 247 261 685
中止 83 79 56 218
実施 143 103 105 351
棄権 58 32 36 126
(※) なおこの時の延期決議が、後の(7月12日)テスト中止決議~一部有志テストボ
イコットという事態に発展するわけであるが、ここでこの時点におけるテスト延期理由を明確にしておくと、(1) 第一に今日7日の混乱──このままの状態でテストをやってしまえば今日の事に対する学校責任もウヤムヤに終る。又外部団体の妨害も考えられる。(テストが終れば即夏休み。全くギマン的収拾策動──という主張) (2) 10日に解同から糾弾をうけるようだが、テストの最中にそれを行なう事によって、問題の本質である同和に対する意識が生徒間に失なわれる恐れもある。──というのが主な所であったようである。
この日の夕刊各紙は豊高事件を大々的に取りあげ、そうして豊高の長い一日が終わった。事態は7月10日の糾弾集会へと廻転し、「長い日」を前に踏み出そうとした片足を、豊高は何処にその一歩を踏み下すべきなのかをまだ知らない。
▶あとがき&PR
冊子「豊陵新聞『論説』事件の記録」を皆さんの御支援、御協力のもとに2号を作ることができました。心から感謝いたします。さて我々はこの冊子の別冊として、“ビラ特集”の編集を計画しています。この問題に関して校内で配布されたビラ、ハリ紙等に見られた各々の自由な主張を全て収録する予定です。どうか変わらぬ御支援をお願いいたします。[*編注:「別冊」は未発行]
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【参考資料】 7月7日(月)・警官導入事件に関する新聞報道
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【毎日新聞】[7月7日(夕刊)]
豊中高へ警官隊/外人部隊 校長に面会強要/二人を逮捕
部落問題をめぐり紛争の続いている大阪府立豊中高校(豊中市上野五、中野次男校長)で七日朝“外人部隊”排除のため警官隊を導入、二人が建造物侵入容疑で逮捕された。
同日午前七時半ごろ、同高校正門から外部の学生、生徒[反戦高協系の他高校生]十余人が「立入り禁止」を無視してはいり、同校生徒約二十人とともに「校長に面会させてほしい」と事務室に押しかけた。事務室でカギをかけて応じなかったため、生徒たちはカサで事務室、校長室の窓ガラス四枚を割るなどしてしつこく要求したため、中野校長は午前八時五十分[五十八分]、豊中署に警官隊出動を要請、同九時に約五十名の警官隊が構内にはいり、校庭でスクラムを組んでいた約四十人のうち逃げ遅れた学外者一人を逮捕した。
警官隊はいったん引揚げたが、構内に残っていた私服警官四人が生徒達数十人に取り囲まれたため、救出のため再び出動、さらに一人を逮捕した。
警官隊が引揚げたあと、同高校自治会の生徒たちが警官隊導入について校長らに釈明を求めた。このため三時限目からの授業を中止、同十時四十分から校庭で全校集会を開き約二百人の生徒が校長らを取囲み“大衆団交”形式で追及、集会は午後[零時四十分]まで続き警官隊は正門近くで警戒した。警官隊が構内にはいったのは初めて。
[同高校では学校新聞で差別的な記事があったとして紛争が起こり、先月末から「関西反戦高校生連絡会議」を名乗る外部の学生たちが再三押しかけたため、学外者立入り禁止にしていたが、警官隊が構内にはいったのは初めて。]
なお外部学生[高校生]を阻止しようとした同校教諭数人と、警官隊出動のときスクラムを組んでいた生徒数人が軽いけがをした。
[*編注:文中[ ]内は当該紙の刷り版による記載内容の異同]
校内紙の差別記事でもめる
豊中高校の紛争は学校新聞の「豊陵新聞」六月九日号に「自治会の“有志”とはまるで特殊部落の住人……」という表現があり、問題になったもの。「教育からみた自治活動」という生徒の書いた論文の中の表現だが、同新聞は学校の承認を受けて発行されており、同高校は配布された千五百八十部を回収したが、部落解放同盟豊中支部などは「同和教育に対する基本的姿勢にあやまりがある」と批判、十日に解放同盟大阪府連と豊中高校の間で正式な話合いがある予定だった。
「関西部落研」「反大学部落解放集団」などを名乗る大学生グループがたびたび学校に来て校長との交渉を迫ったり、学校主催の同和教育講演会を妨害するなどの事態が続いていた。七日朝学校に押しかけたのは京都の大学生を中心にした「反大学部落解放集団」らしい。解放同盟大阪府連は「このような集団は解放同盟とは関係がなく、同盟は独自の立場で豊中高校での同和教育推進に当たる」といっている。
[写真]学生の輪の中でつぎつぎに浴びせかけられる追及に答える中野豊中高校校長
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【朝日新聞】[7月7日(夕刊)]
乱入学生に警官隊 豊中高/集会開き授業中止 校内荒らす二人逮捕
豊中市上野五丁目、大阪府立豊中高校(中野次男校長、生徒数千四百四十人)に七日早朝、関西部落研究会を名乗る学生ら十四、五人が乱入、校長室、事務室、放送室などの窓ガラスを割るなどあばれ回った。このため中野校長は豊中署に警官隊の出動を要請、午前九時すぎから約五十人の警官隊が校内にはいり、残っていた部外者ばかり二人を不退去罪の疑いでとらえた。
外部グループは正門で阻止しようとした同校の先生四、五人を突きとばして乱入、先生四人がカサで突かれたりしてけがをした。また逮捕者を連行しようとした警官隊を阻止しようと、同校北門で部外者二、三人とともに豊中高校の生徒約四十人がスクラムを組んだため、警官隊ともみ合い、生徒二、三人も軽いけがをした。
同校自治会はこのあと、学校側の措置を不満として全校集会を開き、中野校長らを追及したため、三時間目以後の授業が中止された。全校集会は午後零時四十分ごろ、ひとまず終った。一部生徒は、校内の民主化を求めて期末試験の延期などを要求しているので、午後から各学級ごとに同問題などについて話合うという。
同校の高校新聞にのった記事をめぐって、差別問題が起きたため、同校では同和教育の講演会を先月二十五日開こうとしたところ「部落解放同盟」を名乗る反戦系の大学生らが押しかけ、講演会が流れた。その後も外部グループがたびたび押しかけ、学校側は部会者の立入りを禁止していた。
[写真]校庭の集会で中野校長(○印)の説明を聞く生徒たち=きょう正午、豊中高校で
[写真]こわされた事務室入口のガラス(きょう0時30分、豊中高校で)
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【読売新聞】[7月7日(夕刊)]
豊中高校へ警官隊/学生10数人が乱入/4教員がけが、2人逮捕
七日午前八時三十分ごろ豊中市上野五、大阪府立豊中高校(中野次男校長、千四百四十一人)に学生十二、三人が正門を飛び越えて押しかけ、中野校長に面会を要求して校長室と事務室へなだれ込んだ。学生はヘルメットや角材は持っていなかったが、カサで事務室、校長室のガラス三枚と放送室のガラス全部をメチャメチャにたたき破った。先生四人がカサで学生ともみあってカサなどで突かれ、手足に軽いけが。中野校長は生徒が騒ぎにまきこまれるのを避けるため部外者の退去を要求するとともに同八時五十分、豊中署に警官隊の出動を要請、九時すぎ警官五十人が校内にはいった。
すでに学生の大部分は逃げたあとだったが、正門前には逃げ遅れた学生三、四人と同調する同校の生徒約四十人がスクラムを組んでおり、警官隊は学生二人を不退去罪、器物破損で逮捕した。同校では二時間目の十時三十分まで授業を行ない、三時間目以後の授業を打ち切った。
学校側の措置を不満とする自治会の生徒たち約五百人が本館前で全校集会を開き中野校長らを追及した。同校は八日から期末試験にはいるためこの日午後の授業はなく自治会は試験延期、警官隊導入の責任問題などについて午後クラス討論することにして零時四十分集会を打ち切った。
[写真]本館前で開かれた全校集会で、説明する中野校長(矢印、午前11時30分)
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【サンケイ新聞】[7月7日(夕刊)]
豊中高 校長室に乱入/ゲバ学生 警官出動で排除
七日午前七時四十分ごろ、大阪・豊中市上野五ノ八〇、府立豊中高校(中野次男校長)に反日共系高校生約二十人がヘルメット姿でおしかけ、教員の制止をふり切って校長室に乱入、窓ガラス数枚をわった。
学校側の要請で豊中署員三十人がかけつけ、まもなく全員を排除し、うち三人を建造物侵入現行犯で逮捕した。
同校ではさる六月中旬に発行された学校新聞の記事をめぐり、学校側と反日共系生徒との間でトラブルが起きていた。
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【大阪新聞】[7月7日(夕刊)]
豊中高へゲバ学生/校長室に乱入、二人逮捕
七日午前七時四十分ごろ、大阪・豊中市上野五ノ八〇、府立豊中高校(中野次男校長、生徒千四百四十人)に反日共系の同校生徒と大学生がまじったおよそ二十人がヘルメット姿でおしかけ教員の制止をふり切って校長室に乱入「校長に会わせろ」と強要しながら窓ガラス三枚を破った。このため高校側が「外人部隊の大学生らは帰って欲しい」と再三断ったが、立ち去らないため豊中署に出動を要請した。
同署ではおよそ五十人の警官を出動させ同校内に残っていた二人を建造物侵入現行犯で逮捕した。
同校ではさる六月二十五日、同和教育の理解を深める講演会を開こうとしたところ、大阪大学部落研究会のメンバーら十四、五人が「講演会を聞いても、部落問題の解決にはならない。校長は自己批判せよ」となだれ込み、講演会は流れた。その後も反日共系の大学生らが校内に入って校長に面会を求めていた。
この日午前十一時半、同校生徒自治会は学校側が警官を導入したことに抗議、授業を放棄して運動場で全校集会を開いた。
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