資料1-02 解題
この『豊陵新聞167号「論説」事件の記録』という表題を持つ冊子形式の原資料には、「vol.1」と「vol.2」の二種があり、いずれも体裁は、B5判・孔版印刷(いわゆるザラ紙へのガリ版刷り)・袋綴じ簡易製本(長辺ホチキス止め)による小冊子である。
本資料はその「vol.1」にあたるものであり、ページ数は20ページ(表紙・前文を含む)。表紙には、一部ごとに青色スタンプでシリアルナンバーが付されているが、発行部数の総数は不明である(推定では300部弱)。
発行日についても、シリアルナンバーと合わせて青色スタンプで「69704」と付されていることから、1969年7月4日には作製されたものとみられる(その後配布)。
冊子冒頭の前文「はしがき」に「…事件は、現在次々と新局面に展開しつつあります」と記されていることからも、同年6月下旬、具体的には25日の「講演会粉砕」事件以後の「“激動”の中にあって」の制作~発刊であったことが知られる。
*
ここで本資料の「発行主体」について特記しておきたい。
表紙には、「vol.1」「vol.2」ともに「豊陵新聞編集局・局員編」と記されているが、これはそれぞれの「はしがき」でもふれられているように、正確には“編集局員有志による自主編集・発行”であることを含意している。
というのも、豊中高校において「豊陵新聞編集局」はもともと“学校組織の一部”として位置づけられており、一般のクラブ活動を行う各「部」とはやや性格が異なる「機関」として運営されていたことが背景にはある(印刷費等に要する原資は、毎年の入学金と共に全校生徒から徴収されていたことなど)。
いわば“学校当局直轄”の運営・管理のもとで局員である生徒が編集活動を行い、学校側が発行責任を負うという組織体制にあって、のちに「紛争」の渦中で問題となる記事内容の“検閲”は(学校責任に属する当然の校閲・修文等の形で)通常ごく自然に行われていたといっていい。
したがって前述の「豊陵新聞編集局・局員編」というクレジットには、正規の「編集局」としての運営体制からは独立して──学校側からの認可や校閲を何ら受けることなく、個々の「局員」有志の自主的な活動により自ら発行責任を負って編集・制作された“自主刊行物”である、という発行主体の強い意図がこめられている。
**
次に、本資料の「記録」を現時点で読むに当たり、この「vol.1」が対象とした時期に関わる問題について留意を促しておきたい。
すでにみたようにこの「vol.1」に記されているのは、一連の「事件」の発端となった豊陵新聞167号の発行(6月9日)から、6月20日の学校側説明と見解発表に至る約10日間の事実経緯である。
しかしながら、この間の経緯の大部分、──具体的には、6月14日朝の突然の新聞回収要請、次いで16日朝礼時の編集局による謝罪と事情説明により「事件」が初めて明るみに出るまでの事態の推移は、もっぱら当時の一般生徒の“目にふれない”ところで、──云い換えれば、当事者である編集局員と学校側(学校長-顧問等)との直接対応を軸に“水面下”で進行してきたというのが実情であった。
このために、あくまでもこの間の当事者として事態を知る「編集局・局員」の視点から(学校側とは一線を画した形で)独自に執筆・構成された「記録」の記述内容は、逆にそのことゆえの限界やある種の偏りを余儀なくされることとなっている。
──より正確には、この1969年6月という“はじまり”の時期に、問題の論説文の筆者として差別言辞の罪責感に打ちのめされ、その後の編集局としての謝罪と新聞回収を自ら発意・実行し、そしてまた本資料の「記録」のほぼ全体を執筆した当時3年生の編者自身(佐々木)が、この間の事態の渦中にあって体験したこと、知り得たことの「手記」的な記述という限界を、決してまぬかれてはいないと云うべきであろう。
さらに云い換えれば、このことはそのまま、この時期の筆者当人が知り得ることのなかった豊高内外の様々な周辺状況については、文中での主観的な推測の域にとどまるか、全く「記録」されることなく看過されるしかなかったことを物語るものでもあろう。
──たとえば、のちに糾弾集会(7月10日)の場で明らかになる豊高当局(校長他)と府教委(大阪府教育委員会)、部落解放同盟等との連絡・協議のプロセス、豊高内の教職員内部や組合(府高教組)レベルでの対応の状況、そして「vol.2」以降の時期に全面化する「関西部落研」など“反日共系”その他「外部」諸勢力の動向などがそれである。
これらを含めた現在の時点からのより包括的な「記録」については、今後それぞれの立場・視点からなされたいくつもの「手記」「証言」等々が積み重ねられていく中で、将来にわたり着実に書き継がれていき、新たにまた語り継がれていくことを期していきたい。(佐々木記)