資料1-01「豊陵新聞」第171号
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【資料1-01】/豊陵新聞編集局/「豊陵新聞」第171号・特集/(1971.7.20) 『豊高闘争の記録 二年前をふり返って』
二年前、豊陵新聞第一六七号論説中に差別言辞をのせるという重大なるミスに端を発した事件は、その後、糾弾集会、期末テストボイコット、ハンスト、バリケード封鎖、校長軟禁、処分、自主卒業式などの一連の事件にいたった。これらの一連の事件を直接体験したのは、もはや現在の三年生のみとなり、一年生、二年生は、これらの事件を体験していないために夢物語のように忘れ去ろうとしている。そしてその時重大な問題として民主教育の確立があげられ、また現在、公開質問状として問題化されている同和教育が始められるきっかけともなった。このような面から見ても、二年前の一連の事件の内容をふまえずに現在の問題を考えることはできないと思う。また何を求めて、何が原因で、この事件が起こったのかを知ることもわれわれにとって必要ではないかと思う。 そこで豊陵新聞編集局としては、今後これらの問題(民主的教育の確立・同和教育)について特集を組んでいく第一段階として正確で客観的な事件の経過をのべるのである。
事件の発端 新聞発行から回収へ
六月九日 発行
各クラスごとに一六七号を配布する。問題の差別語句については教師・生徒・新聞局員・新聞顧問の間ではさしたる反応はみられない。(ただし、新聞局顧問・教頭・一部の先生の間で多少協議があったもようだが、実際的な対策には至っていない)
六月十一日 問題発見
一六七号の論説委員であるS君は、彼の執筆した論説中の──しかしながら“有志”を除く他の大多数の会員にしてみれば、“有志”とはまるで特殊部落の住人としか見えないのかも知れない、──という文章のうち「特殊部落」という語句が、純然たる差別用語であることを彼の両親に指摘される。
六月十二日
この日の豊陵新聞局内会議において、はじめてこの問題について局員に説明される。局員はS君が何の意識もなく差別用語を使用していたこと、局員が新聞発行までの段階で未然にチェックできなかったこと[は]、局員が同和問題への認識を欠いていたことを物語るものであり、潜在的な差別・偏見が内在していたということであるのを確認して反省した。そして早急な具体的措置を局内で討議し、また顧問の先生からの意見もあり結局、①こうした誤りを新聞という公器に掲載したことを謝罪し②今後の新聞部の同和教育への取り組みを謝罪文として全校に配布する。ということを決定、謝罪文の草案はS君が書いてくることになった。
又、この日の放課後、職員会議が開かれ、例の語句については、一部の教員から指摘があったにもかかわらず、議題にはならなかったもようである。
一方帰宅したS君は彼の父の友人である「同和教育にたずさわっている人」と討議し、①新聞局として報道責任をとるのなら、徹底的にやるべきであり②不徹底から起こりうる「差別の再生産」を防止する必要がある。との判断からはじめて、「新聞回収」という考えにいたり、謝罪文の草案も「新聞回収」を前面に出して執筆された。
六月十三日 局で回収決定
局内会議でS君のいう「局員による自主回収」が全員一致で可決された。ところが、顧問のO先生の、①もはやこの問題は新聞局だけで片づけられる問題でなく②豊陵新聞をはじめ学校活動の最終の責任者である、校長・教頭の判断をもとめるべきである。との提案があり、そのために、局員、O先生、校長、教頭の間で話し合いがなされた。
この席上で、謝罪文の同和教育等について協議され、又、局の謝罪と学校当局の見解発表とは全く次元が違うものであることが、確認された。
六月十四日
この日の朝、校長は局員に対し、①今回の事件はすでに部落解放同盟に知れており解同(以下部落解放同盟をこう略す)から糾弾があった場合学校として何らかの対処ができるように取りはからっておく必要があり②その意味で今回の事件は何よりも学校の問題であることを強調し、そしてさらに①その意味で新聞部の謝罪文は無意味であり②学校自らの責任において担任を通じて回収し③全校生徒に事情を説明し④学校として教育の立場から謝罪する、などと述べた。
しかし新聞部は①もし、そのとおりにすると新聞部の主体性というものは失なわれるし②また新聞の報道責任と学校責任とは性格を異にするものである、と反論した。
結局十六日の予定として、朝礼時に校長が学校側(正確には校長個人)の見解(謝罪、今後の方針等)をのべる前に新聞部が事情説明、謝罪、回収のアピールを発表することにおちついた。
六月十六日 謝罪文・アピール
この日の朝、豊中高校反戦連合の名による「新聞部及び学校当局を糾弾する」ビラが配布された。学校側は校長の見解発表をとりやめたので(理由不明)新聞部のS君が謝罪文を読んだだけにとどまった。
『豊陵新聞一六七号自主回収についてのアピール』(一二日─木─執筆 謝罪文草稿)
六月一七日 新聞回収
この日から回収がはじまり、二十一日までに、発行部数一五五〇部のうち約一〇〇〇部が回収された。なくした人は、紛失した、という内容の紙を学校に提出した。
六月一八日
自治会から部落問題に関する資料配布
六月一九日
自治会役員会は自治会だよりを発行し、今後の自治会のとりくみとして、①二十日の金曜集会において、校長より事件の経過説明②“橋のない川”の上映③同和問題に関する講演会開催等を発表した。また、職員会議において、今後の同和教育に関する見解が討議された。
六月二十日 学校側見解発表
この日の金曜集会において、一六七号事件及び今後の同和教育に関する、以下のような学校側見解が表明された。
要約
一、基本的人権をうばい取ってしまう“差別”は許せない。
二、豊陵新聞紙上に、差別に通ずるおそれある論説は絶対に掲載されてはなら
ない
三、この問題は新聞が回収されたからといって、すますことはできない。
四、学校はこのような過失が生じた原因を究明していきたい。
五、再びこのような過失をくり返さないよう同和地区に対する理由のない差別
を絶対に許さない心情をつちかいたい。
その方策として
一、全校生徒に、差別に対する充分な認識を持ってもらうために、学識経験者
による講演会を持つ。
二、その講師を中心としてセミナーを持ってさらに理解を深めてもらう。
三、教職員は研修会を持って同和教育に対する指導体制を確立する。
六月二十五日
同和問題に関する講演会が行われる。一年生全員と二年生の一部は講演を聞くため(午前の部)講堂に入る。大阪教育大学の盛田先生が講壇に立たれた時、教職員の制止をふり切って演壇に上がった数人がいた。彼らは盛田氏よりマイクを奪い、校長に対して「現実に差別が行われている以上、このような講演をすることは差別を教えるだけである。」と言う。校長は、「同和教育に対する認識の浅い者が豊高には多い以上、講演を行い少しでもその認識を深めることが必要である。」と言われる。生徒側にも、「自分達は同和問題に対しては知らないではすまされないから、講演を聞いて、これについての認識を深めたい。」という意見が多かったが、壇上の者が実態を話し出すと、それを聞くようになる。盛田氏の呼んだ解放同盟の寺元さん達数人が壇上の者とはげしく口論し、壇上の者が関西部落研究会という団体であることがわかる。午後二時ころ、残りの二年生と三年生の多くが講堂に入ったが、部落研の三人が残っており、討論会が始まった。
六月二十六日
学校の見解として、◎昨日はあくまで盛田氏の講演が第一であった。◎あの混乱中で学校の指導上の統率がなかったことを反省する、という説明があった。放課後、関西部落研の二人が来て自治会室を糾弾本部として貸すよう要求した。議会は「自治会室の使用に関しては全自治会員の意志を整理し、生徒側の意見をまとめ、学校側に報告する。」と答えた。
六月二十八日
役員会から放送で、今後の方針が発表された。その内容は①授業を皆で作りあげてゆくようにする。②学校の教育方法を監視、批判してゆく。③討論会を多くしてゆく。というものであった。
六月三十日
自治会室貸与に関して全校投票をする。結果は、貸す三九、貸さない九九三、棄権一〇三、未決定六クラスであった。
七月二日 公開質問状出される
役員会より学校に対して、公開質問状が出された。内容は次の十二の項目である。 (一)「豊高教育が存在する限り当然続かねばならない。」と先生もいわれた「同和
教育」を、今回の差別事件がおこるまで事実上放置されたのはなぜですか。
(二)「差別文書」を出した責任はどうなされるのですか。
(三)「差別文書」を出した機関つまり豊陵新聞には、検閲が行われているそうです
がその現状と検閲する根拠を教えて下さい。
(四)「関西部落研」に対する学校の態度はどうなのですか。
(五)「同和教育」「差別」を考えるのにどうして「解放同盟」だけに連絡を取られ
たのですか。
(六)これからの「同和教育」に対する「学校の基本方針」を教えて下さい。
(七)「基本方針」に基づく具体的施策を言って下さい。
(八)生徒が外部の人と接触しようとした時、学校が物理的な力で排除したのはどう
してですか。
(九)学校方針に反対の三年有志をどうあつかうのですか。
(十)校長先生は何をされたのですか。
(十一)各クラス担任の先生の情況説明に差ができたのはどうしてなのか。
(十二)警察待機に関してはどう考えられるのですか。
七月四日
午後一時頃、関西部落研十数名が校長室に押し入り、誓約書を認めさせた。その内容は、「①期末テストについて ②政治活動禁止撤廃について ③学外者立入禁止について、の三点を関係者に話したうえ、七月五日までに正門前に公示する。」というものであった。
七月五日
誓約書の回答を学校側が出した。それは「この項目に関しては学校が自主的な立場で解決してゆく」というものであったが、生徒には何も知らされていなかった。
七月七日 豊高の一番長い日
朝八時四十分頃、関西部落研が誓約書について生徒の意見も含めたはっきりした回答を得ようと、校内に入った。この際、正門前で教職員との間にこぜり合いがあり、教職員数名が軽傷を負う。さらに、彼らは職員室を経て、事務室、校長室などのガラス四枚を割るなどして、校長に面会を求めた。
一たん学校から外に出た校長は豊中署に警官隊出動を要請し、警官約十名が校内に入った。警官隊は一名を逮捕したが、残りは逃げた。警官隊は逮捕者を連行しようとしたが、三年有志がバリケードを築き、阻止したので真っ向からぶつかることになる。生徒と警官隊とが、ほとんど実力に訴えんばかりに対決し、生徒は抗議の詰問を投げつける。やがて警官隊は五十名の警官に支援を要請する。新手警官隊は、正門を突破、生徒約五十名はすわりこんだが、ついに相互の実力行使に至る。この結果、生徒側に負傷者が出、さらに部落研の人が一人、逮捕される。
そののち、全校集会があり、この日の事について意見がいろいろ出た。自治会役員から、翌日からの期末テスト延期について討論することが提案された。その後、各H・Rにもどり、それについてのクラス討論に移った。結果は次の通りで、延期となった。
一年 二年 三年 計
延期 177 247 261 685
中止 83 79 56 218
実施 143 103 105 351
棄権 58 32 36 126
糾弾集会からテストボイコットへ
七月十日 糾弾集会
部落解放同盟の、学校に対する糾弾集会が行なわれた。講堂に入場したのは教職員一同、自治会役員、学校から許可をもらった生徒で、残りの聞きたい者は、各H・Rのマイクを通じてこれを聞いた。解同側は終始かなり強い口調で教職員の反省を求め、誤りを指摘していった。その途中役員の一部の者は解同のやり方を不満として退場した。終了は六時頃であった。
この間追求(ママ)された主な点、及び総括としては、
▽同和教育に関して、府教委通達を握りつぶした形の校長の対処
▽学校教育における組合活動の不徹底
▽“学校の主人公”たる生徒の真の意見の剥奪
▽部落差別に対する怒りが豊高差別教育に向けられた
▽民主教育の欺瞞性
▽真の自由とは何かを考えて、民主的な人間を育て、万人が、平等な社会を建設す
るような教育をのぞむ
去る七月二日、役員会から出された公開質問状に対して、回答がこの日の朝、学校側から発表があった。しかし、この回答は不充分なもので、十二の項目すべてに、学校側は答えていない。以下はその回答である。(以下、番号は質問状の項目番号である。)
(一)従来の惰性の上に豊高教育があり、学校自身の日々の創造的教育への点検と反
省を欠いていた点にある。
(二)我々差別者としての自己の告発の上に立って、その責任を自覚すれば、自らが
実践的に同和教育を根幹として民主教育を推進していく外はない。
(三)検閲という語は問答無用式に抑圧し、自発自主活動へ新聞活動を止めるという
意味と考えられる、しかしそのようなことはしていない。学校社会という立場に立って全部員の意見が充分に反映されるよう、適当な助言と指導が必要であると考えている。
(六)◎講演会◎ゼミナール◎教師の研修◎教科活動内で取り組む、などの同和問題
に対する職員研修委員会を通じて計画実施する。
(七)「学校教育方針の樹立」
各分掌の検討
◎生活指導、生徒心得の点検
◎自治会、新聞部の位置づけ
◎教務、補習、実力テスト、カリキュラム、席次、欠点の問題などの検討
◎各教科の問題の検討
七月十二日 自治会試験中止決定
学校の十四日試験断行の態度は変わらず、教師は討論において同じ事をくり返した。一方生徒の内部では試験中止・断行との意見に分れたが、主として中止派が断行派を説得するような形であった。主な中止理由は、◎学校側は民主教育を言明したにもかかわらず、従来の差別教育の延長であるテストを強行しようとする。◎学校は“混乱収拾”という以外、試験断行の教育的意味を明確にせず、それは単なる収拾策動としか思えない。◎生徒各々が分裂し、討論が不足している現在、当初問われた問題は何ら解決されておらず、このまま夏休みに入ると“考える”姿勢がくずれたまま終る。等々……である。
さて十二時からのクラス討論を経て、二時に全校投票が行なわれ、ただちに集計がなされた。
一年 二年 三年 計
中止 182 215 278 674
断行 192 167 105 464
棄権 31 35 43 109
(投票 1247)
この全校投票の結果が発表される前に臨時議会が召集され、次の事項が確認された。「今日の決定に関しては、自治会員は(役員会の指示に従って)統一行動を取る」
全校投票を集計後、その結果をもとに役員会は学校側と最終的な折衝を続けたが、結局もの分れに終わり、五時五〇分の正式発表に及んだ。
自治会発表─「全校投票で試験中止を決定した限り全自治会員はこれに従い、十四日からは同和問題について主体的に考えよう。」
次いで学校側が職員会議の決定に基づく見解を発表した。その主旨は、◎今迄の教育に欠点はあったが全面的に否定はしない。正しい面を評価するためにも試験を実施する。◎試験の内容、形式は従来とは変わったものになる。◎残された問題は試験終了後、教師と生徒とで協議する。だから試験を豊高の新しい第一歩とする。
というものである。この学校見解によってもなお、テスト中止の声は強く、全校投票を無視した形の学校、教師に対して不信の声も大きかった。
七月十四日 学校側試験断行
この日、全豊高生は自主性を問われることになった。期末試験をボイコットすべきだと思った者は親や先生の圧力に耐えぬかねばならない。試験を受けるべきだと思った者は、自治会決定を否定しなければならない。又どちらにもはっきりとした確信を持っていない生徒は、もっと悩んだ。PTAは十三日各家庭に試験を受けさせるように電話をかけた。結局この日の試験をボイコットした者は、約五四〇名で九時に講堂に入り、今後のことについて討論した。この後、クラス別討議に入ったが、試験を受けようとボイコットしていようと関係なく豊高の諸問題を考えようという事になった。そして試験終了後各クラスで今後の方針について討論会がもたれた。
検討し直したという試験内容はヒントがついていたり、“英語について書け”などのようなものが加っていたが本質的には、たいして変わっていないという声も多かった。
七月十五日
試験は予定通り行なわれ、ボイコット生は昨日の半数程になり講堂で、五日間試験をしている間に何をするかということが討議されたが、あまり意見も出なかった。
試験終了後、二回に分けて同和問題に関する“人間みな兄弟”が上映された。
七月十六日
自治会より学校への期末テスト中止要求のビラが出される。ボイコット生は、昨日よりも又少し減り、その一部が運動場中央で座り込みをよびかけ、約三〇名が座り込んで話し合った。
十一時から講堂で、約一五〇名の生徒と、約十名の教師によるグループゼミが行なわれた。なかなか熱心な討論が行われたが、教師の都合で十二時三〇分に中止された。
この後も十九日まで連日約一五〇名のボイコット生があったが、実質的な討論はされなかった。座り込みは職員室前に移ったが、全く無視された。
七月十九日 終業式
試験最終日で終業式でもあるこの日は、終業式を大衆団交に、又はボイコットせよ、などのビラが配られた。
試験終了後、学校から“豊陵新聞一六七号における差別記事に端を発した一連の事件に関する謝罪と反省”というプリントが配られ、校長が放送で読み上げた。その後校庭で質問会が持たれたが、少数者の追求(ママ)に終わった。 文部省見解からハンスト突入へ
役員会二つに分裂
長い夏休みを経て新学期に入り、豊高には何もなかったかのような平和な毎日が続いた。だが、一部の者は、府教委通達に反対する運動をはじめようとしていた。府教委通達とは六八年(この時点では昨年)の九月十八日に大阪府教育委員会から府下の各高校に出されたものであり、六八年秋に全国で初めて新左翼高校生が市岡高校を占拠した事件に対して、高校生の政治活動を制限するためのものである。
この頃、豊高の役員会は二つに分裂し、六月、七月のような積極的な活動を行なっていなかった。その原因としては、一部役員がその立場をも省りみず、糾弾集会を途中で退場し、その後のテストボイコット突入時にも登校しなかったという事があげられる。そのためにテストボイコット闘争をまとめられなくなり、自治会員の意識がばらばらになってしまったのではないかという論争が役員の間でなされていた。また、責任をとって役員会を解散し、新しい組織をつくりなおそうという提案もなされていた。そして結局は、文化祭や体育祭という自治会行事に力を注いで過去のことを清算しようとした役員(彼らは民主青年同盟─民青─として活動を始めていた)と、その他の役員(彼らは全学闘争委員会─全闘委─として活動を始めていた)とに分裂していたのである。
九月十八日
一年前に府教委通達が出された日。府教委通達に反対し、高校生の政治活動の自由等をスローガンにして闘ってきた全闘委二十数名が、朝から授業ボイコットを呼びかけた。玄関前と校舎屋上は占拠され、集会と学内デモが行われた。校舎の屋上からはスローガンを書いたたれ幕がおろされ、ポールには赤旗があげられた。だが、学校全体としては何も起こらず、一般生徒の授業ボイコットはなかった。なお、この日は東淀川高校でバリケード封鎖が行なわれるなどあちこちで府教委通達反対の運動があった。
十月三十一日 文部省見解出る
文部省から、高校生の政治活動に対する見解が出された。
また、バリケード封鎖を続けていた住吉高校の全闘委が、二月に校長会が秘密文書として各校の校長に出した書類を発見した。その書類はアンケート形式のもので、学内の新左翼系の学生の人数や、自治会活動の内容についての問いのほか、活動家生徒を一般生徒から浮きあがらせる方法等も書かれていた。
十一月十日 学校側全闘委の大衆団交要求拒否
全闘委は校長に、三項目に関する大衆団交を開くことを申し入れた。三項目の内容は、◎十月三日の文部省見解及び九月十八日の府教委通達の拒否声明。◎生徒心得二十二項撤廃。◎校長会の思想調査の実態を明らかにし、関係教師の自己批判を求める、というものである。大衆団交を開くかどうかの回答は職員室前に掲示することが確認された。
数日後、学校側から大衆団交は開かないという回答が職員室前に掲示された。その理由として、学校は生徒の代表機関としての自治会だけを認めるものであり、一部生徒の要求は自治会を通して出すようにというものであった。これに対して全闘委等生徒から次のような批判が出た。
『我々はこの理由にもならない理由で、団交を拒否したことによって一層明らかに学校の欺瞞性がバクロされたと思っている。なぜなら、あの七月において期末テスト中止の自治会決定を無視し、圧倒的多数の学友諸君の反対にもかかわらず、強引にテストを強行した学校当局がここで問題の解決に自治会を持ち出すことは、如何にも学校のいいかげんさを示すものである。』
『現在のように形骸化した自治会は生徒の意志を代表するものではない。』(ビラより)
十一月十七日 ハンスト突入
午後十二時半、応接室前において三年生六人、二年生二人が、四項目をかかげてハンガーストライキにはいった。
《四項目要求》
一、府教委通達拒否声明
二、文部省見解反対声明
三、生徒心得二十二項即時撤廃
四、思想調査に関係した教職員は自己批判せよ
彼らとしてはこのハンストにより四項目要求に対する学校の返答を求めるとともに、全校的な問題提起を行なおうとしていたようである。これに対し学校は何の返答もしなかった。午後五時、父兄が来校し、ハンストをやめるよう説得しはじめたが、ハンストはそのまま続行、午前〇時になって、四号教室において校長と彼らとの間に話し合いが始められた。その後父兄が急激な冷えこみに生徒の健康を案じ、学校に適当な形で今すぐ解答(ママ)することを依頼した。これについての学校からの具体的な返答はなかったが、生徒の健康に関しては十八日午後一時、三時の二回にわたり校医を呼んだ。この時、一人が血圧異常のために帰宅している。
十一月十八日
担任、父兄、校長等の徹夜の説得にもかかわらずハンストは続けられた。一方、朝のH・Rでこの事を知らされた生徒のうち有志数人が、昼から玄関前において校長を囲んで団交を行い、四項目についての考えを聞いた。その内容の一部を掲げておく。
[*編注:内容についての記載なし]
同じころ物理教室において、臨時議会が開かれ、学校に対して四項目に一応の見解を出すよう要求することを可決した。
十一月十九日
ハンストは第二班に移り、なお続行される。夜になって父兄が説得しはじめ、一人が帰宅した。議会では、十八日の決定は取りけされたが、新しい結論は出されなかった。
十一月二十日
ハンストは第二班から第三班に移り、応接室にも入りこんで続けていた。午後一時、会長─河内君が彼らに対し、誓約書を書いたが全生徒には発表されていない。
《誓約書》
十一月十七日よりハンスト(四項目要求─しかし私は一と三の二項目以外は正当な要求とは思わない。)三─B団交による問題提起に対して会長たる私は、具体的行動を全自治会員に提起できなかったことを自己批判し、役員会会長辞任を誓約します。 昭和四十四年十一月二十日 河内晴彦
十一月二十二日 ハンスト中止
一週間ストを続けた彼らは、彼らの犠牲にしかならず、全校的な問題提起とはならなかったため、この日ハンストを中止した。
ここにハンスト中に出されたビラの内容を紹介することにする。これはハンストを行っている生徒の文章である。
『我々は十一月十七日四項目要求を掲げ四八時間ハンストに突入した。学校権力は我々の正当なる要求に対し、全くハレンチにもハンスト参加者の各担任教師は両親を会社先まで電話し、強制的に学校に呼びつけて、あたかも学校当局は第三者であるかのようにふるまい、学校当局は無自覚的な親に対し何がなんでも理屈なしにハンストをやめさせることを強要した。我々はそのような学校当局の卑劣きわまる態度に対し、抗議し、そのハンスト妨害工作を断固たる態度で粉砕した。
我々はここに強固な連帯でもっていかなる妨害工作をも粉砕することを決意し、全学友諸君の全面的支援とハンスト参加を訴える。』
全闘委豊高中枢をバリ封鎖
十二月十日 全闘委バリ封鎖
午前六時ごろ、ヘルメット、ゲバ棒等で武装した全闘委約二十名が校長室、職員室、事務室等校舎一階半分を机、イス、ロッカー等で封鎖した。そして、全闘委は四項目要求と十二日から始まる期末試験粉砕を登校してきた一般生徒に呼びかけた。昼ごろから、全闘委と封鎖に同調する生徒約五十名によって二階全部が封鎖された。その間、一年生を中心とした封鎖に反対する生徒と全闘委との間でいざこざがあった。午後四時すぎより玄関前で全闘委と校長を中心とする教師達の間で団交が始まる。この団交は生徒数百人の見まもる中で行なわれ、六月以来の学校側の責任が追求(ママ)された。そして、ハンストの時より問題化されてきた思想調査の書類が全闘委側から全部公表された。午後七時ごろ団交は双方対立したまま終り、一般生徒は下校した。午後九時すぎより教師は実力で封鎖解除をはかったが、全闘委の激しい抵抗[で]封鎖解除は失敗した。
『あの六・七月闘争で、学校側は授業、考査等を改革すると言明した。欠点、席次、実力考査等の廃止などを言ったが、現実には、これらのものは、実質的に存在しているし、なんら改革などなされていないのである。』(全闘委ビラより一部抜粋)
十二月十一日
朝から全く授業は行なわれず、各クラスで午前中討論がなされた。一方、十時半ごろ一、二年生の一部によって封鎖解除された。昼すぎになって、大阪大学に常駐していた機動隊数人が学校付近に姿を見せたりしたので、生徒の間で警官導入があるのではないかということがささやかれたりした。午後三時ごろ、教師達がバリケードの前に集まり、校長の退去命令とともに封鎖解除をはかった。しかし、教師がバリケードに近づくと、ベ平連その他の有志がバリケードのまわりに集まり「教師かえれ」のシュプレヒコールがおこり激しい抵抗が続いた。そのため学校側は封鎖解除をあきらめた。その後6時すぎに、学校側より「本日は、全闘委が封鎖を拡大しない限り、解除はしないし、警官導入はしない。」という放送があり、警官導入を気づかっていた生徒は下校しはじめた。
十二月十二日 封鎖を自主解除
朝からテストが行われたが、封鎖は続けられ、ボイコットした生徒もいた。しかしテスト終了後、十時四十五分頃から、全闘委が集会を開き、封鎖を自主解除することを説明し、約八十名が通達粉砕、闘争勝利を叫けんで校内デモを行なった。そして続いて十一時頃から全闘委による封鎖の自主解除が行なわれた。
役員選挙
十一月十八日に自治会選挙が告示され、立候補者は会長候補二名、副会長候補三名が出ることになった。
この選挙において、生徒心得審議会の有効性があるのかないのかということを中心に、これからの自治会のありかたをめぐって候補者の間で論争された。候補者間のあきらかな主張の対立が見られる中で生徒はどちらの主張をうけいれるのかという、重要な選択を強いられたといえよう。
十二月の選挙投票の結果は異常な票のわかれかたをした。会長は五三四対三二四棄権四六四で西村新君(一年)が、副会長は五一六対二〇二対一九五棄権四〇九投票拒否四〇票(この投票拒否はクラス決議でそうなった)で山本重雄君(二年)が当選した。
その後生徒の中から、その膨大な棄権票が出たということから、選挙のやりなおしをせよという異議申し立てがでされたりした。そのような中で、選挙管理委員会のミスが発見された。そのミスとは、選管規定にある選管は定足数三分の二の出席をもって選管を開くということに気づかないまま選挙が行なわれていたという事実である。当然その選挙自体が無効になるはずであったが、選管で論議した結果、役員会成立が大幅に遅れてしまうという理由で選挙は有効とし、一月二十八日役員会が成立した。そのような選管のあいまいな態度に反対して、一部の生徒から選管に対する批判が出た。
校長軟禁─大量処分
一月十二日 T革評団交要求
昼休みに「T革評」と称する者十三名が校長室で校長に十項目に関する団交を要求した。校長は十三日の朝までに返答する事を約束した。
一月十三日 学校側拒否
朝、職員室前に団交を拒否する内容の文書が学校側によって貼り出された。
一月十四日 団交、校長軟禁
午前十時四十五分、全闘委、T革評(この頃出来た豊高の有志団体)が、校長室に向かったが校長はいなかった。だが、彼らは校長を捜し出し、団交要求を行なった。校長は急用を言い張り団交に応ぜず、結果、生徒がピケを張り、小ぜりあいとなる。十一時頃教師達が集まってきてスクラムをときにかかる。この時点において、相方に暴力的行為が認められる。やがて校長は団交要求をのみ、教職員数十名生徒二十人前後[…が在室するも、]この時点においては生徒側に占拠の意志はなかったらしい。
午前十一時十五分団交に入る。しかし校長は殆ど答えられず、生徒側はハンドマイクを使いはじめる。
十一時二十分頃、校長に会う約束があったという名目で、PTA会長が現われる。
午後一時頃団交軌道にのるが、また校長は沈黙をはじめ、生徒激奮、勝間教諭と言い争い、結果、生徒が教師を追い出し、校長室は事実上占拠され、校長は軟禁状態となる。
午後二時、再び団交開始。やがて校長診察申し入れがあった。三時頃、校医が注射をすすめるも校長拒否。この間、何度も岸教諭が出入りし、団交は進展しなかった。やがて、上宮医師により、静脈注射が行なわれた。だが、団交が進展しないので、十項目要求の署名を求めるも校長は応じなかった。
五時、教師達より退去命令があり、少々口論。五時半頃、救急車が現われ、教師が校長室のドアを突破って入ってきたため、生徒は全員退室。
その夜のうちに職員会議で生徒九名に対して、登校禁止の仮処分が決定された。
一月十五日 処分
九名の生徒に対し、仮処分が通告された。
その日から処分撤回闘争が二、三年有志によってくりひろげられ立看板や、ビラ配布などが連日のように行なわれる中で、十八日、本処分がだされ八名が無期停学、十三名に訓戒がいいわたされた。そして一月三十日には、二学年共闘会議(二年有志がつくっていたグループのこと)主催で校内デモが行なわれ、二〇名ほどが参加した。しかし、一般生徒の反応はきわめて少なく平穏のうちに、日はすぎていった。一方、被処分者も次々に反省書を学校に提出して、登校が許可され、二月初めには被処分者は全員処分がとけた。
卒業式
二月二十四日
この日卒業式が行なわれた。九時五十五分、講堂で卒業式開始。少しヤジがとんだほかは平穏で、三十分ほどで卒業式は終わった。
さて、この日、校庭でもう一つの自主卒業式を有志が開いていたのである。参加者は、卒業生、在校生、他校生とあわせて五~六十人。ここでは自主卒業式がなぜ開かれねばならなかったのか、今の教育とはどんなものなのか、などの話を次々と卒業生達が行なった。また、講堂での卒業式を済ました人も、時々、自主卒業式に加わる。それから、書き忘れてならないのは、この日二つのセクトが、その卒業式に加わっていて、しばしばセクト争いがおこりそうになっていた事である。
しかし、とにかくも、自主卒業式は、行なわれていた。そのうち、みぞれが降りだしたため、自主卒業式場は、九号教室に移った。(今は、とりこわされてしまったが、その頃の豊高で、一番広い教室である。)そしてそこでは、豊中高校女性解放委員会の人などが、演説をしていた。しかし、二つのセクトは、ついに、争いをはじめ(それは二度起こったのだが)争いをとめに入った卒業生の一人が、頭に軽いけがをした。
そして十二時すぎ、自主卒業式の最後に市街デモが行なわれ、他校生など含めて、五~六十人がデモに参加した。それらすべてが終わったのは、一時すぎだった。
後日、生活指導より「二月二十四日に、卒業生が頭にけがをしたが、それは、他校生が入ってきたからであるから、今後、学校の許可なしに学校に立入ることを禁ずる。」ということが、生徒に伝えられた。
さて、二月二十四日の事は、上べだけ簡単におってみたのだが一番大切な点は、なぜ自主卒業式が行なわれたか、という事である。これは、自主卒業式の計画者が出したビラに、その説明があるので、それを抜粋しておくことにする。
『我々の歩んできた三年間をふりかえってみた時、そこにあるのはおよそ真の教育とはかけ離れたまぎれもない受験体制の姿であろう。そして現在に至るまで歪んだ教育体制すなわち差別と抑圧の受験体制のもとで、どれ程の不満が、苦悩が、あがきが、生まれそうしてその度におしつぶされていったろう。そして、まさに、そうした教育の矛盾に向けてつきつけられた有志の主体的変革=解放への志向すら当局のあくなき管理者的対応によって、どれだけの黙殺そして圧殺に抑えられてきただろう。まさしく我々の歩んできた三年間は人間が人間でなくなっていく絶えざる不安の連続でなくて、何だろう! そうして今、当局は欺瞞に満ちた一生一代の名演を演じようとしている。卒業式典─それはまさに我々が歩んできた差別=選別の受験体制の集約点として存在するのだ。言い換えるならば、点数のみによって「エリート」労働力そして「劣等生」労働力の別に巧みにふりわけ、それぞれ、「分」をあらわすレッテルをはり大学受験そして入社試験というせり市を通し、資本に向けて労働力商品を供出してゆくそのような一つのセレモニーとして卒業式は位置づけられているのである。よって、現在自治会を利用した当局の懐柔策としてある「自治会の自主管理による卒業式」等の改革案は卒業式の本質を歪曲隠蔽する以外の何ものでもない。我々は「自主卒」「在校生との交流」という美辞麗句にまどわされ、酔いしれてはいけない。卒業式とは三年間の歪んだ受験体制を美化し、全ての矛盾をオブラートに包む一つのイデオロギー統制の場として存在するのだ。そして、イデオロギー統制と労働力商品の完成とが表裏一体を成して卒業式の本質を形成しているのである。しかしながら、昨年各校で激化した卒業式造反は「自主答辞」といえども「形式」を否定し得ず、それらが、無展望かつ単発ショックウップン晴らし─の域をのりこえる事がなかった故に、真の造反たり得なかったのである。
─単なる物理的粉砕に終わらずに、それを如何にして発展させのり越えるか─
今月、我々に提起された克服すべき課題であろう。』
(二月二十四日、デモ実行委のビラより)