アクティブ・ラーニングの失敗の話
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自分の経験から(自分のLINEのログより転記)
「学び」の本質を、学校教育という限定で話し合うタイプの授業
学びの共同体論の資料を読んで、話し合う時間で、読んでいない人がいるので(前日に配られた資料なのでそれも仕方がない)、段落ごとに読んでいって、わからないところを聞いていったが、そもそも誰も喋ろうとしないので、こっちから解説をするんだけど、なんの返事もなくて困る(こういうときいま振り返ってみればScrapboxがあれば、少しずつでもアウトプットができたに違いない)。
とにかく一個ずつ理解を点検していったのに、結局自分が説明することに終始して、他のメンバーは誰もしゃべらない。
蓮實重彦は、言語そのものに宿っている「排除と選別の血なまぐささ」を指摘した。それは言葉が、あることを喋っているときには別のことを喋れない、ある人が喋っているときは別の人は喋れない、といった暴力性を孕んでいるから
しまいには、他のメンバーは発表さえできればいいので、文章を整理するだけでよかったとか、僕がいない方がよかったとか言い出して、面倒だなあと思った(はやくそういうことは言ってほしかったし、別に説明したいわけではない。喋るよりも、よっぽど書きながらのほうが思考が整理されるタイプの人間なので。それに検討したい考えは、論文や本を読んで検証したいけど、そういう時間がとれるのも有限だから、わざわざ他人のために(他人が望んでいないのに)喋る時間なんて必要なかったのに)。
対話にすらならなかった。誰も何もしゃべらずに終わった。
結論をいえば、準備の時間が足りな過ぎたこと。メンバーのレベルのばらつき。数学教員をめざすひとが全員だったので、コミュ力が低い。誰もしゃべらないし、こっちからアクティブラーニングの技法をつかって、働きかけをしてもそれに誰ものらないという非協力的態度。結果的に僕が考えたことを話したけど、誰も返答をしなかった。僕だって、工夫はいくつもしたけど、さすがに時間が足りない。精読に切り替えて各個人に理解を話させようとしたけど、拒否された。etc
僕の興味は学術的に新規性のある議論がしたい、もしくはメンバー全員にとって実りのある話をしたいということであったが、それを達成するためには僕は何もしゃべらず、頭が悪いふりをするのがいいというのが結論。僕が高校生だったら空気を読んでそういうことをする。でも、これがアクティブラーニングの本質だとしたなんとも悲しいことだね。ということで、僕自身はアクティブラーニングの意義は認めるし、やることに意味はあるけど、僕みたいな人の学びたいという意欲や気持ちを大きく損ねるのがこれからの新学習指導要領ってことで。
「きみが居ない方がうまく議論ができた」と思うとかそんなことを真正面から言われるぐらいなら、非協力的態度で本を読んでた方がまし(僕の興味は論文に書けるような新規性のある議論であって、それを目指した学びを欲しているのだから)という感じだったよ。でもアクティブラーニングっていじめの原因にもなりうるし、こんなこと多分、学校でも起きるんだろうなって。
誰かの欲している学びと誰かの欲している学びが衝突したときに、できるだけ各個人の自由を実現できるような教育の多様性を担保することを目指して行こうというのが苫野一徳先生の主張で、学びの共同体論欠けている部分。『道徳を問いなおす リベラリズムと教育のゆくえ (ちくま新書)』 河野 哲也 にも関連議論あり。
基本的にはアクティブラーニングの問題点については論文書きたいぐらいの気持ちでいるぐらいに、脱落者のことを全然フォローする気がない人ばかりで怒りで爆発しそうな感じなので。だからといって別にアクティブラーニングのアンチという訳でもないですよ。意義はあるし、これでいいとも思っている。
先生を目指す人がアクティブラーニングについて盲目に信仰されても困るし、かといって、アクティブラーニングが成果がでないとかいう主張も確かにそれなりに正しいけど、全面的に支持することはできない。つまりアンチでもない。だから、授業で先生が僕に対してアクティブラーニングにも良いことがあるから認めていこうというようなことを言っていたけど、僕の主張そのものであるし、かといって、僕がいいたいことが先生に伝わらなかったということでもある。脱落者をどうフォローすべきか、だれかの教育における自由を尊重する代わりに、少数の自由を犠牲にしていいのかという教育哲学の基本的な話を学びの共同体論において主張しただけ。
自分の考えがないというけど、正直あの授業のなかで自分の考えがあるものってほとんどなかったように思った。せいぜい「生きる力」のぺたぺた貼っていたひとたちの発表ぐらい。ほかは、新規性ゼロ。その授業で各個人は学んだと思っているかもしれないけど、せいぜい本に書いてあるようなことを自分で再発見しただけ。全然学術的に貢献する気がない。新しいことを発見する気がない。これまでに積み重ねた議論を尊重する気がない。そういう人が教員になるのなら、僕のような人は授業において苦しむんだろうし、その苦しみとか怒りを分かってくれる人は少ないんだろうなって思う。学びの共同体論の本質は、必ずしもその場の利害の調整というところにだけ注目するべきではない。過去の人の積み重ねを尊重するという意味での、学術的な学びの共同体というものもあって、大学における教育ではacademicを目指す人だっているのだから。
僕の立場はけっこう珍しい方で、ネットの割と真面目に教育に携わっている人は基本的にアクティブラーニング否定派ばっかり。だから僕みたいなアクティブラーニング肯定派(しかし個別化のフォローも大事)というのはかなり少数(苫野先生もここまでのこと書いていない)。正直、この部分が卒論になってもおかしくないぐらい、新規性のある議論だし、重要な論点だと思っている。こういった主張を本やブログ、論文で読んだことはない。
アクティブラーニングは失敗するが、アクティブラーニング肯定派だから、いろいろ突っ込まれることあるかもだけど。
苫野先生は個別化も一緒に並行して実現していこう、だからフリースクール作るよっていう立場。
2018/8/28
アクティブ・ラーニングには、メディア活用が重要なのではないか。
大学では特にScrapboxなどは有効に活用していこう。
Twitterに書いて、そのあとScrapboxに文脈を考えて投げるというのやってると、 KJ法みたいな、分類思考を経てる感じがするな。
他人はどうにもならないから、他者の行動変容のためのコスト負担は合理的に行うべきだと思ってるけど(たとえば動画や録音、ブログ等で使い回すとか)、自分に対しては、ここまでやらないと理解したとはいえないみたいに、積極的に責める傾向があるので、精神が削られていくわ、
知的レベルや関心を揃えないと議論がうまくいかなくなることがある。
現在は、議論したいことがあればオンラインの勉強会で、自分と同じレベルの学習者を集めることが理屈では可能。
大学へ行けばいいというのは、僕みたいに大学に入れる学力がないこともあるし、難しいね(学費が高いところは行きたくないし)。
誰にとっても易しいユーザーフレンドリーな場所を作ることを目指すという意味でインクルーシブ教育の文脈を、そのままオンライン勉強会に適応してもよいものか。アクティブ・ラーニングだと、グループ構成はレベルを揃えるという話があるが、人数が多ければROM専を排除しなくてもよい気がする。
教育資源は有限である。アクティブ・ラーニングで、特定の学生が教える側に回らざるをえなくなったり、書籍での知識習得の時間が対話の時間に強制的に置き換わらざるをえなくなるならば、それは特定の学生の効用を大きく変動させる要因とみなせるのではないか。オンライン勉強会でも同様である。
Tackerさんのツイートを読んでるとき、本当はひとつずつ注釈をつけながら読んでいかないと「読めてない」「理解してない」感が強いんだけど、いちいちコピペしてコメントを入れるのがPCならともかくタブレットだときつい。もしこれが対話なら、もっときつい気がする。それと似たようなことが、大学のアクティブ・ラーニングの授業でも自分の話しているときに起きてるみたいなんだよな。自分は極力、Scrapboxとかでフォローすればいいかなと思ったりもするんだけど、どれくらい伝わってるのかフィードバックが少なくてわかんないよな。評論文で、国立2次とかセンター試験の問題でパラグラフリーディングやるじゃないですか。段落ごとに番号つけて、ディスコースマーカーチェックして縮約して、意味段落でさらに縮約する。最終的にそれぞれの番号がどのような関係にあるか図式で整理する。こういう流れを意識して喋ると難しくなりすぎる。対話なら、そこをもっと詳しくとか、縮約や拡大を発話者の立証責任にして、発話者に負担を強いるということも可能なんだけど、そこまでするなら、まず時間をかけて自分で十分考えてからのほうが(同じ質問を二度も三度もできないので)生産性が高い気がする。
自分の才能を信じてるからこそ、学校教育において無駄に思えるような学習をしているときに、「いまこういうやり方で学んでいれば、もっと可能性が開けるのに」って思うんだろうな。
無知な人が知ったフリをするなと言われやすいメディアが市販の本だったり、ブログだったりするなら、一方で、学びたいけど無知な人が、仮に無知だと批判されても、それが許されるメディアが、たとえばインフラ勉強会の特定セッションのDiscordとか、そういうルールにしたScrapboxとか。
アクティブ・ラーニングで、この人しゃべらないけど、
①ついていけていない(後でScrapboxでフォローするか)
②自分の考えがまとまってない(どこかに書いて後で共有すれば?)
③自分の考えが議論の方向から外れてる(上に同じ)
④話すより聞いたほうが楽だ(一応全員話すことがルールなので)
⑤
一人の先生が30~40人のことを考えて行動するなんて、ベストエフォートでしかないし、たとえば、各個人がScrapboxみたいなのに自分の考えをメモするようにさせて、特定のキーワードの組み合わせでマシュマロみたいに検知して担任にアラートを出すとかしないと「担任が物理的に検知できない」ことある。
インフラ屋なら、自分が運用してるサービスのプロセスのうち、どこをどのように監視していけば、サービスが危機的な状況にならないように阻止できるかという観点で教育を考えるかもしれない(バトンパス)。
誰にとっても易しいユーザーフレンドリーな場所を作ることを目指すという意味でインクルーシブ教育の文脈を、そのままオンライン勉強会に適応してもよいものか。アクティブ・ラーニングだと、グループ構成はレベルを揃えるという話があるが、人数が多ければROM専を排除しなくてもよい気がする。 教員志望の人が、ひとりひとりの生徒のことを考えると、「考えすぎて」疲弊してしまうがどうしたらいいの?という話をされていたけど、僕からいわせれば、自分のクラスの生徒の観念の総体の何%にあなたはアクセスできるわけ?みたいなこと思ってしまうな。彼らはサインでそれをどの程度提示する?
今のバイト先で、全然社員と交流できなかったんだけど、一つは僕がお金なさすぎて外食しなくて、食事時間を揃えるということをしなかったこと(ラノベ読んでた)、自分の役割は完全にコモディティ化していて業務時間はそれに見合った仕事をするだけの毎日だったこと。コミュニケーションコスト高の会社。コミュニケーションコストをもっと負担しないといけなかったのか(とはえいえメリットがそこまでなかった)、それともどうせ考えてることはダダ漏れで、Twitter垢とかも全然リアルの人に隠してないから、コミュニケーションコスト負担を相手にもかけるべきだったのか(場合によるかも)。Twitterをフォローしてもらうというのは、僕の考えてることを知ってもらうという意味でのコスト負担を相手に強いることなので、僕自身もあまり気乗りがしないんだよな(同級生でもTwitter勧めてもやらない人多いし)。食事とかのタイプのコミュニケーションが当たり前という主張はちょっと傲慢だよな。せめてTwitterのフロー情報に対して、ブログとか Githubとかストックレベルまで情報蓄積がしっかりしていれば、そっちを紹介するけど、全然そういうところまでいってないしな。自分の発言に価値がないのに、聞いてもらいたいということがおこがましいんだよな。機会費用などの経済的合理性の観点ではそうなる。でも、そういう暴力的な対話を無理やり成立させようということに意味をもたせようとしているのがアクティブ・ラーニングという教育法なんだよなあ。
よくSFで他人の頭の中で考えてることを透視できるという話があるけど、もし他人のツイートからその人の考えてること全般が復元できたら、そしてそれをうまく形にできたらいいのにっていつも思ってるけど、(思うだけで)真面目に他人のニーズを分析したことないなあとか考えてる。
よくファシリテーションで行われる、他己紹介というの意外とあなどれないのではないか。断片から積分定数分のズレがあったとしてもその人の思想を積分してみるとか、断片の整合性を尊重して整理するとか、もっと他人に興味をもつべきなのかな。
他己紹介されると、「正確には違うんだけど、まあいいか」みたいなことを思ったりするんだけど、よく考えてみたら、真面目に聞いてもらってこれなんだから、もっと多くの人の頭にはどんな形で自分のことを認識してもらってるかなんてわかんないんだもんな。
正しく自分の思想を理解してもらいたいという欲望を持っている人がいるのだと思うけれど、大抵の場合、その人と接点がある人でさえ、スキーマに合致したことしか受け取れないし、レッテル貼りで認識してるわけで。自分もこの人はこれができるとか、あれを書いた人だぐらいの認識で処理してる。
シンギュラリティーが来ることはおそらくないので、ミカサネットワークみたいに自分を複製して、思考リソース分配とかできない。協調学習というのは、異質な他者同士で思考リソースを同じ目的に費やすということで、単体の人間にできないことへの実現を目指すという意味で妥協策なんだよな
知的分業は、特定個人が、複数の分野にリソースを回すのは生産性の観点で望ましくなく、比較優位で特定の分野に思考リソースを費やして、他の分野はそれを得意な人に任して、その成果を受け取るほうがより多くの利益が得られるということなんだよな。
ちょうど無料で8巻まで読めるハイキューを読んでいたので、この漫画でたとえると、 及川みたいにチームの特性や考えてることを理解して、彼らのパフォーマンスを最大化できるような介入をできるかというような話に近いな。
特定のツイートの情報量を1として、そのツイートの発言者が念頭においていた議論が10なら、自分が100ぐらい推定して、そこから前後のツイートをみて文脈を規定して30ぐらいのカテゴリに入る議論かなって思うような部分を意識して返答をするみたいなことを繰り返すなかで噛み合わせていくのが対話かな?
100ぐらい思いつけば噛み合っていくけど、10ぐらいしか思いつかない場合、そもそも相手の情報を受け取るために、色々と特徴的な情報を投げないといけないので、対話のコストは高い気がする。こういう定量的な観点の議論が載ってるコミュニケーション論の本、前に読んだことがあるかも。
10話して、1しか受け取れない人と、6受け取れる人を等しく扱うことは、公平かという話があって、例えば録音を許してもらえば、1しか受け取れない人が8受け取れるようになるかもしれないし、書き起こしをすれば後で検索して再度聴き直す手間が省ける可能性も高まるみたいな話。
貿易における流通の保証とか、3分間ネットワークで扱われてるようなプロトコルの話とか、コミュニケーション理論の話とか、はたらく細胞みたいに体内の血液循環とか、メタファー的に似たようなものがあって面白いんだよな。
本を読まない人は、マウンティングされると「知ってる自慢乙」とか思うのかもだけど、たくさん本を読む人が、読んでいない本や知らない理論や学問分野を前にするときは「そんな面白そうなこと知らない自分の人生勿体ない」ぐらいに思うから、その辺り気をつけないといけないと最近思った。
アクティブ・ラーニングというのは「教えてください」ということを頼むための練習なのかな。
インフラ勉強会みたいに、「教えます」「教えてください」という関係がうまく成り立っている場所ならハードルは低いのと同様に、学校教育でもハードルは低くなるのか?生徒に聞くのはハードルが低いのか?