教材研究も大切だけど学習研究もしなきゃね
子どもたちと思考を楽しむための教材研究(目標思考)
単元に入る前には、当然、教材研究が必要です。それがなければ単元の目標や評価基準を設定することができませんよね。だいたい、その単元に関わる質問に対して論理的に即答できるレベルにはしておきたいところです。子どもたちを自由に学ばせるとなると、それだけ子どもたちの思考に幅ができます。授業時間中に多種多様に展開する子どもたちの思考を理解し、臨機応変に対応できるだけの知識構造は持っておかないと、子どもたちの学びをマネジメントすることはできません。
それ以前に「学び方」に関する研究を(手段思考)
子どもたちが自由に学ぶ教室は、一斉指導が行われている教室のような“秩序”はなく、混沌とした状態になります。それを放っておけば当然、深い学びなど生まれませんし、その空間で指導者が「単元に関する知識」だけを持って臨んでもその空間をマネジメントすることはできません。なぜなら子どもたちが自由に学ぶ教室では教材内容に関わる多種多様な思考が展開されると同時に、その方法、つまり「学び方」もまた、様々な現れ方をするからです。1人で黙々と思考を深める子、大人数でワイワイと話し合おうとする子、書いて考える子、寝転びながら悩む子、もしその学び方が、目標状態に至るために選択されているのだとすれば、どれも尊重すべき方法であることは確かですが、それらの学び方がどういう効果があるのか、その学び方の先にはどんな学びをするべきなのか、その方法のデメリットは何か。教師がそういうことを判断し、子どもたちにフィードバックできなければ、そこはなんでもありの崩壊状態になってしまいます。子どもたちに学び方まで自由に選択させるのなら、指導者はその学び方についても深く研究しておく必要があるということです。ここにも「正しさ楽しさの両輪構造」があります。
この時、「けテぶれ」が「学び方に関する正しい知識」として教師と子供の間で共有されていれば、子どもたちと同じ思考基準で学ぶことについての理解を深めていくことができる、ということです。これは指導上、大変有効な構造ですね。
目的への意識。まず描け。(目的思考)
更に前に遡ると、これら教材研究と学習研究は、確固たるビジョンを前提に作用するということを忘れてはなりません。本書で言うなら「序章」に書いたような内容です。これが頭から抜けてしまえば、単元の学びは単元の中に埋没してしまいますし、何のために自由な空間で学び方を探求しているのかわからなくなってしまいます。「ある目的」は、より大きな目的の前では「手段」となります。手段の目的化は、小さな目的しか見えていない時に起こるのです。指導者として常に意識したいのは「より大きな目的を常に描く」ということです。これをビジョンといったりしますね。このビジョンを説得力を持って魅力的に描けなければ、子どもたちの学習活動は陳腐なものになっていまします。教育効果とは、「(教材研究+学習研究)✕ビジョン」で算出されるという感覚です。