チャレンジには安心を
チャレンジするのは怖い
けテぶれは特に、先生の言うとおりにやっていればそれでいいというわけではなく、自分で考えて自分で動かなければならない。これは子どもたちにとっては結構厳しい環境となる。
この時、教室が「安心できる場所」になっているかどうかはとても大切な視点。
安心できる場所とは具体的に、「否定されない」場所だ。
自分の言動や、存在そのものが誰かから否定されない空間になっていないと、自由に動くことなんてできない。
なぜなら、自分で考えて自分で動くとは、そのまま「自分」を表現することになるからだ。
どんな行動もどんな発言も、だれかから矯正されることはなく、その場で自分が思考し、判断し、表現していることになる。
その「自分」が否定される可能性のある空間ならば、決して自分で動く気にはなれない。
自分の行動が誰かから命令されたコトならば、否定されてもそれほどダメージはない。なぜなら責任転嫁できるからだ。
否定されたところで、この行動をするべきだと、思考し判断し表現したのが先生であるなら、「わかるわ。ダルいよな」で済む。
だが、その行動が「自分で思考し、判断し、表現」していることであると、そうはならない。これが怖いのだ。「自分」そのものを否定された気持ちになるし、否定されるのならば、「自分」なんて出したくないだろう。
「自分」が出せなければ、「自由」にする意味はない。
なぜ自由にするか。それは「自分」と出会うためである。
自分で学習できるようになるためには「自分」をちゃんと捉えて置かなければならない。当たり前の理屈である。
自転車を乗りこなすためには、自転車についてわかっていないといけない。
学びの海を
「否定」の雰囲気がある空間では、決してこういうことはできない。