ゆるアツ学級経営
◯なぜ荒れる?
なぜ荒れるのか。先生は自分たちのことをわかってくれていない。そういう感情が重なるから。それだけだと思う。ではそういう感情がいつ生まれてしまうのか。それは無思考に子供たちを縛ろうとしたときです。例えば「廊下は静かに歩きましょう」なぜこれをいうのでしょうか。なぜ子供たちはこれに従わなければならないのでしょうか。「学校のルールだから」で子供たちは納得しているのでしょうか。納得していると見えるその子は実は諦めているだけではないでしょうか。
先生とは子供たちに何かを強制できてしまう存在です。だからこそ、こういうことにはとびきり敏感にならなくてはならないのだと思います。徹底的に子供目線で出来事を観察し、語ることが大切です。例えば音楽室に行くとき、普通教室の前を通らなくてもいい教室もありますよね。じゃあ、静かに歩く必要はないじゃないか。そんな思いは当然子供たちの中に浮かびます。そういう思いに寄り添わず、ただ黙殺してしまうと、子供達の心は離れていきます。
ではどうすればいいのか。いろいろな段階がありますが、まずは共感する。それだけでも大きく違います。「学校のルールでは授業を邪魔しないように静かに歩きましょうってなってるけど、この教室は音楽室まで授業中の教室の前を通らなくてもいいもんね。だからここは騒ぎまくってもいいかもね笑」と。するとここからたくさん意見が出てくることは予想できますよね。「今年は良くても来年はちがう」とか「図工室には静かに行かなきゃいけないから、切り替えが難しい」とか。おそらく抽象化すると、「音楽室へはそれでいいかもしれないが、それでは廊下を静かに歩くというスタンダートが崩れて本当に静かにすべきタイミングでしずかにできなくなるのではないか」というような話になるのではないでしょうか。ではまず図工室への行き方は完全にできているのか?など、どんどん話が進みます。子供達の状況に共感さえすれば、そこから見えるズレにクラスみんなで考えることができるのです。
この時、教師は子供たちと同じ方向を向いていることに気付いてください。子供達の上に立って、ルールを押し付ける存在ではなく、みんな知っているルールと、自分たちの置かれている状況を比べて解決策を一緒に考える存在です。そういう態度が子供達に伝われれば、こどもたちの心が離れていくことはないのではないかと思います。
◯ゆるアツという考え方
具体のお話から抽象のお話を少ししようと思います。僕の学級経営は「ゆるアツ」です。ゆるくてアツい。学級経営においては子どもたちの内側にもっているステキな面を出せる環境を作ることと、子どもたちの外側にある価値を確実に一人一人に受け取らせることの両方が求められます。前者だけでは子どもたちの成長は鈍ってしまうし、後者だけだと子どもたちは仮面を被り、本質を内側に隠してしまいます。
廊下の例で言うと廊下のルールについて思ったことを言えるゆるい雰囲気づくりがまず大切だということです。でもそれだけでは成長は鈍い。僕たち教師は子供たちを一人残らず「成長」させるために働いています。だから、君たちを一人残らず伸ばすのだ。という思いのもと、徹底的に考え抜き、語り抜く覚悟がなくてはならないのです。これがアツさとなります。子供の立場に立ってともに考えると同時に、クラスのだれよりも深く広く子供達の学びや成長について考え、語る。そうやってはじめて教室は「学びの場」となるのだと思います。
では「廊下を静かに歩く」というルールを通じて、どうやって子供を伸ばすのか。ここはご自身で考えてみてください。子供に強制するからには自信と覚悟を持って、その教育的価値を子供達に語り抜かなくてはなりません。そいういう語りは、誰かから与えられたものではなく、自分の内側から紡ぎ出したものである方がいいと思うからです。
◯ゆるさ
ゆるい部分。これは先生と生徒の間に変な緊張関係を作らないようにという意図があります。こどもたち、いえ、人間ははすぐに仮面を被ります。人はこの仮面を使い分ける動物であるとも言いますが、仮面を被っているうちには真の成長とか変容とかいうものは訪れません。素の自分でいられること。その自分を誰にも否定されないこと。こういう環境を作ることで、子供たちは仮面を被っていない素の自分と向かい合うことができます。子供たちに深く根付く成長のきっかけはこういう環境でこそ生まれるのだと思っています。仮面の模様を変えたところで、所詮仮面は仮面ですからね。
ではそういうみなが素の自分を出せる「ゆるい」空間を作るためには何をすればいいのか。それは教師が素の自分を出すことです。僕は「教師たるもの役者であれ」ということばが嫌いです。人間同士の関わり合いの中に、そのような薄っぺらい偽りがあってはならないと思うからです。それはあまりにも子供たちを甘くみている。子供を甘くみると子供に甘くみられる。その理屈と同じで、教師が素を出すから、子供も素を出せるのだと思います。
だから僕は素の自分を出す。友達といる時、家族といる時と、教室で過ごす時のぼくは何の違いもありません。ぼくは、ぼくのまま、教室に存在しています。できないことはできない。得意なところは得意。ストロングポイントとウィークポイントをはっきりと示し子供たちとしぇあしています。具体的にいうと「学ぶことに関すること、生きることに関すること」については徹底的に考え抜いている。でも、字を手丁寧に書いたり、細かい準備をすることはとっても苦手。暗算も苦手。歴史の知識も、歴史好きの子に負ける。そんなの当たり前です。目の前にいるのはもう、人間10年目の人達なんです。10年あれば何か人より優れたものを持っていて当たり前です。そういう状況に出会った時、ガッコウだから、とかキョウシとして、とかいう仮面に気を取られて、自分の素の反応を隠して仮面をかぶってしまえば、関係は崩れていきます。いろいろな仮面をとっぱらって、人と人として付き合う。教室を学びの場とするには、そういうことが必要なのではないかと思います。
◯アツさ
アツい部分。学級経営はゆるアツです。「ゆるゆる」は「ダラダラ」につながります。こうなると、学級は簡単に崩れていきます。学級にはアツくなるものが必要なのです。(逆にアツアツ=キツキツです。過度にあるべき姿を押し付けられるようなきつい環境では、教師の価値基準で友達の行動を測り、厳しく非難し合うような学級になってしまいます。)
どうやって教室にアツさをもたらすか。それは教師がアツくなること。それだけです。では教師はどうやればアツくなれるか。それは徹底的に考え抜くことによってです。前提を疑い徹底的に考え抜いて、仮説を立て、やってみる。結果からまた考え、本を読み、人と話し、自分の考えに磨きをかけていく。アツく磨かれた思考からでる言葉は、教室にアツさをもたらします。暑苦しく大声で叫ぶだけでは、子供たちは逆に冷めていきます。静かな語り口でも、その言葉が徹底的に磨かれた思考から出た言葉であれば子供たちの心に火を灯すことができます。まず、僕たち教師がプロとしてやるべきことは子供たちに投げかける言葉に徹底的にみがきをかけることだとおもうのです。僕たち教師は子供たちを一人残らず「成長」させるために働いています。だから、君たちを一人残らず伸ばすのだ。という思いのもと、徹底的に考え抜き、語り抜く覚悟がなくてはならないのです。(そういう努力の中から生まれたのが「#けテぶれ」「#QNKS」「#心マトリクス」といった実践です。これらの”言葉”を子どもたちと共有することで、アツく語った時の伝わり方がより深くなると思っています。)
でもそんなの自信がない。そう思うかもしれません。ぼくも経験を重ねなながら、年々その柱を強く美しくしていっているという感覚があります。逆にいうと、1年目2年目の柱なんて貧弱でたよりないものだったということです。初めから何もかも結論を出し、言い切れるはずがありません。そういう時は「ゆるアツ」のゆるの方を思い出してください。素の自分を出す。わからないものはわからないと言えばいいのです。その時には、どこまでははっきりしていて、どこから先がわからないのか。きっちり整理して、状況を子供達と共有しましょう。そうすることで「先生は目の前の問題について、あくまでも子供たちと同じ土俵に立ち、同じものを見、この教室のだれよりもアツく考えている」ということが子供たちに伝わります。この教師アツさがこどもたちの心に火をつけるのです。自分たちの学びを充実させるために、この人はとっても真剣だな。と思えば、多くの子は顔を上げてくれます。実際、僕自身もふだんはユルユルで、子どもたちと馬鹿なことをして笑い合っていることが多く、子どもたちも全く緊張感なく僕と接していますが、僕が真剣に話し始めると、子どもたちの表情はキリッと切り替わります。ゆるからアツへきりかわるからこそ、受け取る態度が取れるのかなと思います。常に暑いと、お腹いっぱいになりますよね。逆につねにゆるいと、なにも受け取らなくてもいいのだと判断してしまう。ゆるアツがいいのです。
子供の立場に立って子供とともに素の姿でゆるく響き合うと同時に、クラスのだれよりも深く広く子供達の学びや成長について考え、アツく語る。そうやってはじめて教室は「学びの場」となるのだと思います。