けテぶれ✕授業〜宿題も授業も同じ〜
授業はそれでいいの?
では授業の在り方についての話に移りましょう。僕自身の話をすると、実は前のページで書いた宿題に対する問題意識を持った時、それと同質の意識を授業にも向けていました。“ただ無思考に繰り返される画一的作業的課題”これって何も宿題に限った話ではないですよね。日々の授業にも同じような性質って無いでしょうか。どの先生の授業を見ても、どの研修会にいっても、この問題意識は消えませんでした。
子どもたちの能力はそれぞれ違うのに、同じ課題を同じように、子どもたちに求めるのはどうなの?
早くできた子は、読書をして待つってどういうこと?!
黒板に書かれた文字をそのままノートに写す時間って賢くなってる?
そもそも、先生が黒板に文字を買いている時間、子どもたちはそれを待っている。そんな時間いらなくない??
隣に同じように頑張っている友だちがいるのに、その友達と離しちゃいけないってどういうこと?
挙げだせばきりがないですね。教師1年目から僕の頭には大量の疑問と違和感が押し寄せてきたのです。
そして気づいたことは「目的のズレ」でした。僕は当然学校や教室は「子どもたちが学ぶ場」としてあると思っていたのですが、どうやら多くの先生たちはその場を「子どもたちを管理する場」として捉えているようだ、と。だから“アレを許せば次はこうやって来るに違いない”とか“あいつは最近調子に乗っているから一度潰しておこう”なんて言葉が平気で出るのだと。「教室は先生が授業をする場所ではない。子どもたちが学習をする場所だ。」こんなアタリマエのことを見失っている先生が非常に多いことに気づいたのです。
授業もけテぶれ★
授業にも、宿題と同じような課題がある。で、あるならば、授業もけテぶれ的に取り組めばその課題は解決する。単純なロジックです。つまり「けテぶれ✕授業」の実際とは、宿題で子どもたちにもとめていることを授業でも同じように求めるだけなのです。子どもたちに言うのは「テストで合格点が取れるように、自分に必要なことを必要なだけ学びなさい。」これだけです。この考え方は「宿題」というフィールドにおいてとらえると納得できた方も、「授業」となると少しハードルが高くなるかも知れないですね。でも実際に僕が目の当たりにした子どもたちの姿は、いまみなさんが心配されているような姿とは正反対の姿でした。キーワードは「管理」と真逆の「自由」です。徹底的に自由な空間でこそ、子どもたちは本当の自分を向かい合い、深い学びを受け取るのです。本書ではそういう学びの場をいかに作るかということに関して、紹介します。
自由な学びの場を支える柱としてのけテぶれ★
前述したような自由な空間には、「共通言語」としてみんなが載っている土台が在ることで、多様性に質的な高まりがもたらされます。そこで「けテぶれ」が効果を発揮するのです。何の判断基準もない“自由なだけの場”では、子どもたちは何をしていいかわかりません。でも宿題でけテぶれに取り組んでいれば、とりあえず教室でも同じことをすれば自分の学びが進み始める。そういう場になれてきて、学び方に関するいろいろな工夫が生まれ始めるときにも『けテぶれ』が柱にあると、★共通の言語をもとに対話できますので、なんでもアリのめちゃくちゃな空間になることを防いでくれます。その方法は結局、計画テスト分析練習の内のどの過程を高めるための工夫なのか、という視点で自由な発想を判断できますから。「正しさ」から離れすぎた「楽しさ」は「楽しくなくなる」のです。みんなが共通に持つ学び方の正しさとして「けテぶれ」に関する知識を自分の経験とともに保有しておくことは、このような“全面的に自由な学びの場”を実現するときに非常に大切なポイントになります。